2018 年 6 月 17 日

・説教 イザヤ書64章8節「あなたは私たちの父、私たちの陶器師」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:35

2018.06.17

鴨下 直樹

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 もう、少し前のことになりますが、ある方からこんな質問をされたことがあります。「お祈りする時に、天のお父様と聞きますが、どうして神さまのことをお父さんと言うのですか? お母さんではダメなのですか?」。その質問の後で、色々なことを話しました。話していく中で、こんな質問が出て来ました。お父さんというのは、人によってイメージが違うと言うのです。もし、お父さんについて、いい印象を持っていなかったらお祈りをする気持ちになれないんじゃないか。そうなるくらいなら母なる神さまでもいいし、どんなイメージでもいいんじゃないか。そんな話になりました。

 私がまだ青年だったころ、教会にずっと通っていた中学生の男の子がいました。この男の子が高校生になったときに、教会で主の祈りの話をしたことがあります。その時に、お祈りの時に、主イエスは天のお父様とお祈りされた。私たちも、主イエスを信じることによって、神の子どもとされる。だから、私たちは主イエスと同じように、神の子どもとされるので、主イエスが「天の父よ」と祈られたように、私たちも「天の父よ」と祈るんだという話をしました。すると、この高校生が、びっくりした声をだして、「えー、ぼく今まで、天のお父さまというのは、死んだおじいちゃんのことだと思っていた」と言ったので、私は反対に驚いてしまいました。もう3年ほど教会に通って来ていたのに、ずっと死んだおじいちゃんにお祈りしていたのかと知ってショックを受けました。でも、確かに聞いたことがなければ分からないのかもしれません。

 今日は、父の日です。そして、いつも第三週は伝道礼拝の時を持っています。この時はできるだけ、分かりやすい話をしたいと思っています。それで、今日はこの「父なる神」について考えてみたいのです。

 今日の聖書は父なる神のことをこのように言い表しています。

今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。

 旧約聖書の中でこの天地を創造された神のことを「父」と呼んでいる箇所というのは、思っているよりも少なく、14回しかありません。新改訳聖書では「主」という言葉が太字で印刷されています。細い字で「主」と印刷されている場合もあるので、太字の主は、声を太くして「主」と発音して、細字の場合は声を細くして「主」と発音する。そんなことをしている方はたぶんいないと思いますが、太字の主というのは「ヤハウェ」とか「ヤーウェ」と書きます。これは、私たちの主を表す言葉で、英語で表記すると「YHWH」と表記します。

 これが、主の正しい呼び名ですが、ヘブル語は子音ばかりで、しかも、無声音といって音にならない言葉です。アイウエオという母音がないと発音できません。ちなみに、細字の主は「アドナイ」という一般の「主人」を表す言葉です。それで、昔は、読み方がわからなかったので、この「アドナイ」という言葉の母音を借りて来て、このYHWHという言葉にくっつけて仮の呼び方をしていました。それが「エホバ」と言う言葉です。Oさんがお祈りの時に引用する文語訳聖書はこの「主」のことを「エホバ」と書いていたわけです。

 今は「ヤハウェ」と読むということが分かってきているのですが、なぜこういうことをしたのかというと、十戒の中に、「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めがあります。それで、ヤハウェと呼ばないで、別の言葉「アドナイ」という言葉を使ったわけです。

 そのように、主なる神は気軽に御名を呼ぶことのできるような身近な神としてのお方ではありませんでした。ですから、この主のことをまるで親子でもあるかのようにして「父よ」と呼びかけるようなことはあまりしなかったわけです。そんな中で、少ないながらも神を父と呼んでいるのは、イスラエルの民と共にあって、いつも守り、励まし、導いてこられた主なる神のことを、父のようなお方だと感じていたからでしょう。それほどに、主なる神の愛を受け取っていたのです。

今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。

 今日の聖書はこう言っています。主は父、私たちは粘土。面白い言い方です。そして、その土くれにすぎない自分を父なる神が手ずから土をこね、どのように形作るかイメージし、そのイメージした形に作って、焼き上げて、立派な作品にしてくれたと言っているのです。

 この岐阜には焼き物の町と言われるところがいくつもあります。美濃焼とか、志野焼とか織部焼と言われる焼き物もあります。正確には志野も織部も美濃焼の中に入るのでしょうか。土岐や多治見などでも陶器祭りなどが開かれますので訪れたことのある方も少なくないと思います。この美濃焼というのは日本の陶磁器の生産量の50%を占めるそうですから、どれほど焼き物がこの私たちの地域に深く根を下ろしているかが分かります。

 私もテレビで見た程度の知識しかありませんが、一つの焼き物ができるためにはいくつもの工程があります。そして、価値のないかのような土くれから、あるものは美しい作品となり、またあるものは実用的な焼き物になります。どうやって焼き物を作るのかは陶器師の手にかかっています。そんな陶器師と焼き物の関係を、父と子どもの関係に見立てながら、自分と神である主との関係を言い表しているのです。

 面白いものですが、私もこの説教の準備をしている時に、美濃焼、志野焼、織部焼、そんなものをインターネットでしらべているうちに、どんどん興味が出てきまして、今度の多治見の陶器祭りはいつだっただろうかなどと思わず調べ始めてしまいます。残念ながら今年はもう4月早々に終わってしまったようで、今度は土岐美濃焼祭りをしらべると、このお祭りは有田焼と瀬戸焼とこの土岐美濃焼祭りが焼き物の三大祭なのだということを知りました。残念ながらこれも5月に終わりました。

 なんで、こんな話をし始めたのだろうと思う方もあると思います。興味を持つということは、自然にもっと知りたいと思うようになるということです。そして、関心をもって調べていくうちに、そのもののことがよりはっきりと分かってくるわけです。

 私たちの主なる神も同じです。お祈りする時には「天のお父さまとお祈りするんです」と説明を聞いて、「へぇ」と思っているだけなら、この父なる神のことをよく知らないままに祈ることになります。祈るというのは、語りかけるということです。祈りが深まるためには、相手のことをよく知らなければ、その祈りは深まりません。多くの場合、祈りは、お願いごとをすることだと考えているかもしれません。そうであれば、相手のことはどうでもよくて、自分の願い事だけを押し付けていればそれでいいのかもしれません。私たちの周りで耳にする祈りというのはほとんどがそういうたぐいのものばかりなのかもしれません。

 家内安全、無病息災、商売繁盛、交通安全、受験祈願に、安産祈願、どれも自分の都合ばかりです。それには相手に対する興味はありません。あるのは自分に対する関心だけです。それは神への祈りではないのです。本当に神は生きておられます。人格があります。嫌なこともあれば、嬉しいこともあるのです。

 もし、子どもが自分に向けて、いつも「あれ買って、これ買って」、「あれが欲しい、これが欲しい」、「ねぇねぇ私のいうこと聞いて」、「あそこが痛い、ここが痛い」。「何とかして、助けてくれ」こういう言葉ばかり四六時中聞かされたら、自分であったら何を感じるでしょうか。

 この祈り手は、神にこう語りかけるのです。

今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。

 私はあなたによって作られました。あなたが、私を生かしてくれています。あなたが、私の人生について計画を持っておられます。あなたには、私についてプランがあります。あなたは私のお父さんですから。そう祈るときに、どんなに深い信頼関係が築き上げられているのだろうかと思うのです。私たちの主は心から信頼のできるお方です。まるで理想の父親のような、まるで土くれから素敵な焼き物を作り上げる陶器師のようなお方、それが、私たちが父と呼び、主と仰ぐお方です。

 聖書の中には、色々な親子の関係が描かれていますが、実は驚くほどにダメおやじばかりを描いています。立派な父親なんかいないんじゃないかと言っていいくらい、ダメな父親ばかりです。どっちが長男なのか次男なのか分からないで間違えて祝福してしまうイサクのような父親とか、末っ子を溺愛して兄弟の醜い妬み愛を引き起させるヤコブのような父親とか、兄弟げんかをそのままにしたために兄弟同士で大虐殺まで引き起こさせてしまったダビデとか、枚挙にいとまがないほどです。ひょっとすると、父なる神以外に素晴らしいお方はいないということを気づかせるためなのではないかと思わせるほど徹底しています。

 そんななかで、理想的な親子像として描かれている親子関係があるとしたら、父なる神と主イエスとの関係しか思い浮かばないほどです。

 今礼拝でマルコの福音書を読み続けています。そこで気づくのは、なにかあるたびに人から離れて寂しい所に行かれる主イエスの姿です。それは、ほぼ間違いなく、主イエスが父なる神との祈りの時間を持つためでした。主イエスにとって、父なる神はいつでも祈りに耳を傾けてくださるお方でした。いつも、相談し、そのたびに心の平安を得ることの出来るひと時であったに違いないのです。

 そして、主イエスが父なる神とそのような本当に深い、豊かな時間を持つことができていたように、私たちも、このお方とそのように深い祈りの時間を過ごすことができるのだということを知って欲しいです。

 それは、私たちが悩んでいる時に立ち直ることの出来る時間となるはずです。私たちが道を踏み外してしまったと感じるならば、父に祈るときもう一度あるべきところに戻って来ることが出来るようになる。心細い時は傍らにいて慰め、一人にして欲しい時には遠すぎず、近すぎもない距離からあなたを見つめ、背後で祈っていてくれる。いつも心にかけ、いつも心配し、そして、常に信頼してくれる、期待してくれている。そんなお方が、父なる神なのです。

 ぜひ、じっくりと時間をかけてこのお方をイメージしてみてください。この世界を創造し、土くれであったわたしを形作り、今わたしに心を向けていてくださるお方をぜひ描いてみてください。そして、短い言葉でいい。「父よ。私の神、主よ」と祈ってみてください。それだけの短い言葉でいい。この「父よ」と語りかけることのできるお方がいることをぜひ、知って欲しいのです。ぜひ、経験して欲しいのです。そして、このお方の子どもとなることを心から喜んでほしいのです。

 お祈りをいたします。
 

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