2019 年 2 月 10 日

・説教 マルコの福音書12章1―12節「神の信頼」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 12:11

2019.02.10

鴨下 直樹

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 こういう話から始めるのは、自分の首を締めることになるのかもしれませんが、皆さんにとってよい説教の条件とは何でしょうか。どういう説教を聞くと、ああいい説教だと思うのでしょう。もちろんいろ、色んな言い方ができると思います。何週間か前に、祈祷会に来ておられる皆さんに聞いてみました。色いろんな意見が出てきました。そして、その殆どの意見は、私にとってとても厳しいものばかりが並ならびました。

 ある方は、「説教には愛が必要だ」と言われました。ある方は「聖書の説明はいらないから、もっと自分の心をさらけ出したお言葉を聞きたい」と言われました。ある方はもっとストレートに「先生はこちらに来られた頃の説教は良かったのに」と言われた方もあります。私は、こういう言葉をとても大事なことだと思っています。そういう言葉に耳を傾けながら、人の心に言葉が届くというのは、どういうことなのかといつも考えさせられるのです。

 いま、名古屋の西地区の様々な教会の牧師たちが学びのために隔月で行っている牧師会で「届く説教になるために」というテーマで3回にわたって話をすることになっています。先月、その第一回目の話をしたのですが、そこに来られている牧師たちに、まず自分がどういう説教が好きなのか、どんな説教に心惹かれるのかと一人ずづつ聞いてみました。そこでも色いろんな意見が出でてきました。その時に、私はこう思うと4つのポイントを挙げてまとめてみました。皆さんはどう思うか分かりませんが、私はこの4つのポイントが大事だと思っています。

 一つ目は、まず聖書が分かるということです。そして、私自身が、なによりも大事にしていることでもあります。聖書が分からないと始まらないのです。二つ目は、神の御姿が見えてくるということです。神様が分かる。神と出会うと時、神の聖さに触れるとき、私たちの心は動きます。三つ目は自分の気持ちが言い当てられるということです。この三つめはかなり大事な点で、自分はこう考えていたのかと気づかされたり、あるいは、これは自分のことだと分かるという経験をするのです。そういう時に、人は涙をながします。そして、四つ目は、福音の言葉が響いてくるということです。色いろんな言い方ができると思いますが、私はこの四つのことに全て集約されると思っています。でも、その四つが分かっているからといって、いい説教が作れるということにはなりません。色いろんな妨げになるものがあるわけで、それが取り除かれていく必要があるわけです。

 たとえば、今日の聖書の箇所はそういう意味でも、とても面白い箇所です。主イエスがお話になったのはたとえばなしです。聞いている人は、前から続いている祭司長や律法学者たちです。彼らは、この主イエスの話が何を語ろうとしているか、よく分かったと思います。けれども、その結果は主イエスの話はいい話だとはなりませんでした。捕まえようと思った。殺意が生まれたのです。それこそ、この主イエスの説教の聞き手は、祭司長や律法学者、長老というイスラエルの指導的な立場にある人たちです。主イエスのこのたとえばなしによる説教は、この人たちの心の中にあった思いを、主イエスはたしかに言い当てたのです。その心に届いていたのですが、主イエスの話はいい話だったとはならないのです。むしろ、この人たちの耳には痛い話し、腹わたが煮えくりかえるような心を刺すような話しだったのです。つまり、聞き手にはよい説教としては届かなかったということになります。けれども、そおこから分かることは説教というのは、私たちがどう思うか、どう感じるかということにはとどまらないということになるのです。聞き手が受け入れにくい話であっても、そこで、神が語りたいと思っていることが語られている。そのことが何よりも大切です。そして、さらに言いえば、その言葉が、きちんと聞き手の心に届くこと。ちゃんと届いた時に、人の心は動かされ、神の思いに気づき、そこで悔い改めが起こったり、慰めを感じたり、あるいは励まされて力強く神に応えて生きようという思いが生まれるのです。私たちはそういう時に、神と出会う経験をするのです。

 今日の聖書の箇所は、いや、本当は今日の箇所だけではなくて、いつもそうなのですが、そういう意味でとても面白いところです。今日の話は、この前のところを受けての話です。主イエスはエルサレムに入られて、宮清めをなさいました。神殿で商売をしている人たちの台を次々にひっくり返してしまわれて、宮が本来あるべき姿、つまり商売の場としてではなく、神を礼拝する場所となることをお求めになられたのです。ところが、その主イエスの姿を見て、祭司長たちイスラエルの指導的な立場の人たちは主イエスに何の権威がはあって、こういうことをしているのかと、主イエスに抗議をしてきたわけです。それで、主イエスは彼らに、あなたがたの持っているのは神の権威なのか、人の権威なのか、そのことを気付かせるような話を持ちかけられます。この主イエスの問いかけに、祭司長たちは答えきれませんでした。それで、主イエスは、「ならば私も答えない」と対話を切り上げてしまわれたわけです。

 ところがです。もう話すことはないと言われたのに、主イエスは話を続けられている。しかも、その話のテーマは、この切り上げたはずの「権威」というテーマです。

 そこで主がなさったのは、ぶどう園の主人と農夫のたとえばなしです。ぶどう園の主人は、ぶどう園を整えてから、旅に出かけます。その際に、農夫に土地を貸したようです。貸したわけですから、主人はすべての収穫を得られるというのではないでしょう。2節にも「その一部を受け取るため」と書かれていますから、ある程度の収穫はをその土地を借りた農夫は手に入れることができたはずです。借りている土地ですから、借り代として、何割かの収穫を渡すという約束ができていたのでしょう。ところが、この農夫たちは、受け取るべき収穫を得るために遣わされた主人のしもべに渡すことを拒んだのです。拒んだだけではありません。主人のしもべをはずかしめ、嫌がらせをしたのです。そして、拒まれるたびに、主人は別のしもべを送ったのですが、しもべたちは次々に嫌がらせにあい、農夫たちは主人に収穫を渡そうとしません。そして、分かりきっているように私たちは感じるのですが、最後に自分の愛する息子を送ったと書かれています。しかし、結果は散々で、この主人の息子は農夫に殺されてしまうのです。

 私たちはこのたとえ話しを聞いて、どう思うでしょうか。まず、考えるのはなぜ、主人はこんなに分かりきったこと、愚かなことをしてしまうのだろうということが気になるのです。なぜ、そこまで、主人はしたのでしょう。

 祈祷会で、このことを来られた皆さんに聞いてみました。そうすると、マレーネ先生が面白い話をしてくれました。マレーネ先生の育った街は、ドイツのライン川の麓畔の、バッハラッハという街です。すぐそばには、ローレライで有名な傾斜地もあります。この地域はワインで有名な土地で、去年はワインにとっていい年だったようで、ドイツでは100年に一度の当たり年と言われているのだそうです。後々まで、2018年のライン川のワインはいいと言われる年になる。そうだとすると、収穫のぶどうはとても大事です。美味しい時期をすぎてしまうわけにはいかないわけで、ワインにできる時期のうちに収穫して、ワインにしないといいけないわけで、いつまでも待っていられないというのです。とても良く分かる説明でした。確かに、そうすると、なぜ主人はがそこまで執拗必要に収穫を求めたのかという気持ちはわかるわけですが、分からないことがまだあります。しもべたちが次々に辱められたり、殺されたりしているのに、それでもしもべを送り続け、ついには自分の最愛の息子までなぜ送ったのかということについてはまだ分からないわけです。この土地は自分の土地ですから、強制的な手段にでることも出来るわけです。実際、9節にあるように、「農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与える」ことも出来るわけです。けれども、主人はそうしないのです。お人好しにもほどがあるのです。なぜ、そこまでするのでしょう。

 主人のことを考える前に、農夫たちの問題はどこにあるのでしょうか。もちろん、借りている土地ですから、支払う約束に同意して土地を借りたはずです。けれども、近くに主人がいない、主人は旅に出ているということが、農夫の気持ちを大きくしていることは間違いありません。子どもの話をすると語弊があるといけないので、自分の話として話したいんのですが、みなさんも子どもの頃に記憶があると思います。親が留守の間に、宿題をしておくように言われて、親が出かける。すぐにやってしまえば済むわけですが、今のうちに遊ぼうと考えてしまう。もうそれは、本能みたいなものなのかもしれません。私だけではないと思うのですが、いかがでしょう。ところが遊びに夢中になってしまって、やがて、親が帰って来て、玄関の「ガチャ」という鍵を開ける音が聞こえて来てから、慌てて椅子に座るなんてことが起こるわけです。まだ大丈夫。親が帰ってくるまでは自分の好きなように振る舞えるのです。

 神殿は、神様を礼拝する場所です。けれども、神さまが見えないもんのだから、いつのまにか、自分たちがすべての権限があると思い込むのです。そして、一度権限を手に入れると、もう手放すことができなくなってしまうのです。

 問題がどこにあるかは、明白です。家に帰ってきて、宿題をしていない子どもを怒るのは当たり前のことです。けれども、この主人は見張っていて、すべてのものを取り上げるというようなことはしないで、励ましの手紙を送りつづけるようなものです。ちゃんと宿題をやっておきなさいよ。何度手紙を送っても、何度、ほかの人づてに伝えてもいうことを聞かない出来の悪い子どもに、それでも、何度も何度も使いを送り続けるのです。その時の主人の気持ちは、お人好しと呼ばれることは百も承知だと思います。

 では、この主人はその時何を考えていたのか。主人はこう考えているのです。力づくで言うことを聞かせても仕方がないのです。自分で気づかないと意味がない。そのように考えているのです。それは、ひとえに、きっと分かってくれるはずだと信じているからに他なりません。それこそが、主人の愛です。この主人は、相手がどんなにわがままで自分勝手であっても、きっと分かってくれる。そう信じているお方なのです。

 この主人はまさに神のお姿そのものです。神は預言者エリヤを送り、エリシャを立て、エレミヤやイザヤを遣わすのです。そして、バプテスマのヨハネを送りますが、これも殺されてしまいます。そして、神の御子である主イエス・キリストをも送ってくださるのです。何度も何度も、何度拒絶されても、神はその方法を変えないで、きっと通じる、きっと届くと信じて、馬鹿みたいに何度も何度も、もう結果が見えているではないかと思っても、その方法を変えないのです。それこそが、まさに神の愛なのです。

 ある人は言うのです。ワンパターンでもう飽きたと。いつも、同じメッセージだと。けれども、神は同じメッセージを何度も何度も送り届けるのです。届くまでそうするのです。わかるまで、この神の思いが受け止められるまで、ひたすら繰り返すのです。

 私たちは考える必要があります。その時一番、悲しんでいるのは誰かということを。確かに農夫からしてみれば、自分の持っているものを取られてしまう恐れがあるのかもしれません。けれども、よく考えてみると、悲しみを全部負っているのは誰かということを考えなければならないのです。気づかなくてはならないのです。農夫たちにも言い分はあるのかもしれません。もし、自分がそうしなかったら、ほかの人がこの収穫物を持っていくだけだと。自分が今はこの土地を自由にできる権限があるから、そもそも、自分で働いて得た収穫なのだから、これは自分のものだと言うのです。主人は何も汗していないではないかと考えるのかもしれません。私たちにも言い分があると考えるのです。けれども、それは考え違いも甚だしいのです。誰よりも心を痛めておられるのは、私たちの主、神です。
1節にこう書かれています。

「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建てた」

と。収穫を得るための主人はその全てをすでに整えているのです。それを一年か二年、目の前のぶどうの枝を剪定し、肥料をやったのかもしれませんが、それは楽な働きではないと思います。けれども、それはそれだけのことでしかないのです。目の前のことしか見えていない。自分のしたことしか見えていない時に、私たちは神の御業を見誤るのです。

 けれども、私たちの神は、傲慢になって、自分のしたことしか見えていないようなしもべ、小さな者に、強制手段を使わないで、何度も何度も丁寧に、丁寧に言葉を届けつづけるのです。それでも聞かなかったどうなるのか。9節にこうあります。

「ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるでしょう」

 この書き方も興味深いのです。確かに、そうすることが主人にはできるのです。「農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。」きっとそうするに違いないと書かれているのですが、「与えてしまいました」という書き方ではないのです。それはまだこれから先のことという、猶予がまだあるのです。この厳しい言葉の中でさえ、神が猶予を与えておられるのです。それは、ひとえに、私たちが神の思いに気づくと信じてくださっているからです。

ここには先にの引用した詩篇118篇が引用されています。

家を建てる者たちが捨てた石
それが要の石となった。
これは主がなさったこと。
私たちの目には不思議なことだ。

 神が遣わしたしもべたちは、これまで何人も何人も捨てられてきたのです。けれども、そんな神の言葉を語り続けた預言者たちは受け入れられず、迫害され、殺されてきました。けれども、その無駄と思えるような神の愛の働きと、忍耐とを土台として、新しい神の家、神の国が建てあげられようとしているのです。これこそが、神のみ業なのです。

 私たちにはなかなかこのことが見えてこないのかもしれません。ただ、無駄なこと、お人よしと思えるのかもしれません。けれども、それこそが愛の業なのです。

 神は、私たちをそのように愛してくださるのです。何度も何度も語りかけ、心を注ぎかけて、忍耐しながら、私たちを受け入れていてくださるのです。どうか、この神の愛を受け取って欲しいのです。そして、この神の愛に気づくならば、この神の愛を受け取るならば、私たちもまた、この愛に生きるようになるのです。つまり、無駄と思えるような愛の業に、私たちも生きるのです。その時、この神の愛が、私たちの周りの人々に届けられていくことになるのです。

お祈りをいたします。

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