2018 年 7 月 29 日

・説教 創世記18章1–33節「主よ、もう一度だけ私に言わせてください」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:50

2018.07.29

舛田友太郎牧師(アイ・ホープ・チャーチ)

序.器に過ぎなくとも、執り成しの声をあげて祈らなければならない

 オウム真理教の代表だった麻原彰晃死刑囚ら計七人の死刑が執行されました。1995年前後、今からおよそ20年前、「地下鉄サリン事件」「坂本弁護士一家殺害」など数々の凄惨(せいさん)な事件に幕がおろされました。

 また先月は私たちが日常で使う新幹線で、無差別殺人が起きました。この男性は、愛知県岡崎市出身でした。襲われた二人の女性をかばった方が亡くなられました。

 また「働き方」関連法が、成立しました。2015年、大手広告代理店電通で働いていた「高橋まつりさん」の過労死が社会問題化しました。残業時間に制限をかけ、働く人のいのちを守らなければならない社会は、人の命よりも仕事が優先される社会は、大きくゆがんでいます。また「働き方」関連法に関しても、働く側の声ではなく、雇う側の声が優先されているように思います。

 「オウム真理教、新幹線での無差別殺人、過労死」…起きてはいけない出来事が、私たちの暮らしている、この社会から生まれて来るのです…。
もっと言うと、ここにいる全員がつくり上げている私たちの社会から、とんでもない事件が生まれて来ているのです。
 私は最近、大きな悔い改めの祈りをしました。それは、日本の為に、また日本人の為に祈らなければいけないという思いが与えられた時でした。
 私の心の中には「どうせ祈ってもこの社会は変わらない」というあきらめがありました。
 それは「ひとりの人間が何かをした所で、私たちの社会は変えられない」というあきらめでもありました。

 このあきらめは、今日お読みしたサラの言葉そのものでした。

朗読:創世記18章11−12節

 しかし、このような私は、神さまの前にひとり立って、ソドムとゴモラをどうか滅ぼさないで下さいと願うアブラハムの姿に刺されました。

朗読:創世記18章22-25節&18章32節

「我が主よ。どうかお怒りにならないで、もう一度だけ私に言わせてください。」

 私は、クリスチャンであり、また牧師です。その私が、「もう一度だけ私に言わせてください」と必死に神さまの前に出て、日本の為に、日本人の為に、また社会の為に祈ったことがあっただろうか?
 本当に悔い改めさせられました。
 
 18章には「もう無理でしょうに」とあきらめ、神さまのことばを笑ったサラが登場します。そして「もう一度だけ私に言わせてください」と最後まであきらめないで、神さまに語り続けたアブラムハムが登場します。

 きっと、私たちの内には、サラの姿もあるし、アブラハムの姿もあるでしょう。どちらか一方ということはないと思います。
 今日のストーリーは、「主よ、もう一度だけ言わせてください」と神さまの前に立って、ソドムとゴモラの救いの為に、必死に執り成したアブラハムの姿にならうようにと、神さまが私たちに語られているのです。

1.器が陶器師にもの申した

「曜変天目茶碗と9代目長江惣吉」

 世界にたった三つしかないと言われている「曜変天目茶碗」が、国宝として日本に存在しています。この曜変天目茶碗を、親子二代をかけて再現しようと挑戦している陶器師が、愛知県の瀬戸市におられます。「長江惣吉」と呼ばれる方です。江戸時代から続く器づくりの家の9代目だそうです。
 先日、この「長江惣吉さん」のドキュメンタリーを見ました。この中で、たいへん印象に残る場面がありました。窯から出したばかりの完成した器を、気に入らないと言って、すべてトンカチで割る場面でした。ひとつの器を焼く為に、3週間以上の時を必要としました。土を錬り、ろくろで形をつくる。乾燥、素焼き。それから釉薬をかけ、三日三晩、眠らず窯で焼き上げる。そうして、ようやく完成した器を見るなり、走り出し、叩き壊したのです。
 カメラマンの方が思わず「なんてもったいないことをするんですか?」と言うと、彼は「本物に比べたら、全然だめだ」と。こんなものを残しておいたら、「長江惣吉」という看板の価値が落ちると言われました。

 聖書には、神さまと人間を、「陶器師」と「器」に例える箇所があります。

「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです」(イザヤ64:8)

陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。(エレ18:4)

「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。−−の御告げ−−見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある」(エレ18:6)

⑴神は陶器師。アブラハムはちりや灰から生まれた器

 人間は器であり、神さまは造られた陶器師です。

朗読:18章27節

 アブラハムは目の前におられる神さまと、自分自身の関係がよく分かっていました。
 あのアブラハムが、私は風が吹けば、何も残らないような「ちりや灰」に過ぎないと言いました。
 私たちは、神さまのきびしいさばきを読む時、センチメンタルになります。愛の神さまがそんなことなさるはずがないと、そう思いたくなります。
 けれど、私たちを造られた神さまが、私たちをどうしようと、本来私たちは何も言うことが出来ないのです。気に入らなければ、粉々に砕かれる。
 そう考えると、ソドムとゴモラへの計画を、器に過ぎないアブラハムに打ち明け、器の意見を陶器師が聞くというこのストーリーが、普通ではないことに気づかされないでしょうか。

⑵神の作品(器)はいのちがあり、意志がある。

 確かに聖書は、人間を器と表現します。しかし、単なる器とは全く違う所があります。
 それは、人間にはいのちがあることです。
 「生きている。心がある。意志がある。そして成長する。」
 神さまの作品(器)である人間は、いのちがあり、生きて成長する。
 私たちがつくり出すものにはいのちがない。時間と共に変化はするかもしれない。
 しかし、成長はしない。
 
 神さまの造られた人間は神さまと比べれば「ちりや灰」に過ぎない。
 しかし、人間には可能性がある。それは「神のかたちに似せて造られた」ことにあるように思います。

 「曜変天目茶碗」を再現しようとした長屋惣吉さんと、彼の器。
 この関係とは違うものが、神さまと人間との間にはあります。
 それは、対話があり、交わりがあることです。
 「祈り」があることです。自分以外の存在の為に祈る。「執り成しの祈り」。これも人間ならではのものです。

 アブラハムは、自分や家族と関係のない「ソドムやゴモラ」の救いの為に、声を張り上げ言いました。「主よ待ってください。滅ぼさないで下さい。もしかしたら正しい人が50名いるかもしれません。その正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか?お赦しにならないのですか?」と。
 このやりとりが、18章22~32節に記されています。
 みなさんは、このやりとりの何に注目されますか?
 正しい人の数でしょうか?50名から10名まで、町を救う為の条件を下げさせたアブラハムの交渉力でしょうか?
 私は32節のアブラハムの言葉に心を刺されました。「…もう一度だけ私に言わせてください」。
 アブラハムは、ろくでもないソドムとゴモラの為に必死に執り成しました。もちろん、親族のロトは住んでいました。でも彼は、この家族だけではなく、その町全体の赦しを必死に願いました。
 私は「…もう一度だけ私に言わせてください」と必死にすがるアブラハムの姿に自分を重ねて自問自答しました。私は他人の為に、これ程の必死な祈りをしたことがあっただろうか…? 日本の為に、日本人の為に、自分が住んでいる稲沢の為に、自分が生まれた町尾崎団地の為に、「主よ…もう一度だけ私に言わせてください」と祈ったことがあっただろうか…?滅び行く魂を前に、祈ったことがあっただろうか…?

2.「…もう一度だけ私に言わせてください」。こんな執り成しの祈りへと導かれている

⑴私たちは執り成しても変わらないとあきらめていないだろうか?
朗読:18章12節

 サラは神さまの言葉を聞いて笑いました。この笑いは喜びの笑いではなく、あきらめの笑い、皮肉の笑いでした。

 「ひとりの人間が何かをした所で、私たちの社会は変えられない」。私の心の底にも、日本は、この社会は、きっと変わらないというあきらめがありました。

 その私に「もう一度だけ私に言わせてください…。」そう言って、あきらめず、神さまの前に立ち続けたアブラハムの姿に私は刺され、悔い改めヘと導かれました。
 
 あなたは、この御ことばから、何を語れていますか?
 神さまは、あなたに何を語ろうとされているでしょうか?

 サラのように生きろでしょうか?
 それとも、アブラハムのように生きろでしょうか?

⑵イエスさまが私たちの為に執り成しをされた

 なぜ、アブラハムは自分とさほど関係のないソドムの命乞いをしたのでしょうか?
 親族のロトがいたからでしょうか?
 何か親しい交流があったのでしょうか?
 聖書は、なぜアブラハムが神さまとソドムの間に立って執り成したのか、語ってはいません。
 私はソドムのようなどうしようもない罪深い町は、滅んでもしょうがないと考えていました。みなさんはいかがでしょか?

 私はあることに気がつきました。それは「ソドムは滅ぼされてしょうがない」という思いの後には、「私はソドムに住んでいない」という考えがあることにです。
 具体的に言うなら、今日の18章のストーリーの中で、自分がどこにいるかと考えた時、ソドムには住んでいないということです。
 本当にそうでしょうか? 私たちは、ソドムと変わらない罪人なのではないでしょうか?

 もしソドムが滅んでもしょうがないと考えるなら、罪人の私たちも、また私たちの町も滅ぼされてもしかたがないと、同意していることになるのです。このことに気がつきました。
 もし、アブラハムが「主よ、もう一度だけ言わせてください」と必死に執り成さなかったら、神さまのさばきは沈黙の内になされていた。
 そもそも、神さまがアブラハムにこのことを告げなければ…、いつのまにかソドムは滅ぼされていた。
 
 神さまと罪人の間に立って、神さまと罪人の間に立って、「主よもう一度だけ言わせてください。彼らをお赦し下さい」と必死に祈られた方を私たちは知っています。それは、私たちの主、イエス・キリストです。
 私たちは、この方の文字通り命がけの執り成しによって、神の永遠の滅びのさばきから、守られている。
 アブラハムがソドムに対して「主よもう一度だけ言わせてください」と執り成したように、イエスさまが罪深い私たちに対して執り成してくださっている。

⑶御聖霊が私たちの為に今も執り成しておられる

 さらに、私たち信仰者全ての内におられる御聖霊が、神さまと全世界との間に立って、執り成しの祈りをささげて下さっている。

「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしくださるのです。」(ローマ人への手紙8章26節)

 私たちの信じている神さまは、いつもうめいておられる。
 私たちは、どこかこの地上で、この社会で、悩み苦しみうめいているのは、自分だけだと思い孤独を感じていることがあります。しかし、それは違う。
 聖書は、私たちの神さまが、私たち以上に、今も苦しみうめていると言う。
 罪ゆえにゆがんでしまった世界を見て、その世界で生きる私たちの姿を見て、神さまはいつもうめいておられる。私たちの言葉にならない、魂の叫びを聞いて、私たちのうちにおられる神、御聖霊は今もうめきながら、執り成しの祈りをささげておられる。

 私たちの信じているイエスさまは、アブラハムのように、罪深い、滅ぼされてもしょうがない私たちと、この世界の為に、「主よ、もう一度だけ言わせてください」と今日も、うめきながら執り成してくださっている。

 あなたは、この御ことばから、何を語れていますか?
 神さまは、あなたに何を語ろうとされているでしょうか?

 サラのように生きろでしょうか?
 それとも、アブラハムのように生きろでしょうか?

朗読:創世記18章14節

 「主にとって不可能なことがあるだろうか…」。あるはずがない。

 主になら、この国を、この国の人々を変える力がある。
 この日本が変えられて、真の神さまを礼拝する時代が来る。
 私たちの社会が変えられて、職場で「互いに愛し合おう」という言葉を聞く時が来る。

 今日、神さまはあなたにこう宣言されます。

 「あなたは、アブラハムのように生きろ。あなたの国の為に、人々の為に、社会の為に、執り成しの祈りをしなさい」

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