2019 年 3 月 3 日

・説教 マルコの福音書12章18-27節「生きておられる神と共に」

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2019.03.03

鴨下 直樹

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 今日のテーマは「復活」です。先日、妻とさきほど話した聖書の話しのことでこんな話が出ました。「復活」という言葉は子どもに分かりにくいのではないかと思って、「よみがえり」という言葉に言い換えようとしていたのです。ところが、最近の子どもは「よみがえり」という言葉よりも「復活」という言葉の方が、なじみが深いということに気づいたのです。子どもの遊びでもゲームでも、「復活」という言葉がなじみになるほどによく使われるというのは、考えてみればとても興味深い気がします。けれども、その場合よく考えてみると、「元の状態にもどる」という意味がそこには込められていることに気がつきます。そして、私たちはひょっとすると、聖書が語っている「復活」も、そのように考えているのかもしれないということに、改めて気づかされるわけです。

 今日の聖書の箇所は、また新しい主イエスの敵が登場してきます。よくもまあ、毎回手を替え品を替えしながら、色々な人々が出てくるものだと感心したくなります。今日新たに出てくるのは「サドカイ人」です。サドカイ人というのは使徒の働きに何回か出てきますが、復活を信じない人たちです。それ以外の詳しいことはあまり書かれていないのですが、このサドカイ人たちは、モーセの記した五書といわれる律法の書をとても重んじていました。そして、そのモーセ五書には復活のことは書かれていないわけです。それで、19節にあるように申命記に書かれている律法を読み上げました。これは「レビラート婚」と言われる戒めで、夫が亡くなった場合、その妻は兄弟に嫁ぐことによって財産を守るという考え方があったわけです。ルツ記に出てくるルツはこの戒めに従ってボアズと結婚をしています。

 19節にこう書かれています。

もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を残さなければならない。

 現代の私たちには少し理解しにくい結婚観ですが、日本でも少し前まではこういう考え方はありました。サドカイ人はこの聖書の箇所を復活がないことの証拠の箇所としてこの申命記に書かれている戒めを引用しているわけです。つまり、これはどういうことかというと、モーセの律法は、永遠のいのちということに関心があるというよりも、この世での生活に関心があることを示しているではないかということになるわけです。

 そして、続いて20節以下のところでは七人の兄弟がいて、その兄弟が次々に死んでしまった場合、その長男の妻は復活の際誰の妻となるのかという質問を投げかけます。

 サドカイ人は復活を信じていない人たちです。もし復活があるならこの妻は誰の妻となるのか。ちょっと考えてみてもそんなことはあり得ないのは明らかではないかと言おうとしているわけです。

 このサドカイ人の問いかけは一見相手をバカにしている不真面目な質問のように映ります。けれども私たちもサドカイ人と同じような考え方を持っている気がします。

 国語辞典を調べますと復活という言葉の意味は一番目の意味としては「死んだ者がいきかえること、よみがえり」となっていて、二番目に「元の状態に戻すこと」となっています。そのためでしょうか。私たちは復活ということを考える時に「元の状態にもどること」ということがどうしても頭から離れないでいます。

 そのためでしょうか、復活の後、つまり死んだあとでクリスチャンはよみがえるのだとすると、それは元の状態になることだと、つい考えてしまうことがあるのだと思います。死んでしまったペットと天国で一緒に暮らす。家族もまた天で同じように家族として暮らす。あるいは仲良し家族の場合も、天ではみんな近くに住んで一緒に暮らせるというような夢を持つこともあるわけです。

 けれども、よく考えてみるとそのように、絵にかいたような幸せそうな家族像がそこにはあるのかもしれないのですが、いろんな家族の形がありますから単純にきっとこうなるというような思い込みはよく考える必要があるのかもしれません。

 それはどこか自分に都合のよいものがそこには投影されている気がします。もちろん、完成された神の国ということは、すべてのものが完全なのだということは想像できるわけですが、私たちはどうしてもこの地上の延長にあるものを思い描いてしまっているのではないかということを考えさせられるわけです。

 以前にもお話をしたことがありますが、たとえば葬儀で天国での再会の希望が語られることがあります。そこでいつも気を付けなくてはならないのは、亡くなった家族と再会するということが福音であるかのように語られてしまう危険があります。福音は私たちが新しい人として生きるようにされることであり、神の支配の中に完全に入れられることです。それが復活の望みです。もちろん天で再会ということを否定する必要はありませんが、それが一番大事なものではないのです。

 主イエスはここでこのように語られています。24節と25節です。

「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」

 主イエスはここで二つのことを問いかけておられます。それは、聖書を知っているのかということ。そして、神の力を知っているかということの二つです。

 聖書を知らないというのは、自分の価値基準で考えてしまっているということでしょう。神の力を知らないも、同じ意味です。聖書には神の愛と知恵と力が満ちています。それなのに、この世界の常識や、この世界の力の範囲、常識、そういうものに縛られて物事を考えてしまうのです。もちろん、これは仕方がないことでもあります。

 しかもここで言われている聖書というのは複数形で書かれています。複数形ということは、モーセの書だけでなく、聖書全体、つまりここでは旧約聖書という意味ですが、旧約聖書全体で何が語られているのかを知らなければならないと言われているわけです。これはもちろんサドカイ人に対して言われた言葉です。

 そして、その後半部分では「死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです」と言われたのです。これはどういう意味でしょうか。祈祷会で尋ねてみますと、天の御使いというのは、キリスト教美術では男でも女でもない中性的な描き方をされることがあるように、中性になって天使たちのような姿でいるので、そこには結婚はないということでしょうか、と言われた方があります。なるほど、そういう考え方もできるかもしれません。ある方は、以前どこかの美術館に出かけた時に、キリストの周りにおびただしい赤ちゃんの像が刻まれた作品を見たことがあるのだそうです。よみがえったときに、人はみな赤ちゃんのようになるので、そこでは婚姻関係はないのではないかと言われました。私はその作品を見たことはないのですが、そういう理解も可能なのかもしれないとも思わされます。もちろん、中性的になるとか、赤ちゃんになるというのは解釈の可能性の話ですが、はっきりとしているのは復活するというのは、天使のような存在になるということです。

 その「天使」とか「天の御使い」がどういう存在なのかも、実のところはっきりとはわかりません。私たちはこの天使の姿さえ、私たちのイメージで翼をつけてみたり、頭に輪っかを乗せてみたりしながら、イメージしやすいように思い描いているわけです。はっきりしているのは、まったく異なる新しい存在になるということです。

 主イエスはここでよみがえりについてこのようにお語りになられました。26節です。

「死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。」

 聖書全体でと言いながら、サドカイ人たちが問題にしているモーセ五書を引用しながら、しかもモーセが神様から召命を受ける場面で、神がなんと言われたかを思い出してみなさいと言われました。モーセが神から召命を受けた時、荒野で燃えている柴を見つけます。そして、その柴から神の語り掛けを聞くのです。この時に、モーセがエジプトの王のところに行って、当時エジプトの奴隷となっていた同胞のイスラエル人を解放するよう神から召命を受けたのです。その時に、神はご自身のことをこのように名乗られたのです。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。これは、神がイスラエルの民をお選びになられた信仰の民の歴史は、創世記の第12章、アブラハムから始まります。そして、聖書の中で、神は何度もご自身をお語りになるときに、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」という呼び名を使われました。主イエスはここで、この神の呼び名は、神が生きている者の神であることのしるしだと言われたのです。つまり、アブラハムも、イサクも、ヤコブも確かに地上では死を迎えたけれども、今も神の御国で生きていて、「わたしはその信仰に生きた者たちの神である」と言われたのです。それは、つまり復活はあるし、聖書は旧約聖書からずっと今に至るまで復活の信仰を語り続けているのだと主は言われたのです。

 復活の力、それは私たちの想像をはるかに超えた神の力が示されることです。それは、この世界の延長にあるものではありません。どうか、がっかりしないでいただきたいのです。別れた家族との天国の再会という希望よりもさらに素晴らしい知らせなのですから、それはさらに私たちを期待させるものです。

 水曜日の祈祷会でマレーネ先生がドイツのお墓の話をしてくださいました。ドイツのクリスチャンたちのお墓の多くは夫婦であっても別々のお墓であることがほとんどなのだそうです。私はそういうことをあまり考えたことがありませんでしたので、ドイツに住んでいた時に、お墓にはほとんど行きませんでした。自立ということを小さなときから意識している子育てというのも、この信仰と深くかかわりあっているのかもしれません。

 私たちは皆、神の御前に一人で立つのです。親の信仰や、家族の誰かが信仰を持っているからそのまま自動的に信仰を持つということはないのです。みな、それぞれに神と出会うのです。

 祈祷会で、古川長老が若いころに、浅野順一牧師の教会に集っていたことがあるのだそうです。浅野順一牧師というのは旧約聖書の専門の牧師です。その先生がまだ学生だった古川さんに、この「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というのは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、そして古川君の神という意味だ」と言われてとても印象深く覚えているのだそうです。自分もまた、この神と出会い、この神に生きる者とされている、それこそが、この今も生きて働いておられる神、復活の主、力ある主と、私との出会いという意味なのです。

 その祈祷会の時に、古川さんが自分の小さなときのことを話してくださいました。古川さんは満州からの引き揚げで、両親は、はじめ故郷に戻ったのだそうです。ところが、この時、家族も食べていくのがやっとの中で、親戚に受け入れてもらえなかったのです。それで、そのころ、引揚者をまとめて受け入れているところが北海道だったのだそうで、家族そろって北海道に移り住んだのだそうです。そこで、その引き揚げた人たちに福音を語ろうとしていた宣教師家族に出会って、そこで古川さんのお母さんは初めて福音を聞いたのだそうです。郷里の人も、家族も誰も自分たちを受け入れてもらえない中で、その宣教師はこう語ったのだそうです。「何も心配しなくてもよい。神様があなたがたを受け入れてくださるのだから」と。とてもシンプルなメッセージですが、その言葉が古川さんのお母さんの心に届いた。そして、自分と同じような人たちがきっといると思って、何人もの引揚者の人たちと生活していたそのプレハブの小さな家で家庭集会を始めたのだそうです。この福音をもっと多くの人に知ってほしいと思ったのです。

 「私たちの国籍は天にあります」とピリピ人への手紙の3章にあります。このみ言葉が自然に思い出されます。私たちの神は、生きている者の神です。そして、この神に生かされていることを知った者は、みなこの神の国の国民とされるのです。この世界で受け入れてくれる人が少ないとか、誰からも理解されないとか、この世界に生きにくさを覚える人が少なくない時代に私たちは生きています。その私たちに、神は希望を語ってくださるのです。

 神は、言われるのです。「わたしはあなたの神。あなたに希望を与え、喜びを与え、平安を与える神、このわたしは今、あなたと共に生き、あなたの毎日の生活の歩みと共にある」と。

 復活の信仰は、私たちに憧れを与えるものです。この神に基づく憧れは、失望に終わることはありません。私たちの神は、確かな望みを私たちに与えてくださるのです。

お祈りをいたします。

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