2018 年 8 月 5 日

・説教 マルコの福音書8章31節-9章1節「主イエスの背中」

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2018.08.05

鴨下 直樹

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 八月に入りました。今年も例年のように信徒交流会が始まりました。水曜日と木曜の祈祷会で信徒の方々が当番で証をしていただいたり、聖書の話をしていただいています。水曜日はMさんが『百万人の福音』というキリスト教会の機関紙の俳句の選者になって、ちょうど四年経つそうで、その証をしてくださいました。

 Mさんは岐阜県の『栴檀』という俳句の結社の代表をしておられます。俳句の芥川賞と言われる角川賞を取られ、一般の俳句の雑誌にも取り上げられています。ところが、こういう一般の俳句と、いわゆる信仰の俳句というのは少し趣が違います。俳句は俳句ですが、その中で信仰のことを詠むわけです。それで、水曜日に、どんな俳句が投句されるのかということを紹介してくださいました。たとえばこんな俳句が紹介されていました。

猛暑日や我がため祈る人思ふ

 埼玉県のある方の投句された俳句です。この岐阜でも連日38度を超えるような毎日が続いています。この俳句はいつ出されたものかは分かりませんが、きっと今のように暑い季節だったかなと想像できます。そういう暑い夏を迎えて、自分のために祈ってくれている人のことをありがたく思い起こしているという俳句です。暑い日々も、自分のために祈ってくれている人のことを思い起こすと、乗り越えられそうな気がするものです。こういう俳句を読むと、ああ、私も体調を壊している方のためにもっと祈ろう、という気持ちになってきます。このように、俳句は俳句でも季節を歌いながら信仰のことも表そうとするとなかなか大変かなという思いがします。

 俳句を作られる方の中には、俳句を教えてくれる仲間に入って、そこで色々な決まり事を教えてもらいながら、基本を学ぶということをしておられる方が多いと思います。そうすると、どうしたって自分に教えてくれる先生、あるいは「同人」と言うそうですが、同人の俳句に似て来るのだと思います。そうやって、基本を身に着けておいて、自分らしい表現というのを獲得していくわけです。先生がいて、その後に付き従う弟子がいる。そうやって、大切なものを後世に受け継いでいくというのは、俳句だけに限りません。ピアノでも習字でも、なんでもそうやって基本を教える先生がいて、生徒や弟子がいて、受け継がれているものがあるわけです。日本には何々道というのが沢山あります。書道、柔道、華道、道とつくものはみなそういう形をとっているわけです。そういう言い方をすれば信仰の道も「キリスト道」と言ってもいいかもしれません。

 今日の聖書のところは、主イエスと弟子たちのことを記しているところです。主イエスはここで自分の後に従って来るように弟子たちに求めておられるところです。先週に続いての箇所ですから本当は27節から読んでいくのがよいと思います。そこで、弟子のペテロは主イエスのことを「あなたはキリストです」と告白したことが書かれていました。「あなたは救い主です」と、ペテロは告白したのです。自らの主と仰いでいるお方が、「キリストである」、「救い主である」と告白するというのは、信仰の道を歩む中では最も大切なことです。信仰の道はそこから始まっていくことになるのです。そして、それに続くのが今日の箇所です。

 さて、今日の31節は、このペテロの信仰告白を聞き取られた主が弟子たちに教えられたことが書かれているところです。なんと言われたのかと言うと、少し衝撃的な事を言われました。

それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

そのように、書かれています。

 さらっと書かれていますが、とてつもない内容がここに記されています。受難と復活を予告しておられるわけです。これにはペテロも面を食らってしまったに違いありません。「あなたは私の救い主です」と告白したとたん、まるで思ってもみなかったようなことを主イエスはお語りになられたのです。

 ペテロはショックでした。自分が迫害されて殺されると主イエスが言い始めたのです。自分を救ってくれるお方、ローマの権力に立ち向かっていってくれるであろうと期待していたのに、主イエスの言葉は、ペテロの願っていたローマどころではない、自分の同朋であるユダヤ人の指導者たち、祭司や律法学者たちから殺されるのだと言い始めたのです。口に出して言っていい言葉ではないし、聞きたいことでもない。だから、ペテロはそんな話はするべきではないと、主イエスをわきに連れて行って、諫めました。ところが、反対にペテロは主イエスに叱られてしまうことになるのです。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」主イエスはそう言われたのです。あなたの考えていることはサタンの考えていることだと言われてしまったのです。

 キリスト道の難しさはここにあると言っても言い過ぎではないと思います。主イエスが救い主であるということが分かるのに、かなりの時間を要します。たいていの場合、人は救いを必要としていません。自分の力で人生は切り開いていくものだと考えています。人に迷惑をかけないで生きていくことが大事と思っているわけです。ところが、主イエスと一緒に歩んでいく中で、主イエスが語る信仰とは何かが分かってきます。聖書の言葉が分かってきます。それは、神は人に心を向けてくださっていて、自分の人生を支えたいと思っていてくださるお方だということがだんだんに分かってくるわけです。そして、主イエスが、私たちを救ってくださるために、私たちを愛してくださっているということが分かるようになる。イエスというお方は、自分とは無関係の方というのではなくて、自分と一緒に歩んでくださるお方なのだということが分かってくるわけです。

 ところが、そのことが分かるようになった途端に、すぐに次のテーマに移るわけです。それは、自分が救いだと思っていたゴールと、主イエスが連れて行きたいと思っているゴールは全然別方向にあるということです。自分としてはこの道は西の方向にゴールがあると思っていたのに、主イエスは東の方だと言う。それほどに、そのゴールは違うわけです。そこで、人は戸惑うわけです。そして、それでも西向きに進んで行きたいのだとすれば、それはサタンが喜ぶゴール、悪魔の方に向かって進んでいるようなものだと言われてしまうわけです。

 主イエスはこの34節でこう語りかけています。

それから、群集を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」

 まだ言葉は続きますが、そのように書かれています。「自分を捨てろ」とここで言われています。この「捨てる」という言葉は「知らない」と言うことです。ペテロがこの後、主イエスの裁判の時に、三度、「そんな人は知らない」と主イエスを拒絶しますが、まさに、それと同じ言葉です。自分自身のことを自分で否定する。そして、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさいと言われているのです。

 私たちは「救い」という言葉を理解する時に、「自分」ということと深く結びついて受け止めます。自分の悲しみ、自分の過去の過ち、自分自身の弱さ、失敗、そういうものから救われると言った時に、本当はこういう道を行きたかったというのが、自然と出て来ます。自分が救いだと思ってイメージしているものが何かしらあるのです。

 けれども、師であり、主であるお方はその時に、自分が望み見ているものをゴールとするならば、それは悪魔が待ち構えているものだと、間髪入れずに語りかけられるのです。なぜなら、はじめが肝心だからです。だいぶ進んでから、引き返そうとすると後ろ髪惹かれるものが沢山出て来てしまって、方向転換できなくなってしまいます。だから、主イエスを信じるということと、正しいゴールを示すということは同時に行われなければならないのです。

 しかも、ここで突然「群集を弟子たちと一緒呼び寄せて」と書かれていますが、この「群集」はどこから出てきたのでしょうか。このピリポ・カイサリヤで主イエスとこれまで会話をしていたのは弟子たちだけだったはずです。ところが、この会話で急に群集が出て来るのです。これは、おそらくこの福音書の著者であるマルコが、これを読む読者のことを想定しながら、この主イエスの言葉は、弟子たちだけに語られた言葉ではない、これは私たちに対して、主イエスからの語りかけの言葉と受け止めて、こう記したのだろうと考えられています。

 主イエスの言葉はまだ続きます。

「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。」

35節から37節を読みました。

 私は牧師になって20年経ちますが、牧師の中では比較的葬儀の経験が少ない牧師です。これまで五度葬儀をしましたが、これまで一緒に信仰の歩みをしてきた信徒の方の葬儀というのはほとんどなく、教会員のご家族という場合がほとんどです。おひとりだけ、病床で洗礼をして、すぐ亡くなられた方がありますが、ほとんどは他の教会員の方で、様々な理由で司式をすることになったというケースがほとんどです。そうなるとその方のことをあまり知らない中で説教をするということになります。そういうときの葬儀でする説教箇所として選ぶみ言葉がこの箇所です。

 「人のいのちは全世界よりも重い」と言う言葉がありますが、それはこの聖書が根拠になっているのではないかと思っています。

「全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」

主イエスはこのように語っています。主イエスにとってひとりの人のいのちというのは、それほどに重みのあるものとして見ておられるわけです。どうでもいい人間というのは誰もいないのです。何の価値もない人間というのはいない。そういう、全世界にも代えがたいいのちそのものが、救われるために、全世界のいのちよりも尊い神の御子である主イエスのいのちと交換して、救おうと思っておられるのです。そうやって、救われるいのちが、間違ったゴールに向かってよいはずがないのです。

 大切なことは、主イエスを救い主と信じるということは、そのゴールも主イエスの行かれる先にあると信じるということです。そして、その主イエスの背中を見つめながら、主イエスに従って行くということです。そこに、私たちが思い描いている救い以上の救いがあるのです。主イエスの背中が見えている。それが、自分を捨て、自分の十字架を負って主に従うということの意味です。自分が進もうとしているところに主イエスの背中が見えるということ、つまり、人を愛するために自らを犠牲とする姿を追い求めているならば、そこ先に、主の与えてくださるゴールは待っているのです。主イエスの背中が見えている時、私たちは自分をおいて、人のために生きることができるようにされているのです。

 けれども、私たちは気が付くと、主イエスの背中を見失ってサタンの道に、つまり自分の求める幸せ像を追い求めてしまうことになってしまうことが起こるのです。

 この世界は「姦淫と罪の時代」と38節で書かれています。新共同訳聖書では「神に背いたこの罪深い時代」となっています。神に背いているということは、主イエスの背中が見えていないということです。主イエスに背を向けて、自分の進むべき道をゴールだと考える。そういう世界では、主イエスの進む所にゴールがあるなどということをあざ笑うのです。自分の進みたい道を進んで何が悪い、人を大切にして何になる。もっと自分の本能のままに生きるべきだ。いろんな声が聞こえてくるのです。そういう声に耳を傾けて、神の言葉を恥じるなら、神の言葉に耳を傾けようとしないなら、わたしもその人を恥じると主イエスは言われるのです。

 全世界よりも、この世界の声よりも確かなもの、それが救いです。主イエスが示す道のゴールです。主イエスの背中がそれを物語ってくれます。自分をおいてでも、人のために生きることができる。人を愛することに自分の時間をついやす、そうすることができるように、神は私たちを神の手の中に招き入れてくださるのです。

 「救い」。マルコの福音書はそれを「神の国」と呼んできました。今日の聖書箇所の最後にこうあります。9章1節です。

「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

このように宣言されて、この箇所は終わっています。それで、昔から、この謎めいた言葉はどういう意味なのだろうかと多くの人たちが頭を悩ませてきました。神の国が到来しているのを見るまでは死なない人がいる。きっとそれはヨハネの黙示録を書いたヨハネのことではないかと考えた人もあったようです。

 神の国、それは神が支配してくださる世界、神中心の生活と言い換えることができます。神の御手の中で生きる生活です。それは、死後の世界、いわゆる死の先にある天国というのではありません。神の支配に生きるということは、死後に答えが待っているということではありません。弟子たちは、主イエスのよみがえりを見ることになりました。そして、まさに、神の支配がここにあるということを、弟子たちはこの言葉の通り経験する者となったのです。

 私たちの主は、私たちを確かなところに導かれるお方です。そして、その道は将来約束されているものでありながら、今、ここにあるものです。敵に迫害されても、困難な中にあっても右往左往しないで、主イエスの背中を見つめていられる生活。そういう平安は、神の支配は、主イエスが共におられるところにあるものです。神の国、主イエスの背中が見える生活、それこそがすでに、主イエスの示しておられるゴールそのものなのです。「あなたのいのちは全世界よりも尊い」と言ってくださる主が共にいて下さって、私たちの前を進んでいてくださるところ、このところこそが、私たちに与えられている救いそのものなのです。

 主イエスは私たちをそのような確かな安らぎの中においてくださるのです。

お祈りをいたします。

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