2019 年 4 月 28 日

・説教 マルコの福音書13章28-37節「消えることのないもの」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:33

2019.04.28

鴨下 直樹

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 今日、私たちに与えられている聖書の言葉は、いろいろなことが語られている印象を受けます。少し読むと、難しい印象を受けるかもしれません。この箇所のテーマは「待つ」ということです。ですが、いくつかの箇所に分けることができると思います。

 はじめに書かれているのは、いちじくの木のことが語られています。「枝が柔らかくなって葉が出てくると、夏が近いことが分かります。」そんなことが書かれています。主イエスはエルサレムに入られる前のところ、11章の13節で、葉っぱが生い茂っていながら実のなっていないいちじくの木を枯らせてしまわれました。その後で、またいちじくの木の話が出てくるわけで、どうしても、前の話を思い出してしまいます。しかも、ここでは終わりの時の話をしているわけです。どうして終わりの日のことが、冬に枯れてしまういちじくの木としてではなくて、夏のいちじくにたとえられているのでしょう。

 ある説教者はここのところでこんなことを言っていました。旧約聖書で、終わりの日のことを収穫の日の喜びの叫びや、ぶどうを酒ぶねで絞る歌声によって象徴しているところを思い起こす。終わりの日は、悲しむべき裁きの日ではなく、喜びの日なのだと言っているのです。

 確かに、ここで語られているのは「この天地は消え去ります」という裁きの言葉です。けれども、それは破滅の日としてではなく、そのあとに「しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」とあるように、ここで語られているのは、救いの成就の時のことが語られているわけです。それは、絶望の時ではなく、救いの時なのです。そこに収穫が待っている、喜びが待っている。そのことをここで主イエスは語ろうとしておられるわけです。

 昨日から、ゴールデンウィークが始まりました。今年は新しい天皇の即位の日も重なって、最大で10連休という超大型の連休です。子どもたちをみていても、もう前から楽しみで楽しみで仕方がないという気持ちが外側に滲み出ています。大変なのは親のほうで、仕事が休みではない方などは、その間子どもを退屈させないためにどうしようかという悩みまで聞こえてくるようになっています。

 本来、待つということは、楽しいことです。希望をもって、その日を心待ちにします。けれども、それは同時にそのための備えの期間でもあるわけです。このゴールデンウィークの最後の日5月6日の月曜日に、大垣教会の伊藤牧師の結婚式があります。私はその式の司式をすることになっています。昨日、この大垣教会の方で、結婚の備えのために頼まれて、結婚カウンセリングをしているんですが、その方が、伊藤先生が日に日に疲れて元気がなくなって心配しているという話をしてくれました。

 伊藤先生自身、牧師として働いています。今日の午後も役員研修会があって、伊藤先生はそこでも発題をすることになっています。そういう普段の準備や仕事もある中で、時間を見つけながら自分の結婚式の備えをする。結婚式をすることは楽しみなのだと思うのですけれども、そのための備えもしなければなりません。それこそ、眠っている暇もないということなのかなと心配さえ覚えます。

 主イエスはここでこう言われるのです。33節です。

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」

 救いが完成する、それが終わりの時です。それは喜びの日であることは確かです。けれども、その日がいつ来るか分からないから、気をつけて、目を覚ましていなさいと語られているのです。

 この箇所と似ている話として、ルカの福音書に記されている結婚の準備をしている10人の花嫁の話があります。結婚を控える花嫁にとって結婚は楽しみなのです。それは、まさに幸せの象徴ともいえる出来事です。けれども、ここではそのために、目を覚まして、油をたやさないで備えているようにということが語られているわけです。それは、まさに、この聖書の箇所が語ろうとしていることです。

 「目を覚ましていなさい」というのは、どういうことなのでしょうか。そのまま待っていてはダメなのでしょうか。私たちは救いの時、終わりの時が来るまでの間、ぼーっと待っていればいいということなのでしょうか。

 結婚式前の人は、さまざまな準備が必要です。何もしないで、ぼーっとその日が来るのを待っていたら大変なことになります。何の備えも、準備もないまま、その日を迎えることになってしまうからです。収穫でもそうでしょう。種を植えればそのままで実が実るということではないわけで、その間、きちんとやるべき務めがあります。肥料をやり、剪定をして、水をやり、虫を駆除して、ようやく収穫を得ることができるわけです。でも、はたで見ていると、そんな苦労はあまり感じません。

 教会の前も、おそらくこのゴールデンウィークの間に、田植えをするのでしょう。先週の間に、農協の方が来て、また田んぼの持ち主の方が来て、忙しく準備をしていました。収穫というのは、待っていれば得られるものではないわけです。

 待つというのは、その間にやるべきことをコツコツと備えておく必要があるのです。「目を覚ましていなさい」と、ここでは何度も何度も語られています。

 この後、私たちは知っています。ゲツセマネで、弟子たちは目を覚まして祈っているようにと求められましたが、弟子たちは眠ってしまうのです。目を覚まして、備えていなさいという、ここで主イエスが語られた最初のテストに、弟子たちは見事に不合格の採点がつけられます。

 今、神学校で、ギリシャ語入門という講義をすることになりました。本当は私が教えるはずではないのですが、何人かの塾生がギリシャ語を少しでいいから学びたいというので、仕方がなく、受け持って教えています。言葉を学ぶというのは、読む、書く、聞く、話すという4つのことを同時にやっていくわけですが、聖書のギリシャ語は少し違います。コイネーギリシャ語といいますが、大昔のギリシャ語です。日本の古事記とか万葉集に出てくるような古い言葉です。ですから、当然、今そのことばを使って話す人はいないわけです。そうすると会話をする必要はないわけですから、聞くということ、話すということはほとんど必要ありません。

 書くというのも、実はギリシャ語で手紙をかくわけでもないわけで、一応書き方も学びますけれども、それもそんなに大事なことではありません。そうすると、ほとんど、読むということに集中すればいいわけです。そして、読めるようになるために、動詞の変化とか名詞の変化とかいうのが表になっていますので、それを毎回、講義のはじめにテストに出して、覚えてきてもらうわけです。

 名古屋の東海聖書神学塾というところは、塾生のほとんどの方が、仕事をしている方です。仕事の合間を縫って学びに来ている方です。そうすると、テストの勉強をしてこない人がいます。あるいは、宿題を提出しない人というのが出てくるわけです。大変な中でやっているのが分かるので、うるさいことは言わないわけです。もちろん、テストの点数が悪ければ単位が取れません。宿題を提出しない人も、単位はもらえません。でも、何度も何度も、チャンスを与えて、待つわけです。

 主イエスの弟子たちは何度も、何度も失敗を繰り返します。マルコの福音書を読んでいると分かってきますが、本当に、最後の最後まで弟子たちは主イエスの求めるようにふるまうことができません。「目を覚ましていなさい」と言われても、できない弟子たちです。そして、主イエスは最後、十字架にかかるときまで、結局のところ、最後の最後まで、ダメな弟子たちの姿しか見ることができませんでした。でも、主イエスはその弟子を見て、ブチ切れるなんてことはなさらないわけです。

 復活の後で、ほかの福音書を見ると、「あなたはわたしを愛するか?」と問いかけてくださるわけです。そのことを考えると、本当に涙が出てくるほど、主イエスは弟子に対して優しいのです。忍耐に満ち溢れているのです。

 先週の水曜日の祈祷会は、古川長老の担当だったのですが、各福音書の復活の記事を読みました。マタイの福音書で、主イエスはよみがえった後、「おはよう」と声をかけておられます。

 昔から、もう少しましな翻訳があるだろうなどと言われることもあります。「シャローム」という言葉です。「平安があるように」という意味の言葉です。けれども、この言葉はごく日常の挨拶の言葉として使われていたので「おはよう」とするのがいいだろうということなわけです。

 先日、ある本を読んでいましたらフランスの哲学者の言葉で、「おなじ言葉でも、その言葉のあり方次第で、良くも悪くも聞こえる」という事が書かれていました。良くも悪くもというのは私の言葉ですが、「卑俗にも高潔にも聞こえる」というのです。そして、言葉のレベルということがあって、浅いレベル、真ん中のレベル、そして深いレベルの言葉があると書かれていました。どういうことかというと、浅いレベルの言葉で語ると、聞いている方にも浅いレベルで聞こえる。深いレベルで発せられた言葉は、深いレベルで届くというのです。それで、その本を書いた人は、主イエスが発した、この復活の朝の「おはよう」という言葉を考えてみるわけです。きっとこれは深いレベルの言葉だっただろうというわけです。

 そこで、こんな話をしています。子どものころに、友達と喧嘩をした。謝ろうと思ったけれども、その時謝ることができなかった。次の日会ったらちゃんと謝ろうと思っていると、その友達の声が自分の後ろから聞こえてくる。謝らなきゃ、謝らなきゃと思いながらも体が固まってく。そうしたら、その友達が、後ろから追い抜きざまに「おはよう!」と言いながら、ランドセルをポンとたたいた。その瞬間、この深いレベルのおはようという言葉に吸い込まれたというのです。この「おはよう」はいつもの「おはよう」ではなくて、「気にすんなよ、俺はもうゆるしてるから」の「おはよう」だった。だから、「今日も一緒にあそぼうぜ」の「おはよう」なんだというのです。主イエスのこの朝の「おはよう」も、「もうあなたがたのことを赦している。気にするな」の「おはよう」ではなかったかというのです。

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」

 この主イエスの言葉はいつまでもなくなることのない言葉として、消えることのないものとして、確かにあるのです。私たちは終わりの時が来るまで、目を覚まして待ち望む必要があります。私たちの務めをしっかりと果たす必要があります。何度も何度も失敗を繰り返したとしても、私たちの主イエスは、私たちを受け入れてくださる。それが、消えることのない主イエスの言葉によって、私たちはその確かさを覚えることができるのです。

お祈りをいたします。

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