2009 年 10 月 11 日

・説教 「神の選び」 創世記11章10節-32節/エペソ人への手紙1章3節-14節

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鴨下直樹

 私たちはともに、創世記から主の御言葉を聞き続けてまいりましたけれども、その創世記の学びも今朝で最後になります。創世記からの説教の初めにお話ししたように、創世記は大きく分けると二つに分けられます。この1章から11章までの歴史以前と呼ばれる部分と、12章からはじまる信仰の歴史の部分とにです。そして、今朝がその前半部分の最後にあたるわけです。

 そしてこの朝、私たちに与えられた御言葉はこの系図が記されたところです。この創世記にもすでにこのような系図がでてくるのは二度目になります。最初は創世記第五章にアダムからノアまでの系図が載っておりました。また、系図ではありませんけれども民族表と呼ばれるものが、10章にもありました。礼拝で聖書朗読をする方は、こういう沢山の馴染みのない名前ばかりを読まなくてはならないというのは、少し気の毒な気もしますけれども、お聞きになった皆さんも、聞きながら一体ここからどういう説教をするのかと楽しみにしておられたかもしれません。創世記第5章の系図ではアダムから始まってこの創世記に名前の出て来た、言って見れば知られた名前がありますから、まだ何とかなりそうなものだけれども、この11章の系図はテラの系図とあって、最後のアブラムの名前が出るまで何も知った名前がない。そのようなところから一体何が語り得るかと考えるのではないかと思うのです。と言いますのは、ご自分で聖書をお読みになる時にも、こういうところは何となく読むけれどもそれほど重要ではないように思えてくるからです。

 先ほど、創世記第10章の民族表の話を少ししました。この10章の21節からは、セムの家系のことが記されております。丁寧に、この11章の系図と名前を比べて読んでいくと面白いのですけれども、特に25節にこう記されています。

 「エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。」とありまして、そこからつづく26節からは「ヨクタンは、アルモダデ、シェレフ、ハツァルマベテ、エラフ・・・」と、セムの家系は、ペレグとヨクタンとの兄弟で分かれまして、ここではヨクタンがセムの家系の主流であると描いているのです。 ところが、この11章のセムからテラ、そして、アブラムまで続く系図はこの主流のヨクタンではなくて、ペレグの系譜であるというふうに描いているのです。

 これはいったいどういうことかと言いますと、このテラ、そしてアブラムというのは、神の民のなかでも偉大な民族と数えられる部族ではなくて、もっとも小さな部族が、神に選ばれたのだということをこの系図は物語っているということなのです。

 そのことを丁寧に話す前に、アブラムとは一体誰なのかということをお話する必要があるかもしれません。この系図の最後に名前が記されているアブラムというのは、この後の創世記の信仰の父として名前が変わって記されるアブラハムのことです。そして、この創世記の後半は、アブラハム、イサク、ヤコブというアブラハムの子孫に焦点を当てていきまして、このヤコブが後にイスラエルと呼ばれる人物になっていきます。つまりこれは、神の選びの民、イスラエルがどのような家系からきたのかというのは、この創世記の前半の最後のところで説明をしていると言えるわけです。

 

 そこで、このイスラエルの民について語っている聖書の箇所を見てみたいと思うのですけれども、それは申命記の7章6節から7節です。ここにこのように記されています。

 

 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。(6節)

 

 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。(7節)

 

 この申命記で神はイスラエルの民に対して、あなたがたは神の宝物であると語りかけられました。

 私はこの宝物という言葉を聞くと、すぐに思い出す物があります。私がまだ神学生の時のことです。当時の私には本は何よりの宝物でした。なけなしのお金の中から神学書や注解書を購入するたびに、なんとも言えない喜びがあったのです。それは単に物によって満たされるということではなくて、書物をそろえることによって、牧師として備えているのだと実感できたからではなかったと思います。そんなある日、ギリシャ語釈義事典というのが出版されました。一冊4万円以上する高価な本ですけれども、これが三巻ものですから、貧しい学生には夢のような書物でした。ある日、私はその内の一冊をそれこそ、勇気を出して注文しました。当時、名古屋の駅の近くにCLC書店がありまして、そこからこの本が入ったという連絡が入りまして、喜んで取りに行ったのです。けれども、お金がないので、いわゆるつけで購入いたしました。本を取りに行くだけだらいいだろうと、店の外に車を路上駐車したのです。ところが、この高価な本を取りに行って車に戻ってみると、私の車が無くなっていました。代わりに一枚の紙が道路に張られています。「駐車違反で車を移動した」というのです。4万円の本代が払えないのに、さらに4万円反則金を払わなければなりません。気がついてみれば1ページ100円以上する高価な本になってしまったのです。それ以来、この本は私にとって宝物となりました。

 普通、宝物というのはそのように自分にとって非常に価値があるもののことを言います。あるいは、思い入れのあるもののことを言います。あまり価値もないし、思い入れもないもののことを宝物とは普通言いません。私にとってこの本は、忘れることのできない犠牲の結晶です。どの本にも換えがたい代金を払ったので、この本のことを私は、「私の宝物」と呼ぶことにしているのです。けれども、ここで神はそうではないのです。イスラエルの民に向かって、あなたがたに価値があるから宝なのではないと言われるのです。ここで言われている「どの民よりも数が多かった」というのは、どの民族よりも優れているという意味です。けれども、イスラエルというのは優れているゆえに、神が宝物と言われたのではなかったのです。

「事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」というのは、まさに、この創世記にあげられている系図からも良く分かるのです。数の多い、セムの主流の子孫はヨクタンの家系です。けれども、ペレグという小さな部族の中から、テラが生まれ、そこからアブラムが生まれ、イサクが生まれ、イスラエルが生まれたのです。

 神は、イスラエルの民を価値あるゆえに宝物と呼ばれたのでない。そうではなくて、「ただ、神の選びであった」と申命記は述べているのです。

 

 では、神が選ばれるのはいったい何を基準にして選ばれるのでしょうか? 私たちは神の選びという言葉を聞くと、おそらく誰もがそのように考えるのではないかと思います。それで、この朝は、創世記に先立ちまして、エペソ人への手紙第1章3節から14節までをお読みいたしました。ここに、神の選びのことが記されています。

 4節と5節にこのように書かれています。

 

 神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(4節、5節)

 

 私たちがこのような聖書を読む時に、ひとつ、よく注意しておかなければならないことがあります。私たちはこの聖書をこう読んでしまうかもしれないからです。

 「神は私たちを世界の基の置かれる前から選んでおられた」あるいは、「神は世界をお造りになる前から、誰が救われて、誰が救われないかもう決めてしまっておられるのか?」と。

 もし、私たちがそのように聖書を読んでしまいますと、もう神がすべて決めておられるのであれ、何をやっても無駄ではないかと考える。「運命」という言葉で表わされるような事柄を、私たちが考えてしまうのです。

 けれども、この聖書はそのようには書かれてはいません。ここに記されているのは「キリストのうちに選び」です。

 つまり、どういうことかといいますと、神はこの世界を創造なさった時から、すでに全ての人が、イエス・キリストによって救われるようにと計画しておられたということです。そしてその象徴が、小さな民イスラエルだったのです。

 

 創世記には何度も系図が書かれていますけれども、それは何のためかと言いますと、それはこの世界を創造された神はイスラエルという一民族のための神ということではないのです。これらの系図には、神はどんな小さな者であったとしても目を留められ、ご自分の宝物としてくださるということが宣言されているのです。ですから、この創世記は、世界の造り主であられる神が、一民族の守護神のようには描いてはいないのです。そうではなくて、神ご自身がこの世界の支配者であって、この神は、世界のすべてのものをお造りになり、すべての者を支配し、たとえそれがどれほど小さな存在であったとしても、この神は目をかけられるということがここで宣言されているのです。そして、そればかりでなく、この世界をお造りになった神は、イエス・キリストによって、どんなに神の前に小さなものであっても、その者をお救いになると、この世界が造られる前から考えていてくださったのだというのです。

 

 もちろん、この創世記を記し、この造り主である神を信じ、告白し続けてきたのは、イスラエルの民でした。けれども、彼らは、このように、イスラエルの神は、他の民族のことなど目にかけておられないのだというような書き方はしませんでした。もちろん、神が、すべての聖書の最終責任編集者ですけれども、この神は、そのようにイスラエルの民に書かせたりはなさらなかったのです。ここに、この神が、世界を創造されたときから、イエス・キリストによってすべての人が救われるようにと計画されたことが分かるのです。

 

 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による購い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(1章7節)

 

 このエペソ人への手紙から丁寧に説明をする時間がないことは本当に残念ですけれども、パウロはここで、私たちが、御子、主イエス・キリストによって私たちの罪が贖われること、そして、続いて11節ではこうあります。

 

 私たちは彼(キリスト)にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。(1章11節)

 

 この天地をお造りになられた主は、ご自分の御子、イエス・キリストによって、イスラエルの民だけではなく、御子を信じるすべてのものを神の国の国民にしようという壮大な計画を実行されたのです。この手紙を書いたと言われるパウロは、この神の壮大な計画は、天地が造られる前からであったと、この手紙で語っているのです。

 

 今、私たちの教会では水曜日の夜と、木曜日の朝の聖書研究祈祷会で「パウロ伝」を学び続けています。今、第三次伝道旅行が終わったところですけれども、この第三次伝道旅行と呼ばれる時期にパウロはエペソで伝道いたします。またこのエペソに滞在している間に、2年以上の時間をかけて近隣のアジアでも伝道をいたします。もちろん、このエペソの教会に集まっていた人々というのは、イスラエルの人々は大変少なく、ほとんどが異邦人、イスラエル人から見れば外国人の人々に伝道がなされたのです。このパウロのエペソ人への手紙はこのエペソの人々に宛てて書かれた手紙だと一般にはされているのです。最近になって、このエペソ人への手紙は、実際にはエペソの教会の人々に宛てて書かれたのではなかったのではないかという議論もあるようですけれども、いずれにしても、この手紙が書かれたのは、エペソにいたような大勢の異邦人キリスト者、イスラエル人にではなく、外国人に向けて書かれたものです。

 つまり、この世界をお造りになった神が、ただ、イスラエルの人々のためにこの世界をお造りになられたのでもなければ、イスラエル人だけを神の国の国民にしようと考えておられたのでもない。それではなくて、この世界を造られる前から、主イエスを信じるすべての人を、神の民にしようと計画しておられたのだということを、この手紙は語っているのです。ですから、この手紙を読む人は、自分はイスラエル人ではないから、このイエス・キリストと自分は関係ないとか、聖書に記されているこの天地の造り主と、自分とが一切何の関係もないと思ってほしくない。むしろ、この神は、そのように感じているあなたがたのためにこそ、神はこの天地をお造りになり、イエス・キリストをこの世界にお遣わしになり、あなた方が救われる道を開いてくださったのだと語ろうとしているのです。パウロは知ってほしいのです。この世界をお造りになられたのは、あなたの神であるということを。パウロは知ってほしいのです。イエス・キリストはあなたを救うために十字架にかかられたのだと。

 そして、もし、私たちが、この神を信じ、主イエスを自分の救い主であると信じるなら、あなたはこの神の支配される御国で生きることになると知ってほしいのです。この天地の造り主を「主」とお呼びし、イエス・キリストを信じるなら、神は私たちに神の霊である、聖霊をお遣わしになることによって、あなたが神の国の民であることを確かにしようとなされたのです。

 今、私たちは、このパウロによって、この手紙に記されているように三位一体の神の御前に立ち、この三位一体の神の救いへと招かれているのです。その時に、このエペソの手紙の初めに書かれているように、神は私たちを「天にあるすべての霊的祝福をもって、私たちを祝福してくださる」のです。

 

お祈りをいたします。 

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