2018 年 7 月 15 日

・説教 ルカの福音書 13章1―9節 「悔い改め? 反省?」

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2018.07.15

鴨下 直樹

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 今日は第三週です。いつも第三週はファミリー礼拝と紹介していますけれども、まだ教会に来て間もない方であるかと、初めて礼拝に集った方のために分かりやすいテーマでお話しようと考えております。今回のテーマは「悔い改め?反省?」というテーマにしました。今月の役員会の時に、今回のテーマである「悔い改め?反省?」というタイトルは、教会にあまり来たことのない人から考えてみると、興味を引き起されるテーマではないのではないかという議論が起こりました。それで、私もなんとかこのタイトルを変えようと思ったのですが、すみません、そのままになりました。いろいろ考えすぎて一周して元に戻った感じです。ですが、タイトルについてここであれこれ考えるより、今日の聖書にさっそく飛び込んだ方がよいかもしれません。

 今日の聖書の箇所はかなり衝撃的な内容から始まっています。1節に、当時エルサレムで起こったある事件のことが書かれています。ローマの総督であるピラトが、「ガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた」というのです。ガリラヤ人というのはガリラヤ地方に住んでいるユダヤ人たちのことです。その人たちがいけにえをささげにエルサレムの神殿に来ていた時にこの事件が起こったのです。あろうことか、ローマ総督のピラトは、過越しの祭りのためにエルサレムに来ていたガリラヤの人々を殺害して、その血をほかのいけにえと一緒に神殿に注いだというのです。現代であったとしてでも、ニュースの一面を飾るようなできごとであったに違いありません。

 また、4節には、もう一つの事件のことが書かれています。エルサレムにあるシロアムの塔が何の理由かわかりませんけれども、倒れてしまいその下敷きになって18人が死んでしまったという事件があったようです。これも、新聞の一面を飾るような出来事であったに違いありません。今日の箇所はこのように、被害者となった方々は思いもよらない出来事に遭遇してしまって、その被害者になってしまったということがテーマとなっているわけです。

 先週の月曜日、隣の関市で先々週から続く大雨のために津保川が決壊したために、上之保地区の340戸の家が床上浸水しました。それで、隣の関市の改革派教会が中心になって、先週から被災された家を一軒一軒訪問しつつ、必要な物資を聞いてお届けするというボランティアをはじめました。岐阜の被害は全国からみれば小さなものですが、行ってみて分かるのは、思っていたよりも、大きな被害でした。亡くなった方は少ないのですが、上之保地区に行ってみると一階のものはすべて流されてしまって何もなくなっているという家が何軒かありました。全国で200人以上の方が亡くなるという大きな被害が各地に及んでいます。そういう出来事と、今日の聖書の箇所は深く重なり合う箇所です。

 日頃の行いの悪い人には、何かしらのアクシデントが起こる。それは、まるで天罰であるかのように考える。そういう考え方は日本独特というわけではなくて、聖書の時代にもそういう考え方があったわけです。
そんな大きな事件が起きなくても、なにげない場面でこういう考えは顔をのぞかせます。先週、私たちの教会は礼拝後にコンサートを行いました。本当に素晴らしいコンサートで選曲も良かったし、永島さんの歌声も大変すばらしいものでした。先々週は一週間長雨が続いていて、日曜日にようやく雨が止んだのですが、礼拝の前の時間に、どこからともなく、「やっぱり伝道部長の日ごろの行いがいいから、天気が守られたねぇ」という声が聞こえてきました。もちろん、冗談で言っていることは、聞いている人は誰もが分かりますけれども、自然にそういう言葉が出てくるわけです。日頃の行いがよければ、良い結果がついて来る。悪ければ、悪い結果になる。こういう考え方は不思議と私たちのなかに染み付いた考えとしてあると思います。確かに、良いことについて言えば、一所懸命努力すれば、その努力は報われるということはある程度言えると思いますけれども、まさに予想外のアクシデントに見舞われた時に、それは日ごろの行いの結果であるとか、神からの刑罰であるかのように考えることは、よく考えてみる必要があると思うわけです。そして、ここで主イエスはそのことを問いかけておられるわけです。

 今回のような不慮の事故というのが起こった場合に、何か神からの刑罰というようなことを考えてしまうということが起こるわけです。それは、その人たちの日ごろの行いが悪かったためだ。この話を聞いた人たちはそうやって考えて、自分なりに胸に収めようとしたのでしょう。しかし、主イエスはここで人々に問いかけられました。主イエスはここでこのように語られています。3節と5節です。ここでは同じ言葉が語られています。

「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

 この主イエスの言葉は、よく考えてみるとびっくりする言葉ですが、「みな同じように滅びます」と言っておられるわけです。みな滅びると言っているのです。悪いことをした人が滅びるというのではなくて、「みんな滅びますよ」とまず語っていることに、まず心を向ける必要があります。運が悪い人はこうなったというのでもないのです。悔い改めることがないなら、みな同じ結末にいきつくと主イエスは答えておられるのです。
 ただ、この3節と5節の言葉は、よく考えないとそれこそ色々なイメージがでてきてしまいますので、少し整理してみたいと思います。

 まず、「滅びる」という言葉で私たちが何をイメージするかです。これは、みな違うと思います。まず出てくるのは、「滅び」という言葉を聞くと「地獄に落ちる」というイメージがあると思います。それこそ天国と地獄というのはキリスト教会の専売特許みたいなイメージがついて回ります。あるいは、「滅び」という言葉は、「魂が消滅すること」と考えたり、あるいは、「漠然と悪いことが起こるということかな」と考える人もあるかもしれません。この「滅び」という言葉はギリシャ語で「アポリオン」という言葉です。これは「姿を見失う、行方不明になる」という意味の言葉です。たとえば、失われた一匹の羊を捜すために羊飼いが九十九匹の羊を残して捜しにいくという話が、このルカの福音書の15章に出て来ます。この時に使われている「いなくなった」「失われた」という言葉がこの「アポリュオン」という言葉です。

 つまり、この「滅びる」という言葉は、いるべきところからいなくなった状態になることを意味する言葉だということが分かるわけです。「地獄」とか、「魂の滅亡」とかというようなイメージはそのさらにずっと向こう側にある最悪の事態を想定したイメージです。たとえばそれは羊が羊飼いのもとにいなければならないのに、そこから離れてしまって迷子になっている状態。それはもう危機的な状況におかれているわけで、そういう、いるべきところから離れてしまっている状態を「滅び」とよんでいるわけです。つまり、神さまとともにいるべき人間が、そこから離れてしまって生きてい状態と言うのは、もうその世界では何が起こってもおかしくない状態に置かれているということです。

 そうすると、この「悔い改める」という言葉はどういう意味かということになるわけです。今回、説教題を「悔い改め?反省?」としたのですが、聖書が「悔い改め」という時に、私たちがすぐにイメージするのは、この自分の非を認めて反省するというイメージです。心を入れかえるというイメージもあるでしょうか。いずれにしても、そのイメージは今のままの自分ではダメなのだというイメージです。そして、そういう自分を受けとめて、心を入れ替えていくというのが悔い改めのイメージだと思います。
けれども、「裁き」と同様で、この言葉もギリシャ語で「テシュバー」と言いますが、立ち返ることというのが、この言葉の意味です。元に戻ること、いるべきところに戻ることです。つまり、神から離れている状態が滅びですから、神の御許に立ち返ることです。

 イメージとしてですが、温かい家族に育てられた子どもが、町の悪者たちと一緒にいるようになったとします。けれども親が迎えにきたりだとか、何かの知らせを聞いたりだとか、何かの働きかけがあって、その家の子どもは元の自分の家族のもとに戻る。そういうことです。それが、悔い改めです。もちろん、その中で自分のしてしまった愚かさに対して反省することもあるかもしれませんし、激しい葛藤を覚えることもあるかもしれませんが、大事なことは本来居るべきところに戻るというのが、悔い改めの中心的な意味です。

 悔い改めというのは、受け入れがたいような自分の非を攻撃されて屈服させられるようなイメージではなくて、自分の戻るべきところがどんなに素晴らしい場所だったかに気づいて、そこで新しい生活を作り直すということです。それは、つらいことでも、悲しいことでも、嫌なことでもなくて、もう一度新しいスタートをするための新鮮なすがすがしい思いだけが支配するものです。まして、戻るのは苦痛だった自分の家というようなことではないわけです。私たちが帰って行くのは、神の御許、それはまだ私たちが味わったことのないようなすばらしい場所、聖書の言う神の国に生きることになるわけです。
 
 「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」というこの言葉だけを耳にすると、それが救われるための、信じるための条件であるかのように感じる方もあるかもしれません。けれども、神の御許にいなければ、それはそのまま神から離れた悲しい生活をするということですから、神のもとに帰るということは、条件というよりも、それなしにはありえないごく自然なことです。家に帰らなければ、家での生活はないというようなことです。

 私たちの主は私たちが居心地のよい家で、安心して住むことができるように、神のみもとで、私たちが伸び伸びと安心して、生きがいを持って生きることを願っておられるお方です。最近、あまり良いことができてないから悪いことが身に降りかかって来るのではないか、というような心配から解放されることを願っておられます。

 もし、災いが降りかかって来たとしても、思わぬ事態に見舞われることがあったとしても、神と共に生きるということは、もう確かな平安を土台として生きることが出来るということです。悔い改める。神のもとに帰る。神と共に生きる生活、神が中心の生活。そこにこそ、私たちの安心があるのです。

 さて、6節から9節ではもう一つのことが語られています。さきほどの「聖書のお話」で、この箇所をお話しくださいました。ですから、もうだいぶ分かると思います。ぶどう園にいちじくが植えられていたというのです。そして、そのいちじくには3年もの間、実が実りませんでした。もう場所をふさぐだけだから、切り倒してしまおうかとぶどう園の主人が言うのですが、ぶどう園の番人はもう少し待ってくださいと主人に頼みます。木の回りを掘って、肥料をやってみるからと言いうのです。

 みなさんの中にもこれとおなじような違和感を覚えている方が中にあるかもしれません。いろいろな教会の集まりに集うようになって、いろいろな教会の方々と交わるようになって感じる違和感。それは、まわりはみんな立派なぶどうの木に見えるわけですが、自分はこのいちじくと同じではないかという感覚です。自分はなにか周りの人と違うのではないか。周りの人は立派なクリスチャンにみえるけど、自分はダメな人間でというように感じる。

 この聖書の話は、悔い改めとは何かというテーマの中で記されているたとえ話です。とても、イメージ豊かな話です。ちっとも結果がでない。よく、教会で語られることばの中に、「悔い改めの実」という言葉があります。悔い改めた人はその実が実るというのです。悔い改めた人は、それが結果となって表れると言うのです。この教会では「悔い改めの実」という言葉をあまり語りませんので、聞いたことのない方も多いかもしれません。そんなに熱心に話さなくてもいいことかなと私は思っていますけれども、みんなはぶどうの木なのに、私だけはいちじく、しかも実の実らないダメなやつ。そんな風に考えてしまうかもしれません。けれども、私たちの主はまだ可能性がありますからと言って、その実の実らないいちじくに手をかけてくださるお方なのです。決して、諦めず木の回りを掘って、肥料をやるということを徹底してやってくださるのです。このいちじくは次の年どうなっているでしょう。想像してみていただきたいのです。きっと実を実らせるいちじくとなるに違いないのです。

 ぶどう園にぶどうが植えられている。それが、ぶどうの本来いるべきところです。でも、いちじくが本来いるべきところはいちじく畑でしょう。けれども、主は、そのぶどう畑のいちじくでさえ、その場所をいちじくのいるべきところに変えてくださって、このいちじくが実を実らせるように働いてくださる。私たちの主はそういうお方です。いちじくに、むりやりぶどうになるべきだ!などとは言われないお方なのです。いちじくはいちじくでよいのです。実が実らなくとも、見捨てたりなさらない。主はそのありのままを受け入れてくださるのです。そして、その人が主によって変えられて、まさに実を実らせる者としてくださる。それが、私たちの信じているお方、主イエスというお方なのです。

 ある方は、ひょっとすると、それでも実が実らなかったら切られてしまうのではないか。ここにそう書いてあるではないかと、そっちの方が気になる方もあるかもしれません。でも、そうなったら、それこそそれはぶどう園の番人の責任です。そして、もし、実らなかったら、きっともう一年と、この番人は主人に言うに違いないのです。ここまで手をかけたのだから、次はきっと大丈夫と。私たちの主は、私たちが滅ぼされることを望まれるお方ではないのですから。

 今日は、芥見から6名と可児教会から10名の方が群馬県の下仁田教会への協力伝道のために行っております。礼拝後にトラクトといいますけれども、教会案内を配るために2泊3日で下仁田まで行っています。それは主が、下仁田の人も、岐阜の人も、可児の人も主のもとに戻って来ることを願っておられるからです。安心して生きることができるよう願っておられるからです。先週から支援に行っています関市の上之保の方々もそうです。上之保ではそれこそ、直接的な伝道は一切しないで、ひたすら一軒一軒訪問しながら必要なもの、困っているものを聞いて、お届けするという働きです。主は、人々が自分の人生はのろわれている、自分はダメだなどと考えながら悲しい気持ちで暮らすのではなくて、その人が神の御許にいることができるように、その人のために全力で尽くしてくださるお方なのです。この主を私たちも、私たちの回りの方々にお伝えしていきたいと願っています。

お祈りをいたします。

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