2018 年 3 月 25 日

・説教 マルコの福音書6章45-56節「嵐の夜に」

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2018.03.25

鴨下 直樹

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 今日の箇所も、奇跡をあつかう出来事が記されています。奇跡というのは「しるし」という言い方をすることがあります。私は以前、神学生の頃に地質調査のアルバイトをしたことがあります。地質調査というのは、家を建てる前に、その家の地盤の強度を調べるわけです。そうやって、地盤の強度が足りないとセメントと土を混ぜる地盤改良という工事をしたり、あるいは杭を打ち込む杭打ち工事をすることになるわけです。そういう仕事はまた別の人たちがするわけですが、時々、この地盤改良の工事の現場監督に行かされることがありました。アルバイトが現場監督なんてやっていいのかと思いましたが、行ってみるとその時はそれほど難しい仕事ではありませんでした。

 ショベルカーなどの重機が入るわけですが、現場監督の仕事は、その重機が土を掘る時に、掘ってはいけない場所、たとえば下にガス管があるとか、水道管が埋まっている場所を図面で調べて、赤色のスプレー缶で地面にバツ印のしるしをつけていくわけです。そうすると、重機に乗っている人は、ここは掘ってはいけない場所というのを「しるし」を見て分かるわけです。

 なんで、こんな話をしているかというと、「しるし」というのは、「しるし」自体にはそれほど意味はなくて、その「しるし」の指しているものが大事だということなのです。つまり、奇跡そのものに意味があるのではなくて、その奇跡は何を表しているかということの方が大事だということです。

 それで、今日の聖書を見てみたいと思うのですが、今日の聖書は、こういう言葉から始まっています。

それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ・・・

と記されています。

 今日の、キーワードはこの「強いて」という言葉です。新改訳2017では、「無理やり」となっています。この「強いて」とか「無理やり」というのは、本人は望んでいないことを強制的にさせたということです。この箇所を、地図を見ながら読んでみると、見えて来ることがあります。それは「ベツサイダに行かせ」とありますが、ベツサイダはガリラヤ湖の10時の方向にある町です。ところが、最後に着いたのは「ゲネサレ」の地です。このゲネサレというのは3時の方向にある町ですから、湖の正反対にあるわけです。

 つまり、ベツサイダに向かわなければならなかったから、舟は向かい風で進めなかったわけで、風に流されて行けば、ゲネサレには簡単に着けたわけです。そういうことが分かると、この「強いて」という言葉の中身が分かってくるわけです。向かい風なのに、その方向に行かなければならないように主イエスは弟子たちに命令したわけです。

 最近、連日のように耳にする言葉でパワハラと言う言葉があります。力をもって相手を苦しめる事、悩ませることを指している言葉です。ただ、この「何とかハラスメント」と言う言葉が使われる場合は、「嫌がらせ」という意味があります。ですから、もちろん、主イエスはここでパワハラを行ったわけではないわけです。けれども、強いられるとか、無理やりというのは本人は望んでいないわけです。

 そして、ここが大事なのですが、そのように弟子たちが望まない試練を受けている間、主イエスは何をしておられるのかというと、そのあと聖書は続いてこう記しています。

ご自分は、その間に群集を解散させておられた。それから、群集に別れ、祈るために、そこを去って山の方に向かわれた。

ここから分かるのは、主イエスはただ、弟子たちを強制的に試練に合わせるのではなくて、その背後で祈っておられることが分かるわけです。

 自分のやりたくないことをやらされる。これは、子どもの時から私たちの誰もが通らなければならない関門です。それを避けて成長はありません。自分のやりたくない事でも、自分の課題にコツコツ取り組むことで、基礎的な力がついてきて、さらに他のことができるようになるわけです。オリンピックとかパラリンピックがここのところ行われました。私たちは、スポーツ選手はそういう厳しい道を通って一流と言われる選手になることを誰もが知っています。けれども、人として成長するために、他人から課題を課されて強制されると私たちはそれを嫌がらせだと感じてしまう。パワハラだと感じてしまう。

 陰湿ないじめのような嫌がらせと、人として成熟するために必要なこととの見極めがどんどんできなくなってしまっているのではないかと感じることがあります。私たちが、もし誰かに何かを強いるならば、それがたとえば親子であろうと、嫁姑の関係であろうと、仕事の上司と部下という関係であろうと、夫婦の関係だろうと同じことですが、ここに示されている主イエスのように、そのために背後で祈るということなしに、その人の成長もまた、ないのだということを知らなければなりません。

 実は、今日の聖書を注意深く見てみると、主イエスが弟子たちに課した試練というのはどういうものであったのかが分かります。47節

夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。

とありますから、少なくとも夕方の前の時間には弟子たちは舟に乗っていたことが分かります。そして、48節。

イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ・・・

とあります。夕方前から船に乗っていたとすると午後三時くらいには舟に乗ったと想像できるわけです。ところが、向かい風で悩んでいる時は、夜中の三時です。ガリラヤ湖というのは直径10キロありません。ベツサイダからゲネサレという湖の幅を考えて見ても7キロか8キロというところだと思います。琵琶湖の五分の一くらいの大きさです。時速8キロで進めば1時間で着くわけですから、どのくらい進まなかったか分かると思います。もう、舟をおりて歩いて行った方が断然早いわけです。それを十二時間、「漕ぎあぐねて」とありますから弟子たちは舟を漕ぎ続けていたわけです。

 マルコの福音書の一連の流れを思い起こしていただきたいのですが、弟子たちは主イエスから伝道に遣わされて帰って来て、疲れているから休みなさいと言われて休むつもりだったのに、大勢の群衆が押し寄せてきて、休むどころか男の人だけで五千人の人たちの食事を出して、その足でまた舟に乗り込んでいるわけです。45節の冒頭の「それからすぐに」というのは、そういうことが含まれているわけです。つまり、ずっと休んでいないわけです。それに加えて、また12時間舟を漕ぎ続けさせられている。52節には「彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」と書かれているのですが、何となく弟子たちの気持ちが分かる気がするのです。確かに、主イエスは凄いお方なのですが、目の前ですごい出来事が起こっても、五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人の人がお腹が一杯になるという奇跡を目の当たりにしても、自分の心はまだ置いてきぼりになったまま。そういうなかで、強制的にまた舟を漕がねばならない。へとへとでそれどころではないということだったのかもしれないのです。

 しかし、主は違います。主イエスには明確な意図があって全てのことを行っているわけです。主イエスは、パンの出来事の後、心を堅く閉じてしまっている弟子たちを、強いて舟に乗り込ませ、訓練しようと思っておられる。それは、まさにここで、こんなはずではなかったと考えている弟子たちの考え方を改めさせようとするためと言ってもいいわけです。

 先ほど、読んだ48節の続きにはこう記されています。

夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。

 これもまた、興味深いことです。疲労困憊の弟子たちに、真夜中、主イエスは湖の上を歩いて近づかれ、そのまま通り過ぎてしまおうというのです。

 「いじをやかせる」と私の家ではよく言ったのですが、日本語を調べてみたらそんな言葉はないようで、ちょっと説明に困るのですが、相手をからかうためにちょっかいを出す、そういう時に使います。どこかの方言でしょうか。この主イエスの行動を見ていると、そんな言葉をちょっと思い出しました。まるで、困り果てている弟子をからかうような、主イエスの行動です。ご自分で舟に乗り込ませた弟子たちは、逆風の中必死で舟を漕ぎ、ベツサイダに向かおうとしているのです。気が付くと夜中の3時。それでも気を緩めれば反対方向に舟は進んでしまう。そんな弟子たちを横目で見ながら湖の上を歩いて通り過ぎるおつもりの主イエスというのは、よく考えるとユーモアにあふれた方なのかもしれません。

 しかし、当の弟子たちは必死です。49節をみると、弟子たちはそれを見て幽霊だと思って叫び声をあげてしまうのです。その驚き慌てふためく弟子たちの姿というのは、主イエスが祈りながら訓練しようと思った結果だったのかどうか。普通に考えれば、失敗ということだったと思うのです。

 けれども、こういう出来事がここに記録されている。よく考えて見ても、どれほど意味のあることだったのかと思えてくるわけです。しかも、このあとの53節から最後の部分というのは、もうこれまでの日常と同じような場面になっています。まるで振り出しに戻ったような感じがします。

 はじめに、このキーワードは「強いて」という言葉だと話しました。主イエスは、弟子たちが望んでいなくても、強制的に訓練をなさるのです。そのために祈りながら、苦労している弟子たちに近づかれて様子を見ようとなさるのです。何を主イエスはしたかったのでしょうか。

 弟子たちはここで、前に進まない舟と、風上であるベツサイダに行けと言う主の命令に腹を立てていたかもしれません。なぜ、こんな大変な目に合わなくてはならないのか、どうして自分たちばかりが、こんな役割を担うのか。考えてみると、弟子たちは前にも似たような状況を経験しているはずなのです。前は嵐の中で、舟に水が入り込むような状況でした。その時、主イエスは寝ておられたのです。前回の教訓を生かすなら、主により頼むということだったかもしれません。そう考えれば、目の前に人が現れたら、主イエスだと考えてもよさそうなものですが、よりによって幽霊だと騒ぎ立てたのです。

 その横を主イエスは通り過ぎようとしておられる。いじをやかせているということでないとしたら、その姿を見せようとしているはずなのです。なぜ、前に進めないのか、止まっているのか、絶望しているのか。湖の上を歩いてだって前に進めるのだということを、ここで主イエスは見せておられるのです。
見るべきものは何か。気付くべきことは何か。主はそのことを弟子たちに問いかけておられるのです。それは、主イエスがおられるというのは、どういうことかということです。

 主イエスがおられないということを経験してはじめて弟子たちは、主イエスがおられるということがどういうことかを知るのです。主イエスが共にいないならば、目の前の問題を打ち破ることができないのだということを、ここで弟子たちは味わうことになるのです。

 主イエスがおられない、舟は前に進まないような状態で、夜を迎えているのです。今日の説教題を「嵐の夜に」としました。嵐の夜、弟子たちは湖の上を歩いて来る主イエスと出会います。しかし、弟子たちは主イエスだと認めることができず、恐れるのです。恐れの原因とは何でしょうか。相手は、本当は主イエスなのです。けれども、弟子たちは自分の頭の中で考え付く不安や恐怖が先に立ち、本来見えるはずのもの、今、もっとも必要なお方を目の前にしながら恐れてしまっているのです。嵐がすべてを見えなくしてしまうのです。闇が、自分の目の前に立ちはだかる壁が、見るべきものを見失わせ、ただ、恐れに支配されるようになってしまうのです。それが、この弟子たちの状況なのです。

 そういうなかで、主イエスは弟子たちに声をかけられます。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」

50節です。嵐の夜に、恐れの闇の中で響いて来たのはこの言葉なのです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」
 この主イエスの言葉は、この暗闇の中にあって、恐れの真っただ中にある弟子たちにとってどれほど力強い言葉だったことでしょう。

 私たちは、主イエスが共にいてくださるということを頭では分かったつもりになっています。けれども、私たちが逆風で前に進めなくなる時どうでしょう。嵐の中に身を置かなければならない時、へとへとに疲れ果てている時、私たちの中から主イエスはどこかに行ってしまって、神よ、どうして私を一人ぼっちにするのですかと叫びたくなるのではないでしょうか。いや、ほとんどの場合、祈ることも忘れて、ただ夢中でひたすらに舟を漕ぎ続けることしかできないのではないでしょうか。

 弟子たちは、おそらく、主イエスのことを忘れていたのです。祈ることもしなかったし、前にあった嵐の時のことを思い出しもしなかったのです。けれども、このまるで無意味に見えるような一連の出来事がこうして記録されているというのは、ここで主イエスが語られた言葉が、弟子たちの心に深く留まったからに他ならないのです。

 見るべきものは何か、聞くべき言葉はいったい何か。試練の中でこそ、嵐の夜であったがゆえに、この主イエスの言葉は忘れられないものとなったに違いないのです。

 今日の、最後のところで、主イエスはまた人々の中でいやしの奇跡を行っておられます。自分の困難な状況があって、主イエスと出会って、助けてもらう。それが、群集の姿です。

 しかし、主イエスの弟子たちもそれと同じであるとしたら、主イエスの弟子と呼ぶには相応しくないのです。自分の願いを叶えてもらう人々を見続けている時に、弟子たちは、主イエスの本当の姿を見失ったのです。五千人の人が五つのパンと二匹の魚でお腹がみたされる姿を見ても、願いを叶えてもらった人の顔ばかり見ていたとしたら、何も分からないままなのです。奇跡だけに目をとめてしまって、その背後に何があるのかに目をとめないなら、大切なことをつかみ取ることができないのです。

 主イエスは、強いて、嵐の夜に舟を漕がせるお方です。疲れ果てた弟子に、さらに12時間舟を漕がせるようなことをさせるお方です。見るべきは主イエス、聞くべきは神の言葉。そのことを祈りながら、弟子たちに教えようとされるのです。このことが、私たちの毎日の生活の中に必要不可欠なのです。

 今週で二家族が芥見教会を離れます。また二人の青年が芥見を離れます。それぞれ新しい地での生活が始まるのです。きっと、その新しい生活の中で、何度も、何度も逆風を感じることがあるでしょう。何度も、匙を投げたくなる時があるでしょう。何度も嵐の夜を経験する日が来るでしょう。どうか、その時、思い出してほしいのです。主イエスはその時、一人祈っていてくださることを。そして、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」という主の声を何度も、何度も聞いて欲しいのです。
 この言葉が聞こえて来るならば、私たちは勇気を持つことができる。そこで奮い立つことができる。そして、何よりも、深い平安を持つことが出来るのです。

 お祈りをいたします。

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