2019 年 4 月 7 日

・説教 マルコの福音書12章38-44節「マルコがどうしても伝えたかったこと」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 21:13

2019.04.07

鴨下 直樹

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 今日、私たちに与えられている聖書には二つのことが書かれています。前半は律法学者たちに気をつけなさいという勧めです。何に気を付けるのかというと、律法学者は見栄をはるというのです。どんな見栄をはるのかというと、立派な衣を着ること、広場で挨拶されること、宴会で上席に座ること、長い祈りをすること。そんなことが書かれています。そして、後半には神殿の献金箱にささげたやもめのことが良い例として語られています。

 一週間前の土曜日に隣の可児教会で、ドイツの宣教師であるワイゲル先生が結婚式を挙げられました。私はそこで教団の代表役員としての最後の仕事でしたが、祝辞を述べることになっていました。250名を超える出席がありまして、半分ほどはクリスチャンではなかったようで、そんなこともあって、できるだけわかりやすく、印象に残る話をしたつもりです。式の後で、色々な方から挨拶を受けました。何人も知らない方からも声をかけられました。そんなことを思い出していると、ここで主イエスが批判しておられる見栄をはる律法学者の姿と、私の姿が完全に一致するのではないかという気がしてしまいます。

 しかも40節では「こういう人たちは、より厳しい罰を受けます」と書かれています。もちろん私としては見栄を張ったつもりはないのですが、いつも綱渡りをしているような、いつそうなってもおかしくないような危うさがあるな、ということを考えさせられます。

 牧師に限ったことではないと思うのですが、多くの場合称賛されるということに免疫のない人がほとんどですから、特に気を付けなくてはいけないのだと思います。ですからここに記されている言葉は、あれこれ言い訳を考えずに、素直に耳を傾けるべきことです。私たちにはそういう弱さがあるのです。あまり褒められ慣れていないと、少し褒められただけで天狗になってしまって、偉ぶってしまうようなところが人にはあるのだと思います。

 特に、ここで気になるのは「やもめたちの家を食い尽くし」という言葉です。困っているであろう人の家を訪問することは悪いことではないと思います。しかし、律法学者たちの中には、そういう宗教家として親切さを売りにしながら、人の弱みに付け込むような者もいたのです。

 「オレオレ詐欺」というのがあります。子どもに成りすまして、高齢の方の家に息子を名乗って電話をして、お金を振り込ませるという詐欺です。先日、ニュースでやっていたのは、警察のふりをして、「犯人逮捕に協力してください」と電話をして、「だまされたふりをして、犯人にお金を渡してください」と言うのだそうです。「その後で、警察が犯人を捕まえますから」と話を持ち掛けて、警察は現れないで、そのままお金を持ち逃げされてしまうというケースをやっていました。警察の名前を語る詐欺まであるのだそうです。警察に協力するという人の善意を利用して、お金を盗もうという人がいるというのです。

 あまり説教と関係のないような細かな話をすると、みなさんの方がいろいろなケースを知っているでしょうから、こういう話はしない方がいいのかもしれません。けれども、善意のふりをして悪を行うということも、私たちの身の回りにはたくさんあるのも事実です。

 そんな話を主イエスがなさったあとで、場面は突然神殿の献金箱のところに移ります。当時、エルサレムの神殿の婦人の広場と言われるところに、ラッパの形をした献金箱が13個並んでいたのだそうです。この献金箱の向かい側に主イエスが弟子たちと一緒に座り込んで、人が献金をするのを眺めていたというのです。あまり品のいい場面とは言えません。むしろ、ちょっとイメージしにくい場面です。

 なぜそんなことをなさったのか。色々考えると気になりますが、この福音書を書いたマルコは、もっと別のことが気になったようです。それがここで書かれています。

 41節にこう書かれています。

それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱に投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。

そう書かれています。

 何気ない言葉ですが、ここの最後のとこにこう書かれています。

多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。

 みなさんは献金を「投げ入れる」ということをしたことがあるでしょうか。今日もこのあと献金の時がありますが、私もそうですが、できるだけスッと献金を入れます。まるで、どれだけ短い時間でその作業が終わるかを競っているかのように、献金を入れる時というのはスマートに入れるものです。もちろん、献金箱の形が違います。お金をたくさん入れやすいように、ラッパの形をしているのです。最近あまり見かけなくなりましたが、漏斗というのがあります。そんな形をしていたんだと思います。お金がこぼれないように、入れやすい形をしていたわけです。しかも、この時代にはお札はありませんから、どうしてもジャラジャラと音がしてしまいます。そんな中で、「たくさん投げ入れる」という献金の方法が自然になったのでしょう。たくさん投げ入れると景気の良い音が鳴ります。それで、いつのまにか、そんなことを気持ちのどこかで競いあうようになっていったというのは、想像できることです。

そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。

と書かれています。レプタ銅貨二枚がどのくらいの価値があるのか分からないので、続いてそれは「1コドラントに当たる」と説明が書かれていますが、どちらにしても、今の私たちには金額が分かりません。新改訳聖書には注がついていまして、「1コドラントは1デナリの64分の1」と書かれています。1デナリは、大人が一日働いて得られる金額です。もし、時給800円で8時間労働を基準に考えると、レプタ一枚はちょうど50円ということになります。それが二枚ですから100円程度ということになります。今であれば、子どもでも、そのくらいは持っていると言えるほどのお金です。それをご覧になりながらこう言われたのです。
43節です。

「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。」

 金額としては誰よりも少ない金額であったかもしれません。けれども、主はこのやもめの心をご覧になられました。それは、この人の持っているものすべてだったというのです。

 多くのお金持ちがたくさんのお金をじゃらじゃら言わせながら、見栄をはっている中で、このやもめは、持ち物全部を神様に捧げたというのです。

 献金というのは、奉げた分そのまま財布からなくなります。きっとほとんどの方がそうだと思いますが、私たちは礼拝のたびに、いくら献金しようかなと考える人は少ないと思います。もういくらと決めていて、その額を捧げることにしているという方がほとんどだと思います。ですから、あまり献金の時にそういう心の葛藤をするということは少ないと思います。だから、そこで見栄をはるというようなこととは、私たちは無縁でいられます。

 けれども、ここで気づかされることがあります。それは、主イエスはここで献金をする人の姿を目にとめておられるということです。

 先日、この聖書箇所を調べていたら、この箇所は主イエスの公的活動の締めくくりとして記しているという言葉を見つけて、驚きました。公的活動というのは、人々の前での活動のことです。この後からは群衆の前での姿ではなく、弟子たちとのやり取りです。そして、主イエスが捕らえられ、裁かれていく姿が記されていきます。人々の前で主イエスがなさった最後の出来事として、この箇所が記されているというのです。

 今日の説教題を「マルコがどうしても伝えたかったこと」としました。マルコは主イエスの弟子であるペテロと共に働いた人です。はじめはパウロと共に働いたのですが、パウロと一緒に働くことができないで、言ってみればペテロに拾われたのです。そこでマルコはペテロを通して、主イエスのことを聞いたのです。ペテロはきっと、この献金箱の後ろに回って人々が捧げものをする姿を主イエスと一緒に見ていた時に言われた、この主の言葉が忘れられなかったのだと思います。とても生き生きと語ったのだと思うのです。マルコはそれを聞きながら、主イエスの公の働きの結びとして、この出来事を記したと考えることができるわけです。

 主イエスは律法学者たちが見栄をはりながら、自分が立派な信仰者であるかのようにふるまっている姿を快く思っておられなかった。その一方で、礼拝の時にレプタ銅貨二枚を入れた人をご覧になりながら、「あれをご覧、この人は誰よりも捧げた人だよ」と語りかけられた。その主イエスのお姿を心に刻んでいたのです。こんな小さなこともちゃんと見ていてくださる。そして、その心をちゃんと知っていてくださるのだということの中に、主イエスの慈しみのまなざしを見たのです。

 先日、本屋さんで『視点を変えて見てみれば 19歳からのキリスト教』という塩谷直也の本を見つけたので、買って帰りました。この塩谷直也という方は、今は青山学院の教授をしている方です。教会でお配りしている読み物のコラムを以前書いておられて、とても分かりやすい話を書かれる方なので、印象に残っていました。

 この方は19歳の時、大学の医学部を受けようとして落ちてしまって、予備校に通っていたのだそうです。しかも、その受けようと思っていた予備校にも落ちてしまって、また別の予備校に通いながら、何とか行くところができたと胸をなでおろしていた自分のことを、この本の中で書いています。ところがしばらくするとその予備校にもだんだん行かなくなってしまいます。それで、何をしていたのかというと、京都の二条城の近くに住んでいたようですが、この近くの公園にいた時に、小学二年生の女の子に、「何しているの?」と声をかけられて、その子どもたちと遊ぶようになったのだそうです。子どもは偏差値で自分を見ない。そんなことが嬉しかったと書いています。

 あるとき、今度はいつ遊ぶとその女の子と約束すると、今度の日曜日と返事が返って来ます。でも、その日曜は予備校の模試がある日でした。そのためのお金を払っていて、これからの進路に進むためには大事な日です。この日曜日、雨が降るのですが、19歳の塩谷くんは公園に行って、子どもが来るのを待っていたというのです。誰もこないのに、その日一日を過ごしてしまうのです。自分はここで何をやっているんだろうと考えるわけですが、たぶん、自分を受け入れてくれる人がいるということが嬉しかったのだと思うと書いています。

 彼はそんな話を書きながら、この世界には二つのパーティがあると言います。一つは、「合格祝いのパーティ」だと言います。自分ががんばったことを評価してくれる場所です。そして、もう一つは「誕生パーティ」です。誕生パーティというのは、自分の存在そのままを受け入れてくれる場所です。頑張って結果を出さなければいけないという世界の中で、ただ、その存在を受け入れる場所があるというだけで、そこに居場所ができるというのです。

 この献金の話は、一見持っているものを全部捧げたことを見て、主イエスが喜んでくださっている場面のように見えます。そうやって考えると、頑張って、神様にその頑張りが認められたら褒めてもらえるという話であるかのように、受け止められてしまいがちです。でも、ここで主イエスが見ておられるのは、その人の頑張っている姿ではなくて、お金をすべて捧げてもいい気持ちでいながら、神様に期待しているこのやもめの心を見ておられるわけです。

 多くの人はどれだけ頑張れるかと競いあうかのように献金をしている中で、この人はそういうものから自由にされて、すべてを主に期待する心を持っていることを見られているのです。

 あまり英語を使うのは好きではないのですが、これをドゥーイングとビーイングと言います。ドゥーイングといは、「何をするのか」ということです。私たちは「自分は何ができるか」ということに心を向けてしまいがちなのですが、神様はビーイング、存在そのものを受けとめてくださるお方なのです。

 私たちの主イエスは、私たちの努力ではなくて、私たちそのものを受け止めてくださるのです。このやもめはそのことを知って、自分を全部委ねたのです。それが、レプタ銅貨二枚に込められているのです。そして、主イエスはそのことをちゃんと見ていてくださるお方なのです。

 先週、私たちは渡辺先生をお招きして修養会をいたしました。午後は礼拝の大切さということが語られました。自分の存在を神さまの前にもっていくことが大事だということを語ってくださいました。なんとなく、頑張って聖書を読まないといけないという受け止め方をしてしまった方があれば、それは残念なことです。

 神様との交わりに生きる。渡辺先生はそれを「スピリチュアルに生きる」という言葉で表現してくださいました。私たちの存在を受け入れてくださる聖霊と一緒に生きるということです。

 マルコがどうしても伝えたかったことは、まさにこのことです。主イエスは私たちを見ていてくださって、私たちを受け入れてくださるお方。人に認められるために一所懸命に何かをしていくということから、自由にされて、この主との交わりの豊かさをぜひ、知っていただきたいのです。私たちの主は、わたしたちの存在そのものを受け入れてくださるお方なのです。

お祈りをいたします。

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