2018 年 9 月 2 日

・説教 マルコの福音書9章2-13節「聞け、そして、見よ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 15:00

2018.09.02

鴨下 直樹

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 二週間の夏休みをいただいておりまして、この間御代田にあります望みの村で少しゆっくりとした時間を過ごすことができました。望みの村では同盟福音の牧師や宣教師だけではなくて、他の教団の牧師や宣教師たちにも夏の間の宿を提供しています。そこで、一人の方とお会いしました。深井智朗先生です。深井先生は、今年、中公新書で出された「プロテスタンティズム」という本で吉野作造賞を受賞された方です。昨年宗教改革500年を迎えて、宗教改革が現代に何をもたらしたのかということを書かれました。今は東洋英和女学院の院長をしておられるのですが、その前は名古屋の金城大学で教授として教えておられた方です。

 実は、御代田でお会いしたのは私ではなくて、小学1年の娘です。御代田では、特にやることもないので、娘はマレーネ先生がみえる間はしょっちゅうマレーネ先生の泊まっておられる家に入りびたりになります。そこに来られた深井先生とマレーネ先生が話していたところ、翌日の礼拝は軽井沢の教会で説教をするということを聞いたのです。それを聞いた娘が、私たちも明日、その教会に行く予定にしていると、どうも、話したようです。実は私たちは、他の教会に行こうと思っていたのですが、娘が言ってしまったのなら仕方がないということで、その礼拝に出席することにしました。そして、深井先生の説教をはじめて聞いたのですが、本当に素晴らしい説教で、娘に改めて感謝しました。

 前置きが長くなったのですが、その説教でウクライナの人形劇でベルテックと呼ばれている人形劇があることを知りました。人形劇の大きさは縦2メートル、横3メートルの舞台が、上下二段に分かれているのだそうです。その劇では、この下の世界と上の世界の2場面を同時に演じるのを見るのだそうです。上の世界は天の世界。下の世界は地上の世界です。こういう人形劇はウクライナのユダヤ人が、子どもに信仰を教えるために考えたということでした。

 どんな人形劇か知りたいと思ったのですが、残念ながら見つけることができませんでした。ただ、そこで行われる物語は、信仰の話で、下では現実の私たちの世界が描かれているのですが、上の舞台、天では、その時同時に神様が働いていてくださって、私たちの生活を、私たちの見えないところで支えて下さっているのを、その劇では見ることができるということなのです。

 この地上で起こっている私たちの世界と、天上で起こっている神の御業。私たちにはこの神の世界は見えません。今日の聖書箇所は、このウクライナの人形劇の世界と重なり合います。ちょうど、ここに二つの出来事が記されています。一つは山の上で起こった不思議な出来事です。「変貌山」(へんぼうざん)などと昔から言われて来たこの出来事は、主イエスの姿が、まさに変わったのです。それまでの主イエスの姿ではなく、完全に聖いお姿、「その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった」と3節に書かれています。しかも、その両脇には伝説の人物と言っていいと思いますが、モーセとエリヤがあらわれたのです。旧約聖書の中には3人、死を経験しないで神のみもとに行った人物が描かれています。その一人は創世記に出て来るエノクです。この人たちは神の御許で生きていると考えられていました。そして、今ここに、その旧約聖書を代表する二人、モーセとエリヤが、光り輝く白さを身に帯びた主イエスと共にいるのを目のあたりにしたのです。
 まさに、天国とはこういう世界かと感じたに違いないのです。永遠の世界、復活の世界を見たと言っても言い過ぎではないと思います。

 弟子たちは、ここで神の支配というものを体験しています。他の何も邪魔しない、神と自分たちだけの世界を知るのです。そして、幸いにその場にいることがゆるされた3人の弟子たちが、ここに記されています。ペテロと、ヤコブとヨハネです。どうしてこの3人であったのか。彼らが弟子たちの中でも頭一つ抜き出ていたのでしょうか。聖書を読んでみると、そのようには読み取れません。信仰的に他の弟子たちよりも秀でていたからというよりも、主イエスがこの3人をお選びになられたということだけが、十分な説明なのだと思います。

 ペテロは、こう言います。「先生、私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
 弟子たちが考えついたのは、この素晴らしい世界にとどまっていたいということだったのでしょう。これが、弟子たちの考えの限界だったのだと思います。

 この前の箇所を説教したのは今からもう一ヵ月前のことですから、もう忘れてしまっているかもしれませんが、主イエスはこの前のところで、「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と語られました。主イエスがこれから受ける受難の予告をなさったあとで、こう言われたのです。主イエスの背中を見つめながら、私たちも、自分に与えられている十字架を負って、主イエスに従って行くのだということが語られたばかりなのです。

 けれども、そんなことは忘れて、もうこの完全な世界に、まさに、主イエスが神の御子であることを疑いもなく、見ることの出来る世界、神の完全な栄光の姿にとどまりつづけたいと考えるのは当たり前のことなのかもしれません。

 今日の聖書箇所の非常に興味深い点は、まさにその時、地上ではどうなっていたかという、ウクライナの人形劇ベルテックで描いて見せているかのように、下の段ではどうなのかということが、描き出されているのです。

 残された9人の弟子たちのところに、口をきけなくする霊につかれた子どもが連れて来られます。そして、主イエスのいない中で、弟子たちが右往左往している姿が描かれているのです。それが29節まで記されています。今日は、13節までですから、そこはまだ丁寧にはお話しませんが、この弟子たちの慌てふためく様子が、私たちにはよく分かるわけです。

 主イエスしか見えていない生活というのがあるならば、私たちは毎日安心して、平安にくらすことができるはずなのです。けれども、私たちの目の前にはさまざまな課題、難題が降りかかってくるのです。そして、主イエスの姿が見えない時、私たちは慌てふためくしかなくなってしまうのです。

 このベルテックと言われる人形劇の世界のように、私たちにはこの地上で起こっていることしか、目に入ってこないのです。それが、私たちの生活です。けれども、主イエスはそういう圧倒的な厳しい世界を目の当たりにする前に、主がお選びになった弟子たちにこの神の完全な世界をお示しになられるのです。

 今日、この後で結婚の約束をするために婚約の祈りをする二人が来ています。こういうことを言うべきかどうかわかりませんが、結婚をする前というのは、それこそ天上の世界のように、麗しい世界を夢見ながら、そのために準備をしています。けれども、結婚をした途端、目の前には現実しか見えない生活が始められていくことになります。何でも、二人で解決していかなければなりません。途方にくれてしまうことも起こってきます。けれども、何があっても、どんなことが起こったとしても、二人で受け入れあって、協力し、赦しあって、二人の生活を築き上げていくのだということを誓って生活を始めるわけです。

 誓ったところで、その誓いを果たす力が自分たちにあるわけではありません。だから、神さまに信頼しながら、祈りながら二人で乗り越えてゆくわけです。その時に、大事なことがある。それは、目の前の現実がすべての世界なのではないということを、知っているということです。私たちには見えていないかもしれないけれども、神の支配しておられる世界がある。この神の支配してくださっている世界は、なかなか見えてこない。けれども、それは確かにある。どうしたら、その世界が見えてくるか。それは、主イエスの言葉を聞き、主イエスの姿を仰ぎ見るところに見えてくるのです。

 この素晴らしい神の栄光の姿の世界の中で、言葉が響いてきます。7節です。

そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」

 「彼の言うことを聞け」。これが、ここで語られている言葉、神から語りかけられている言葉です。主イエスの語られる言葉は、神の言葉なのだということです。この後、現実の世界の中にもう一度引き戻される。すぐに、困惑するような事態の中で、あれはいったいなんだったのかというようなことが起こる。けれども、主イエスの言葉を聞け。主イエスの言葉の中に耳を傾けていくならば、自分を見失ってしまうことはない。厳しい現実に呑み込まれることはない。闇に支配されることはない。主イエスの言葉こそが、厳しい現実の中で、力を持つ天の世界を知らせる言葉なのだから。そのように、語りかけているのです。

 今日の冒頭で、それから六日目にと書かれていました。前に神の言葉を聞いて、六日経ってからの出来事ということです。前に主イエスが語られたのは、受難の予告をお語りになられた時のことでした。そして、一週間経って、またみ言葉を聞く機会がある。そういうふうにも読めると思います。み言葉を聞いて、六日経ってまた、新しい一週間を迎える。その生活の中で、私たちは教会で聞いたようにはいかないという現実的な生活を経験するわけです。そして、またみ言葉を聞く。そうやって、主イエスの言葉に耳を傾け続ける生活を築き上げていく時に、私たちは、何度も何度もこのみ言葉に助けられながら、見えなくなってしまう神の支配を、もう一度見るということを経験していくわけです。

 主は私たちのことを忘れてはおられません。私たちがこの世界で経験するさまざまなことを、主イエスご自身も味わいながら、ご自分もまた神の言葉に支えられてこられたのです。その主が、私たちに神の世界に身をおくことの平安を語り聞かせてくださるのです。

 この主の言葉を聞き、そして、神の支配を見る。主イエスはそうやって私たちを支えて下さるのです。「聞け、そして見よ!」。そう語りかけてくださる主のみ言葉に耳を傾けつつ、神の言葉のいのちと光を味わっていきたいのです。

お祈りをいたします。

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