2009 年 10 月 18 日

・説教 「新しい創造」 ガラテヤ人への手紙6章11節-18節

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鴨下直樹

 私たちは半年にわたり、創世記の御言葉を聞き続けてきました。この朝は、これまでの創世記の前半を振り返りながら、もう一度、御言葉に耳を傾けたいと思います。

 それで、この朝私たちに与えられている聖書のテキストは、パウロがガラテヤの人たちに宛てた手紙の最後の部分で語られている「大事なのは新しい創造です」という言葉です。新共同訳の聖書では「大切なのは、新しく創造されることです」となっている言葉です。

 何度もお話しておりますけれども、今、水曜日と木曜日の祈祷会で「パウロ伝」を学び続けております。先回は、パウロが三度の伝道を終えた後エルサレムに戻りまして、そこでユダヤ人たちに捕えられてしまうところまでを学びました。使徒の働きの21章27節から36節に、その時の出来事が記されています。

 パウロは、アンテオケの教会からつかわされ、イスラエルにありますシリアから、キリキア、パンフリア、ガラテヤを通ってピリピやテサロニケのある海の向こうのマケドニヤ、さらにコリントやアテネなどのあるアカヤ地方、そして、エペソ、コロサイなどのあるアジアなどのローマの属州を次々にわたって伝道いたします。その期間にいくつもの教会を建て上げて行きました。これらの国々は、もちろんイスラエル人たちの国ではありませんから、ユダヤ人たちが異邦人と呼んだ人々に福音を語り続けていったのです。そこで、パウロはこの異邦人たちに対しては、ユダヤ人のように、聖書の戒めに従って生きるのではなく、主イエスへの信仰に生きることが大切だと語り続けていきました。

 ところが、パウロが伝道すると必ずそこに、ユダヤ人のパウロの教えに反対する人々が現れます。この人々はエルサレムの教会で信仰をもった人々も中にはいたのでしょう。このユダヤ人のキリスト者たちというのは、パウロは、モーセの律法を軽んじていると、常につきまとってまいりまして、パウロの伝道の妨害をするのです。それで、パウロがガラテヤの教会を訪問した後、そこにもこのエルサレムから来たユダヤ人キリスト者たちが現れまして、パウロの教えは間違っているといってガラテヤの人々を混乱させます。そして更には、パウロがそれまでの長い伝道を終えてエルサレムに戻ってくると、待ち構えていたようにして、パウロを捕えてしまったのです。この時、パウロを捕えたユダヤ人たちは、パウロの教えが間違っていると確信をもっていたことでしょう。というのは、このユダヤ人たちにとって、モーセの戒めと、その戒めの象徴でもある「割礼」というのは、自分たちユダヤ民族の象徴といってもよいほど大切なものとしていましたが、パウロはこの割礼は大事ではない。大事なのは新しい創造だと言っていたからです。

 木曜日の祈祷会でも、ある方が「なぜこのユダヤ人のキリスト者はこれほどまでにパウロの伝道を批判したのか、まるで違う信仰のようではないか」と質問してくださった方がありました。パウロのキリスト教と、エルサレム教会のキリスト教とはまるで違うもののように感じるというのです。

 そこで、みなさんにも少し考えて頂きたいのですけれども、当時のユダヤ人たちがどのように信仰をとらえていたかということです。当時のユダヤ人たちというのは、一つであったイスラエルは国が二つに分裂してしまい、更に、他の国に侵略され捕囚となります。そして、次々に支配者が変わる中で、神殿も破壊されていました。誰もが聖書を持っていたということではありませんから。神の民としての誇りを保つことができるものは、ほとんどいなくなっていました。ユダヤ人にとって、「割礼」だけが、唯一、ユダヤ人であることを示すことのできる、彼らのアイデンティティだったのです。ですから、その自らのプライドともいえる「割礼」を否定するパウロという人物が、彼らの目に敵対視されたのは、やむを得なかったと言えるのです。もちろん、パウロもユダヤ人です。旧約聖書の戒めに誰よりも厳密に生きようとしたのは、かつてのパウロでした。けれども、その律法主義者であったパウロは、主イエスとお会いして、自分の考えが根本的にひっくり返ってしまうことを経験します。これが、パウロの主イエスとの出会いだったのです。

 

 パウロはこのガラテヤ人への手紙の中で、「律法の行いによって義と認められるのではなく、キリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」と語っています。この言葉が、どれほど、ユダヤ人たちにショックを与えたかは私たちには想像もできないほどでしょう。ユダヤ人のアイデンティティよりも優れたものがある。それが主イエスを信じることだとパウロはこの手紙で語ろうとしているのです。

 この朝、私たちに与えられた聖書では次のような言葉で書かれています。

 

あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。(12節)


 パウロは11節から、自分の手でそれも大きな字で書いていると言っています。それだけこれから語ることが大切だということです。そうして、まず書きたかったのがこのことでした。それは、「割礼を受けなければならない、などと教えている人は、さも、自分は聖書を大事にしていると外見を装ってはいるけれども、実は彼らは迫害が怖いのだ」ということなのです。というのは、その人たちは、神を恐れる思いからではなく、むしろ人を恐れているに過ぎない、ということをパウロは見抜いていたのです。

 

 人は誰もが恐れと向かい合う時に、力を持つことでそれに備えようとします。力は、恐れに打ち勝つと思うからです。たとえば、人から良く見られたいと思う。だから、そのために外見を整えるというのも一つの力です。外見を整えることによって、人からよく思われる。それは、私たちが日常ごく一般的に経験していることです。

 この「外見を良くしたい」という言葉のギリシャ語は少し面白い言葉が使われています。「エウプロソーポー」という言葉ですけれども、はじめの「エウ」ということばは「良い」という意味の言葉です。「福音」のことをギリシャ語で「エウアンゲリオン」といいますけれども、その「エウ」も「よい」という意味で、「よいおとずれ」、「福音」という意味になります。この「エウプロソーポー」の「プロソーポー」と言う残りの言葉は、「顔」と言う意味の言葉です。ですからこの言葉は「よい顔をする」ということになります。腹の中はともかくとして、外見はいつもいい顔をしているという言葉です。どうして、腹の中は見せないで、外側を飾るのかというと、やはり人が怖いからです。人から嫌われたくないとか、人から軽く見られたくないとか、私たちは色々な思いに支配されているために、外見を飾るということをしてしまうのです。

 

 パウロは言います。もし、そのように、自分を守るために、心は伴っていないのに外見を整える、形だけは整えるために割礼を受けるということなら、意味がないと言うのです。この時のガラテヤ教会の人々は、エルサレムから来たユダヤ人が、割礼を受けるようにと言うのであれば、何も形だけのことなんだからそれに従っておけばいいだろうと考えていたということです。けれども、そのことは実は、割礼を受けるということに留まりません。人を恐れるために、あらゆる形式だけを整えるということを、私たちもいたるところでしてしまうのです。そうやって、私たちは自分を守ります。そして、そのように、立派に人とうまくやっていけることを、私たちはどこかで誇っているのです。それでいい、仕方がないのだと思って生きているのです。けれども、パウロはそのように生きる者に、問いかけます。「あなたは、何によって生きているのですか?」と。この聖書の言葉で言えば、「あなたは何を誇りとして生きているのですか?」という問いです。

 

 私たちはそこで、神の御前にでることを問われています。私自身のことでもそうです。いつの間にか、気がつくと牧師として外見を整えようとしてしまいます。腹の中で別のことを考えながら、良い顔をしてしまうことは度々です。そういう私にパウロは問いかけてくるのです。「お前は何によって生きているのか?」と。「お前を生かしているのは一体何か?」と。「あなたを喜ばせている者は、一体何か?」と。

 

 パウロがここで戦っている相手は、キリストを信じていない人ではないのです。キリスト者です。主イエスを信じている人々に問いかけているのです。割礼を受けなければいけないと思っているというのは、言い換えれば、クリスチャンとして、キリスト者として、キリスト以外のところに誇りを置いている、何か別のものが生きがいになっているということです。これは私たちへの問いです。そういう中で私たちは、他の人々の顔を見ながら、みんなが、それでいいというのであればこれでいいかのかと、思って生きてはいないか?ということです。

 これは、実に厳しい問いです。私たちには、近所との付き合いがあります。親戚との付き合いがあります。学校の付き合いがあります。教会の中のも色々な人との関わりがあります。私たちはそういう人との関係の中で生きていますから、どうしたって、その中で上手に生きて行こうとします。そして、そこで自分を失ってしまうような経験をしながら苦しみます。人と合わせて、それこそ、腹の中では別のことを考えているのに、外側はいい顔をして適当に合わせて生きなければ、やっていけないと思ってしまう。それほどまでに、私たちが生きている世界のしがらみは強いものです。

 

 私たちはどうして人の顔を恐れてしまうのでしょう。それは、どこかで、他の人は私を非難するに違いないと思っているからです。外見を取り繕わなければ、自分の身を守れないと考えているからでしょう。けれども、私たちが本当に恐れなければならないのは、本来、神ご自身であるべきでしょう。この神を軽んじておきながら、周りの人から身を守ったところで、何の守りにもなっていないのです。けれども、この神は、私たちが敵としていれば、本当に恐ろしい敵となってしまうのですが、私たちを守ろうとして下さっていることが分かるならば、これほど心強いものはないのです。それで、神は、私たちに、神が私たちと共に生きて下さって、私たちを守ってくださる。救ってくださるということを、主イエス・キリストが十字架にかけられることによって、私たちに示して下さったのです。そして、そのことを信じたのが、キリスト者であるはずなのです。

 

 ですから、パウロは言うのです。 「しかし、私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならないのです」と。

 私たちの生活の中心は、私たちのために十字架にかかってくださった、主イエス・キリストではないのですか!と、パウロは問いかけるのです。

 そして、パウロはこのためにこの手紙を書いて来たのだと言わんばかりに、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」と語るのです。

 「大事なことは新しい創造です」これ以外には何もありません。この天地をお造りになった神は、この世界のすべてをお造りになられた神です。この神は、あなたを新しく生かすことができる方です。わたしを、新しく生かすことのお出来になるお方です。

 あるドイツの神学者が言いました。「現代に必要なキリスト教のメッセージがあるとしたら、この『新しい創造』という二語につきる」と。そして、もう一つの聖書の箇所を勧めています。

 

 第二コリント5章17節です。

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。


 「古いもの」それは、人を恐れて生きていた自分の生活です。「古いもの」それは、神でないものに、自分の生きがいを見出していたわたしです。けれども、神が私の味方となってくださって、キリストがうちにいてくださるならば、わたしたちは、もうこの「古いもの」に支配されて生きる必要はないのです。私たちは新しくなるのです。「古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」とあるとおりです。私たちがキリストと共にあるなら、私たちは新しい存在となるのです。この世界を創造された神が、それをしてくださるのです。

 

 パウロは言います。

 「大切なのは新しく創造されることです。」(新共同訳)

 神が私たちを新しくしたいと願っていてくださるのです。この天地をお造りになった神は、古い私たちを新しい存在にしたいと願っていてくださるのです。この新共同訳の翻訳では「創造されることです」とあります。つまり、それは神がしてくださるということです。自分で、自分の力で新しくなろうというのではないのです。神は、私たちを新しくしたいと思っていてくださるので、私たちがそのことを信じ、願うなら、キリストが共にいてくださって、私たちを新しい存在へと神が変えてくださるのです。新しい者へと、神は私たちを再創造してくださるのです。 そのことを信じますか?

 

 私たちは思います。それは簡単なことではないと。私たちはこれまでの経験から、自分がちっとも新しくなっていないことに苦しんでいるのかもしれません。けれども、私たちは知らなければなりません。

 もし、その神の願いを妨げているものがあるとしたら、それは自分自身に他ならないということです。それは、私たちの神への無知以外の何ものでもないのです。それは、私たちが神を知らないことから出ているのです。

 というのは、私たちには、神が見えていないで、人の顔ばかりが見えているがために起こるのです。あるいは、神以外の何かに心が奪われてしまっているために、キリストが誇りとなっていないがゆえに起こることです。いずれにしてもそれは、神を知らないがゆえに起こっているのです。

 

 パウロはこのガラテヤ人への手紙の最後で自分自身のことをこう言っています。


 私は、この身に、キリストの焼印を帯びているのですから。(17節)

 

 焼印というのは、当時ローマの世界では脱走した奴隷がもうできないようにと印を押されました。あるいは犯罪者にも押されました。あるいは、ローマの兵士たちは自分の所属部隊の隊長の名を焼印で押したということもあったようです。

 パウロはこの焼印という言葉を、複数形で書いていますから、自分の体に様々な傷跡があったということでしょう。パウロ自身、コリント人への手紙第二の第11章23節~25節で次のように語っています。


 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。


 ですから、パウロにはおそらく体中にありとあらゆる傷があったことでしょう。三十九のむちというのは、四十回のむちを受けると死んでしまうので、一つ足りないむちを与えたようですけれども、そのような死ぬほどの経験を、パウロは幾度となく受けて来たのです。けれども、パウロはその傷跡を見ながら、これは人の顔を恐れてついた跡ではない。ただ、神のみを神としたためにできた傷跡で、この傷を見るたびに、自分はキリストのものであるということを実感することができたのだろうと思います。

 私はキリストのものであるという自覚は、それほどに、私たちを守るものとなるのです。私は、キリストのものである。そのことを洗礼を通して確認していたのは、宗教改革者マルチン・ルターですけれども、かつて、ルターは、修道院で生活していたときに、「人間にひいきされるだけではなくて、神にひいきされるためにはどうしたらいいのだろう」と悩んだと言われています。いや、悩んだだけではなくて、そのために神経衰弱に陥ったほどだったそうです。それほどまでに、キリストとともにあるということを願ったということでしょう。

 私たちに問われているのは、パウロのように、ルターのように、わたしはキリストのものである、キリストが共に生きていてくださっている、キリストが私を贖ってくださったという、動かし得ない事実をいつも覚え続けることです。

 もし、誰かが、キリストのために迫害されるなら、そのことを喜びとしたらいいのです。もし、誰かが、キリストのために他の人から悪く思われてしまったのではないかと心の中で悩むなら、それは、パウロと同じように、自分の心の中に、キリストのしもべとしての焼印が押されたということなのです。そのようにして、私たちは、ありとあらゆる形で、私とともにキリストが生きていてくださっていると覚えることができるでしょう。そうして、その時、知ってください。神が私を新しい存在に変えてくださったのだと。神が、今、私を再創造してくださっているのだと。

 

 神が、この天地をお造りになられたとき、神はそれを見て、言われました。「それは、非常に良い」と。この天地をお造りになられた神は、私たちをも新しく造り変えて言われます。「それは、非常に良い」と。天地万物の造り主である神は、私たちをそのように見て下さっているのです。このお方が、私たちの救いの神です。このお方が、私たちに生きるすべての喜びを与えてくださるのです。ですから、このお方を仰ぎ見つつ、私たちを新しくしてくださる主に期待しながら、キリストともに、歩んでまいりましょう。

 

お祈りをいたします。

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