2019 年 1 月 27 日

・説教 マルコの福音書11章12-25節「戦う主イエス」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 22:33

2019.01.27

鴨下 直樹

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 今日の説教題を「戦う主イエス」としました。戦っている主イエスのイメージというのは、私たちが心惹かれる主イエスのお姿とは少し違っているかもしれません。私たちは、主イエスのお姿を見る時に、人を慈しみのまなざしで見てくださるお方、人を癒し、人を受け入れ、赦してくださるお姿に安心します。慰めをそこに見出すことができます。けれども、ここで出てくるような、いちじくの木を叱りつけ、呪われるお姿や、神殿の境内で商売をしている人々の台をひっくり返して怒るお姿というのは、あまり心惹かれるということはないわけです。だいたい、人が怒っている姿を見て、それが好きという人はそれほど多くはないと思います。

 けれども、この戦う主イエスというお姿は、私たちが信仰の歩みをしていくなかで深く心に刻む必要のあるお姿です。そして、ここに深い慰めがあるということを私たちは今日、心に刻みたいと思うのです。

 主イエスは何と戦っておられるのでしょう。今日の聖書を見ると、特に、いちじくの木に向かって叱りつけておられるお姿には理不尽ささえ感じます。12節で「イエスは空腹を覚えられた」と書かれています。よく、「男の人はお腹が空くと機嫌が悪くなる」などと言います。主イエスも例外ではなかった。そう考えれば、男性陣は少しそういう気持ちを正当化できる気がするのかもしれません。けれども、もちろん、聖書はそんなことを語りたいわけではありません。

 葉っぱは青々として見せかけは立派だけれども、実の無いいちじくと、祈りの場である神殿で神への思いはそっちのけで商売にいそしむ人々の姿。この両者のあり方に対して主は戦っておられるのです。それは、つまり見せかけだけの信仰との戦い、あるいは神に期待しない信仰に対して、主イエスは戦っておられるということなのです。

 たしかに、実のなる季節ではないのに、実を実らせていないいちじくに腹を立てることは非常識なことです。私たちはこの常識というものに支配されて生きています。もちろん、それは大事なことです。非常識なことを期待して生きている人は、夢見がちな人などと考えられてしまいます。けれども、神は、私たちの常識を打ち破ってことを行われるお方です。すべて自分の手のうちにあることを期待するのであれば、それは神の御業としては何も起こらないことと同じです。葉は青々としていて見かけはよくても、それだけではいちじくの実を楽しむことはできないのです。神は、私たちの思いを超えて働くのです。

 昨日一日、私は重たい心で過ごしました。なかなか聖書を読んでも平安がなくて、説教の準備に集中できませんでした。次の教団の3月総会のことで、いくつか心配なことがあって、そのために平安がないのです。頭の中でぐるぐる色々なことを考えます。あの人はこういう意見を出すのではないか。そうしたらどう説明しようか。そんなことばかりが頭の中をぐるぐる駆け回って、落ち着かないのです。

 けれども、改めてこの聖書の言葉と向き合うと、それも同じことではないかと気づかされるわけです。自分の頭の中で想定できることを一所懸命考える。どこに信仰があるのかとふと考えさせられました。そして短く祈りました。「主よ、もうあなたにすべて委ねます。アーメン。おしまい。」

 主イエスは不信仰と戦っておられる。私たちと戦うのです。そして、気づくなら神を見上げて、祈る。そして、はいおしまい。あとは神にゆだねる。どういう結果であったとしてもそれを受け入れる。神の御業に期待して祈るというのはそういうことです。

 15節以降の箇所では、主イエスがいよいよエルサレムに入られて、何をなさったのかが記されているところです。そこで「主イエスの宮清め」と呼ばれていますけれども、神殿の境内に異邦人の庭と言われるところがあります。そこはかなり広い場所なのだそうで、その中の南の庭と言われる場所だけでも、東西に200メートルあったようです。そこにずらりと商売の台が並んでいる。お祭りの屋台のようなイメージでしょうか。実際、その時は神殿の三大祭の一つである過ぎ越しの祭りの季節です。大勢の人たちが集まり、そこで商売をしているわけです。そこで、神殿の礼拝に捧げる供え物を買うことができました。まずは、神殿用のお金に両替して、そのお金を使わないと買い物ができないのです。そういう中を、主イエスがその商売の屋台の一つ一つをひっくり返していくのです。騒然とした雰囲気であったと思います。まさに、主イエスの戦いです。まことの礼拝とは何かという戦いです。お祭りを楽しんでいる人々の空気を読むなんてことは全くないのです。

 エルサレムに入場されたダビデの子は、イスラエルに敵対するローマと戦うのではなくて、まさにエルサレムの都の神殿で、イスラエルの人々、特に祭司や律法学者を相手に戦いを挑んでおられるわけです。

 敵はあっちだと言うようなところで、自分たちの方に戦いを挑んでおられるわけです。これにはイスラエルの人々も驚いたと思います。そこで、主イエスはこう言われました。17節、

「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

そう言われたのです。

 これは、イザヤ書56章のみ言葉です。異邦人の庭に、主イエスが来られるということは、まさに、「あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」というこの預言が実現しようとしているのです。ところが、主イエスが来てみると、そこは祈りの家とは程遠い、「強盗の巣」と化しているのです。確かに、人々は大勢エルサレムに集って、さながら緑豊かに生い茂ったいちじくのようです。けれども、そこにはもっとも大切なものが欠けているのです。それは、神を見上げる心がないのです。そこに、祈る心がないのです。 

 これも、先のいちじくの木のことと根本的には同じことです。ここに主イエスの戦いがあるのです。主イエスはここで、信仰なき者、祈り心のない者たちを相手に戦っておられる。神を見上げることができなくなっている者を裁いておられるのです。

 今、私は名古屋の神学校で「牧会学」という授業をしています。そこで、加藤常昭先生の書かれた『慰めのコイノーニア』という本をテキストにして学んでいます。昨日、その本の中に書かれている宗教改革者ルターの言葉を一緒に読みました。それは、ルターの同僚の牧師であるシュパラティンに対してルターがあてた手紙を紹介しているのです。とても素晴らしい長い手紙ですべてを紹介したいのですが、何ページにもわたる長い手紙なので、簡単にまとめて紹介したいと思います。

 どうも、このシュパラティンがとても深く心煩わせていたので、シュパラティンの妻がルターに相談したようです。それで、手紙を書いたのです。そのルターの書いた手紙によると、シュパラティンは自分が犯した罪のために、悲しみに暮れてしまって自分をいじめているというのです。その手紙の核心部分にはこう書かれています。

「それ故に、わたしの心からの願い、また警告はこれです。どうぞ、私ども、とんでもない罪びとたち、頑迷固陋(がんめいころう)な罪びとの仲間入りをしてください。そのようにして、キリストを、絵空事の子どもっぽい罪からしか救い出すことのできないような小さな、頼りのない存在にしてしまわないようにしてください。」

 ルターは同僚の牧師に勧めるのです。私たちはとんでもない罪びとなのだと。キリストは小さな罪からも救えないようなお方なのかと問いかけているのです。何か小さな過ちを犯して、神様はその罪のための罰を与えている。もう私はだめだなどと嘆くのは子供っぽいというんです。私たちはもっと大きな罪を犯していて、そのとてつもない罪をまるまるキリストを通して赦されているのだと、同僚に語りかけているのです。

 私たちは、このシュパラティン牧師の気持ちがよく分かるのです。自分に降りかかってくる悲しみに目を留め、私たちの主のお姿を小さくしてしまうのです。自分の常識で判断し、もう神は私に心を向けてくださらないのではないのかと考えてしまうのです。

 私がよくする話の一つですが、結婚式の披露宴でつけてしまったエビチリの話しです。入門クラスをする人はいつも聞かされている話の一つです。友達の結婚式に招かれて、きれいなワンピースで出かけます。立食の食事のテーブルの真ん中にエビチリの皿が置かれています。なんとなく、食べたい気分になって、手を伸ばして、自分の皿に入れようとしたときに、エビチリがこぼれてしまってワンピースの目立つ場所にしみになってしまった。こうなると、もう結婚式は楽しめません。なんで、エビチリに手を出してしまったのか、どうしてこうなることが予想できなかったのかと自分を責めるのですが、もうついてしまったしみはどうすることもできません。

 こうなると、もう後は披露宴が終わるまで、何とかワンピースにつけてしまったエビチリのしみが、他の人に気づかれないようすることだけに気持ちを集中させることになるわけです。もう結婚式どころではなくなって、お祝いの気持ちは吹き飛んでしまうのです。けれども、本当は結婚のお祝いの主役は自分ではありません。結婚をする二人をお祝いすることが本当は大切なのです。ところが、残念ながら私たちは祝福される二人にではなくて、自分のことを人がどう見るのかということが気になるのです。それは小さなことではありません。周りの人は常識を求めるのです。けれども、これが結婚式ではなくて、天の御国であれば話はまるで変ってくるのです。

 信仰と罪の問題はこれと似ています。つけてしまったエビチリのしみは確かに気になるのです。けれども、本当の罪はエビチリのしみにとどまりません。私たちの存在はまるっと罪に支配されていて、すべてがしみだらけなのです。けれども、主は私たちをそれでも、主の宴会に招き入れてくださっているのです。私たちの罪はエビチリのしみ程度ですむような小さなものではないのです。もっと大きなしみ、まるごと真っ黒といえるほどの罪に支配されているのです。

 ルターはこれを「頑迷固陋な罪びと」という言葉で証言しました。「頑迷固陋」などという言葉を私はあまり普段使いませんので、意味が少しはっきりしないので、調べてみました。頑固で視野が狭く、柔軟に判断できないさまを表している言葉のようです。常識に支配されるかたくなさ、神の救いの大きさに目が留まらない視野の狭さ。そんな私たちの側の問題が、せっかく備えておられる神の、大きな救いを見えなくしてしまっているというのです。それが私たちなのだと言うのです。そんな者だけれども、主はそんな者を受け止めて救ってくださると言うのです。

 主イエスはここで、神を信じるよう語りかけておられます。山に向かって海に入れと信じて祈ればその通りになる。祈り求めるものはすでに得たと信じなさい。そんな言葉がここで語られています。主がここで招いていてくださるのは、神に祈ること、神に期待する心です。私たちが祈る相手は、頑固な方ではないのです。視野の狭いお方でもない。私たちが小さなことに支配されて、物事が正しく見極めることができないことを承知の上で、語りかけてくださるお方です。

 このお方に、私たちが祈り求めるものは、この主のお姿が見えるようにしてくださいということです。神の御業を見させてくださいということです。私たちの存在をまるごと救って下さる神の救いの大きさと、確かさを見えるようにしてくださいということです。神を求めるのです。そして、その祈りに神は答えてくださるというのです。

 あなたの欲しいものはなんでも与えられる。そう理解されてしまうかもしれない誤解をおそれないで、主はこう語りかけられるのです。主は言われるのです。「神を信じなさい」と。

 そして、最後の25節に、つけたしのようにこう記されています。

「だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」

 神を見出すものは、隣人をも見出す。私たちの存在をまるごと救ってくださる主を見出すなら、隣人をも見出すことになる。そんなメッセージがここにはあるのです。

 私たちの主イエスは山をも動かすお方です。どうしようもないような罪にまみれている者を赦したいと考えておられるお方です。それに対して、私たちは自分の服に着けたエビチリしか見えなくなるような者。周りが見えない頑迷固陋な者なのです。

 私たちの主は、目の前の地面しか見えない私たちを、その御腕に抱いて、天の高みまで引き上げてくださるお方です。おちついて、見よ。私が何をしようとしているのか見よと、私たちを高みへと導いてくださるのです。そこから、すべてを見渡すことができる。自分がどんなに小さなことにとらわれていたか。私たちの考えている常識が、神にとってどれほど小さいことなのかを、主は見せてくださるのです。

 この主と共にいれば、大丈夫。そういう平安を私たちは見出すことができるのです。私たちの主イエスは、そのために戦っておられるのです。私たちを引き上げるために戦うのです。私たちが見えるようになるために、戦われるのです。常識にとらわれて神のまなざしを見ることができなくなってしまう私たちと戦うのです。エビチリのしみが気になってしかたがない私たちと戦われるのです。そうやって私たちと相対して、私たちを叱ってくださる。怒ってくださる。主イエスの裁きは、私たちへの愛そのものなのです。この主の戦う姿を通して、私たちは主イエスがどれほど神の救いの豊かさを届けるために真剣な戦いをしておられるかを知ることができるのです。

お祈りをいたします。

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