2018 年 10 月 14 日

・説教 マルコの福音書9章38-41節「弟子の視点と主イエスの視点」

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2018.10.14

鴨下 直樹

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 聖書を読む時に、大切なことがあります。コンテキストといいます。文脈と訳されることが多いのですが、その前後に何が書かれているかということをちゃんと理解をして聖書を読むことが大事なのです。

 今日の箇所は比較的短い箇所です。説教をするときに、どこで区切るのかということもありますが、今日の箇所は、この前の部分である30節から37節までのところと非常に深く結びついている箇所です。この前のところでは、誰が一番偉いのかということが主題になっていました。そして、主イエスは子どもを真ん中に立たせてから、37節のところで、

「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」

と言われたのです。
 今日の個所はそれを受けてのことです。そういう流れの中で、主イエスの弟子のヨハネが、主イエスに一つの報告をしたのです。

「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」

 主イエスは「わたしの名のゆえに受け入れる」という話しをなさったことを受けて、ヨハネなりに考えたわけです。主イエスの名によって小さな子どもを受け入れるのは、主イエスを受け入れることになる。それは、分かる。けれども、受け入れてはいけない場合もあるのではないか。そんなことをヨハネが考えたのでしょう。そこで、こういう場合はどうですかと、問いかけたわけです。

 この9章に書かれておりましたけれども、変貌の山の出来事のあと、山に登っていなかった弟子たちは、悪霊に支配されていた子どもを癒すことができませんでした。ところが、この主イエスの名を用いていた人は、悪霊を追い出すことができていたようです。ヨハネたち弟子たちにはできなかったわけですから、すごいという気持ちが起こったのかもしれません。37節を読むと、ヨハネは「一緒に主イエスに従わないか」と声をかけたのでしょう。ところが、この人はヨハネの誘いは断ったのです。主イエスと一緒について行くつもりはないというのです。

 不思議なことです。主イエスについていこうとしていなくても、主イエスの名には力があるというのです。これはどういうことなのでしょうか。色々なことがここから考えられると思います。勝手に人の名前を使って、力あるわざをするという時に、人はあまりそれを嬉しくは思いません。勝手に総理大臣の名前を使ったということで、少し前に大きな事件が起こったばかりです。「名誉棄損」などという言葉もあります。主イエスに従おうとしない、仲間ではない者が、勝手に名前を使っていたので、仲間に入らないか一応誘ってみたのですが、その人は断ったので、やめさせました。このヨハネの言い分はとても筋が通っていると思います。頭ごなしに否定したということでもないのです。

 ヨハネの言い分はこうです。この人は同じ仲間ではない。なろうともしていない。そういう人が、主イエスの名を用いるのはよくないことなのではないか。いくら、主イエスが人の下に立たれて、わたしの名を、わたしのことを受け入れて欲しいと言われても、例外はあるはずだ。こういう人は認められないと思う。そのことをヨハネはここで主イエスに問いかけたのです。

 その話をヨハネがした時に、主イエスはこう言われました。39節です。

しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。」

 主イエスのこの言葉は驚きです。一言で言いうと寛容ということに尽きると思います。「やめさせる必要はない」と言われるのです。しかも、つづく40節ではこうあります。

「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」

 主イエスに反対しない人、主イエスの名を唱えて力あるわざを行う者は受け入れたらいいのだと言われるのです。

 これはどういう意味なのでしょうか。たとえば、自分はイエスだと自称するような宗教家というのは、過去に色々と現れて来ました。日本にも、自分はイエスの生まれ変わりであるというような宗教家は何人もいます。そういう主イエスの名をかたる者は少なくありません。考えようによっては、そういうのもいいとも読むことができます。どういうことなのでしょうか。

 ここで、注意深く考える必要があるのは、「主イエスの名を唱えて力あるわざを行う」とここに書かれています。これは、主イエスの名前を好きなように利用して、自分の利益を得ようとしているということではないはずです。主イエスの名を唱えて、力あるわざを行うことができるということは、主イエスを受け入れているという意味と考えるべきです。そのことをまず、前提として考える必要はあると思います。ですから、異端といわれるグループや、主イエスの名を語る偽キリストというものとは区別される必要があります。

 けれども、ここで主イエスが教えようとしておられるのは、主イエスは私たちが考えていることよりも、はるかに寛容なおかたであるということです。私たちはプロテスタントというグループに属しています。プロテスタントというのは、宗教改革の時に、カトリックの当時の考え方に、プロテスト、つまり「抗議」したグループです。それは、ドイツやフランス、イギリスなどでも同じ時期に行われたために、プロテスタントの中にもルター派の教会と呼ばれる教派が生まれ、カルヴァンの流れの改革派や長老派と呼ばれる教会が生まれました。そして、イギリスでは聖公会と呼ばれる教会が誕生します。その後も、このプロテスタントの教会は各地に生まれていき、ウェスレーを代表とするようなきよめ派といわれるグループが生まれ、アメリカではバプテストと言われるグループが生まれる。その後も、プロテスタント教会は、色々なグループが生まれ、どんどん細分化されていきました。そして、それぞれの教派の特徴が強調されるようになっていきました。私たちの教会に来ておられる方々でもかつてはルター派の教会に行っていたとか、改革派の教会でしたとか、日本キリスト教団の教会に行っていたとか、色々な背景を持っている人たちが集っています。

 その中で、私たち同盟福音基督教会というのは、信仰基準というのを持っていますが、その前文では、「私たち同盟福音基督教会は、歴史的に受け継がれてきた「使徒信条」を信仰の告白とすると共に、「同盟福音基督教会の信仰基準」を信仰の指針としています。」と書かれています。このことは、是非、みなさんに知っていただきたいのですが、私たちのような、使徒信条を信仰の告白とする教会のことを簡易信条主義と言います。私たちは、どこまでを信仰の範囲としているかと考えるのではなくて、中心に使徒信条を置いて、その方向を見つめていこうというように考えているわけです。

 少し前のことですけれども、私のところに、同盟福音の教会のある役員の方から問い合わせがありました。今、教会にカトリックの信仰を持っている外国の方が集って来ている。その方に、牧師は聖餐を授けようとしているけれども、それはいけない事ではないのかと質問してきたのです。これは、それこそ、以前所属しておられた教会が異なる方にとっては、色々な意見があるデリケートなテーマなのかもしれません。けれども、その教会に、私たちは使徒信条を信仰の告白としているので、この外国の方が使徒信条を告白することができるのであれば、聖餐に与ることが出来るのですよと、お答えしました。その役員の方はとてもびっくりしておられましたが、私たちの同盟福音が簡易信条の信仰を告白しているというのは、そういう意味なのですよとお伝えしました。

 私たちは、この教団、教派のことを考えると、色々なことを考えます。あの教会はリベラルな教会、奇跡をそのまま信じない教会だとか、あの教会はペンテコステ教会、手を上げてお祈りする教会だとか、聖霊の賜物を強調する教会だとか、あそこの教会は保守的すぎるとか、ファンダメンタルだからとか、まぁ色々出て来ます。けれども、私たちが天の御国に入れられるとき、そこにはみんな一緒にいるわけです。日本人も韓国人も、ドイツ人もありませんし、白人とか黒人とかいう違いもそこにはありません。

 主イエスは言われるのです。「わたしの名を唱えて力あるわざを行う人たちを受け入れていったらいいのだ」と。「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です」と言われるのです。

41節にはこうあります。

「まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。」

 主イエスがお語りになられる寛容さは、主イエスの御名の力だけではない。主イエスを信じるということにとどまらない。キリストに属する者だということで、水一杯、飲ませてくれるような人がいるならば、その人にも神の報いがあるのだというのです。つまり神から何らかの祝福があるというのです。

 私たちの主イエスは気前の良い方です。大きくて、広い寛容なお方です。私たちは狭くて、小さな場所の方が安心できるし、その方が分かりやすいかもしれません。けれども、私たちが安心できるかどうかが、基準ではないのです。大切なことは、主イエスは多くの人を御前に招きたいと願っておられるおかたです。主イエスの与える救いは、私たちの理解の及ぶ範囲内なのではなくて、神の心の豊かさが、その範囲となっているのです。

 私たちが、誰かを締め出したいと思う時、そこには醜さがあります。妬みがあるかもしれませんし、うらやましさがあるかもしれません。あるいは、正義感があるのかもしれません。色々受け入れたら、大変なことになってしまうと心配するのかもしれません。けれども、私たちの主は、そのような私たちの不安をひっくり返すことのできるほどの、大きな愛で、そのすべてを包み込んでくださるのです。そして、何よりも、私たち自身がその愛に受け止められているのです。

 私たちは、私たちが知っているより以上に受け止められているのです。私たちが理解している以上に救われている。私たちが感じているよりも深く赦されているのです。この心豊かな、寛容な主イエスが、私たちの救いの主なのです。

お祈りをいたします。

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