2018 年 4 月 22 日

・説教 申命記 4章32―40節 「避難と訓練」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 12:57

2018.04.22

鴨下 直樹

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 今日はファミリー礼拝です。この礼拝の後で、避難訓練を行います。とても短絡的と思われるかもしれませんが、そういうこともあって、今日の説教題を「避難と訓練」としました。

 私ごとで始めて恐縮ですが、私が小学校四年生の夏休みの時に、家が火事になってしまいました。第一発見者は私です。今から思うと、いつ火事になってもおかしくなかったような建物だったのだと思います。一階の風呂釜の炊き出し口の周りを覆っていたトタンの下にあった断熱材に火が引火してしまったのです。トタンの下の断熱材が炊き出し口の火の出ているところにむき出しに出ていたんだそうです。ガス窯から出ている炎が断熱材に引火して、その火が一階の風呂場の壁を燃やして、二階にあった台所にまで燃え広がりました。

 その時、私たち家族はリビングでくつろいでいました。となりの台所から何やら物音が聞こえてくるので、私と母が様子を見に行きました。台所の扉を開けると、すでに火が屋根にまで届いているのが見えました。すぐに「火事だ」と大騒ぎをして、兄弟たちも、みんな一目散で外まで逃げました。後で気づいてみると、兄弟の中で私だけが靴を履いていて、他の兄弟はみな裸足です。自分でも落ち着いていたものだと思います。子どもの頃から保育園や小学校でしていた避難訓練の賜物なのかもしれません。あっという間に火は家を呑み込みまして、二階の住宅部分は全焼してしまいました。ですから、火事なんて起こらないから避難訓練なんてどうでもいいと考えたことはありません。子どもであったとしても慌てないで落ち着いて行動するというのは日ごろの訓練の賜物なのだと思います。

 火事が起こる。地震が起こる。何か、とても大変なことが起こって、別のところに避難しなくてはならなくなる。私の場合はその後、父方の祖父母の家で残りの夏休みを過ごしました。その後、教会の隣にあった、かつて宣教師の住んでいた家にしばらく住んだことを覚えています。避難したところでの生活というのは、そういう意味で言えば一時的なのでしょうし、そこからまた新しい生活というのを作り直していかなければなりません。

 今日のファミリー礼拝のために簡単な案内が作ってあって、そこには今日のテーマは「私たちの避難場所」と書かれていました。そういう言葉をみると、困ったときの一時的な待避所のようなイメージを持ってしまうなと思いました。困ったことが起こると少しだけ、そこで避難させてもらって、また落ち着いたら元の生活に戻る。ひょっとすると、教会という場所をそのような場所と考えてしまいやすいかもしれません。毎日の生活からちょっと環境を変えて、一時的にここに避難して、また私たちの生活をしていく。けれども、そういう一時的な逃げ場所のようなものというのは、ある時は必要かもしれませんが、そうなると、困ったときだけ、神さまにちょっと出て来ていただいて助けてもらって、でも、普段の生活には神さまなんてそんなに必要ないというようなことにもなりかねません。

 今日の説教題を「避難と訓練」としました。先ほど読んだ聖書の言葉は少し難しいと感じたかもしれません。少しだけ簡単にその背景をお話したいと思います。この当時、イスラエルの人々がエジプトの地で奴隷として生活していたころまで遡ります。そんな時に神は、モーセをイスラエルの指導者として立てて、イスラエルの人々をエジプトから救い出して、新しい地、カナンを目指して人々を導かれたのです。出エジプトと呼ばれる出来事です。それは言ってみればエジプトからカナンの地を目指して避難をしたと言っていいと思います。けれども、その避難というのは、一時的な場所というよりは、そこが最終的な場所、救いの場所ともいえるところとなりました。

 そして、先ほどお読みした聖書は、そんな中でエジプトの奴隷の状態から救い出されたイスラエルの神が、神の約束してくださった安らぎの地、「カナン」の地に向かうために、もう一度大切なことを確認しておこうということが語られているわけです。「わたしはあなたがたを助け出して、これから安息の地、カナンにあなたがたを避難させる。その前に、覚えておいて欲しいのは、わたしはあなたがたを助け出した神なのだから、これから向かう土地にいろんな神様が出て来るかもしれないけれども、他の神さまを信じるのではなくて、わたしを信じて、わたしの言う戒めを守ることが大事ですよ」と、語りかけているわけです。

 特に今日お読みした聖書の中に、「訓練」という言葉が出てきます。36節です。今日は、この36節だけをとりあげてみたいと思っています。
新改訳2017ではこのように書かれています。

主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では大いなるご自分の火を見せられた。その火の中から、あなたはみことばを聞いた。

エジプトから避難する旅の中で、イスラエルの人たちは神から訓練をされてきたわけです。その時の訓練というのは、何をすることだったかというと、ここでは「みことばを聞いた」と書かれています。神の言葉を聞くことが、これからする新しい生活の訓練になると言っているわけです。これから始まる新しい救いの生活に入るために必要なことは、神のみ言葉を聞くこと、それこそが訓練なのだというのです。この聖書の言葉のちょっと分かりにくいのは、「火の中から、あなたはみことばを聞いた」と書かれているところでしょうか。

 少しだけこの箇所を簡単に説明すると、イスラエルの民はエジプトからカナンの地を目指して旅を続けていたときに、神は、イスラエルの民に、十戒という二枚の石板に記された神からの律法を与えられます。この十戒は、イスラエルの民が守るべき、神からの戒めが記されています。この神からの十の戒めの記された石版をいただく時に、神は火の中から語りかけられたのです。それが、この申命記の4章のこの前のところに書かれています。そして、このあとの5章では神から与えられた十戒のことが書かれています。

もし、「十戒」という映画を見たことのある方はこの時の壮大な雰囲気を想像することが出来ると思います。神は火の中から語りかけられて、映画だと、その神からの火が稲妻のように光り輝いて、その光で二枚の石板に言葉を刻んでいったように描き出されています。今見ると、ひょっとするとちゃちな映像に見えるかもしれませんが、当時は凄い特撮だと言われていました。

 もちろん、映像ではなくて、実際に火の中から神が語りかけられるのを聞いたら、きっと畏れ多い気持ちで、この神の御前に立ったのではないかと想像します。聖書はいつも神が語りかける時に、火だとか、雲だとかを使って、そこに神がおられることを表現していますが、大事なのはいつも神がそんなかたちをしておられるかではなくて、言葉です。神は言葉を通して語りかけられるお方です。そして、この神の語りかける言葉を聞くことが、新しい生活をするための訓練となるのだと、今日の箇所は語っているのです。

 私たちは訓練という言葉をイメージする時に、自分を鍛えて、自分に力をつけることが大事と考えます。スポ―ツでもそうです。あるいは、避難訓練もそうです。訓練しておいて、それを身に着けることが、その後の力になると考えるわけです。けれども、それは、私たちがすること、私たちの行動だけを訓練しても、私たちの考え方、私たちの思いが変わっていないと、それを身につけることは難しいわけです。

 自分の生き方、考え方を変えるということが、新しい自分の生活の訓練となる。そのために、聖書の言葉、神からの言葉を聞き取ることによって、新しい生き方の訓練となるのです。

 この4月から私は名古屋にある東海聖書神学塾で女性奉仕者コースの教師として聖書を教えることになりました。このコースは二年間の学びで毎週一回、金曜日の朝から午後2時までの学びです。色々な教会の方々、今年は興味深いことに5人が新しく受講していますが、その全員が私たちの教団の方々です。この4月から講義が始まったのですが、2週間前の最初の講義の時に、私は自己紹介もかねて、皆さんはどうやって教会に来るようになって、どうやってイエスさまを信じるようになったのですかと質問をしました。

 すると、その中の3人が同じようなお話をされたので、私にはとても印象的でした。この3人の方はみなさん、結婚してから教会にくるようになった方でした。みな口をそろえて言ったのは、それまで結婚したら幸せになると思っていたのに、結婚してから自分はいったいどのように生きたらよいのかが分からなくなったと言われました。ある一人は、それまで仕事をしていて、仕事をしている間は何かをすれば、それを認めてもらえたのに、結婚をしてからは食事を作っても、掃除をしても、何をしても当たり前のことをしているだけで、自分が認められていないと感じるようになってつらくなったと言われた方がありました。子どもが生まれたら幸せになる、家を建てたら幸せになる、いろいろ生活が変わっても、自分の心がからっぽで、いったい自分という人間はなんなのだろうかという悩みがずっとあったと言われました。

 そういう中で、マザー・テレサとか、三浦綾子の小説だとか、羽仁もと子の「友の会」だとかで、聖書にしたがった生き方というものに心惹かれるようになって、教会に通うようになったという話をされたのです。そして、教会で聖書の話しを聞く中で、自分という存在が、神に受け入れられていて、この神と一緒に歩むことが、自分の心の足りないと感じていた部分にすっぽりとはまっていたのだそうです。

 新しい生活をはじめるために、神の言葉を聞くことが自分の生活の訓練になっていったのです。

 これは、この三人の方々だけではなくて、あるいはイスラエルの人々だけでもなくても、私たち、一人一人、誰もが必要な人生の訓練なのだと思うのです。神の言葉を聞くこと。この神の言葉は、「わたしがあなたを救い出した主である」という言葉を聞くということです。わたしがと、私たちに向かって語りかけてくださる主が、私たちに心を向けていてくださり、私たちに関心を持っていてくださって、私たちの存在は神の前に小さく見られてはいないのだ。むしろ、私たちが本当に喜んで生きることが出来るようになることを願って、語りかけてくださる神だということを知るのです。私たちは自分の存在が小さくされているように感じるその思いから救い出されるのです。

 今日の個所の最後の40節で、神はこう約束してくださっています。

今日、私が命じる主の掟と命令を守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も幸せになり、あなたの神、主が永久に与えようとしておられるその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

 主の言葉を聞くとき、私たちはその新しい生活の場で、幸せが長く続くようにしてくださると約束してくださるのです。主の言葉を聞く。神の言葉に生きる時、私たちはこの神の御手の中で、本当に安らぎを受け取ることができるようになるのです。

お祈りをいたします。

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