2019 年 6 月 2 日

・説教 マルコの福音書14章43-52節「恐れの心と向き合って」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:02

2019.06.02

鴨下 直樹

 今日のところは、主イエスが逮捕されるところが書かれています。ここにはいくつかの出来事が書かれています。まず、ユダが現れて口づけするところ。ユダが口づけをした相手が逮捕する人物だとあらかじめ合図を決めていたということが書かれています。その次に、捕らえられそうになったところで、一人の弟子が祭司のしもべに切りかかって、その人の耳を切り落としたというところです。そして、主イエスが逮捕されるときに語られた言葉が記されています。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか」とあります。その結果として弟子たちが皆逃げてしまったことと、最後に、ある青年が亜麻布一枚を着て、この主イエスについて行ったけれども、捕物が始まったために裸で逃げたという事が書かれています。

 この場面は多くの絵でも描かれていますし、他の福音書でもすべてこの部分は語られているところです。私自身、もうこの主イエスの逮捕について何度語ったか分かりません。芥見の礼拝でもこの場面から何度か語っていると思います。

 昨日のことです。「ぶどうの木」という俳句の会が教会で行われております。私はそこで、短く聖書の話をするのですが、この集まりで話す私の話は、たぶん他の集会で話す話とは少し違う話をしています。多くの場合は本の紹介をしたりしながら、俳句を作るということに少しでも関係ある話をしようと思っているわけです。昨日は、そこで「スランプの時どうするか?」という話をしました。あれこれと考え込んでいるうちに俳句が作れなくなってしまうことがあるのではないかということを話しました。というのは、昨日、この説教のために準備をしながら、あれこれと考えていて、もう何も出て来なくなるということを経験していたので、その話をしたわけです。

 俳句を指導してくださっているMさんは、「写生する」という言葉をよく語っています。「写生する」というのは、私たちが子どものころ、学校の図工の時間に、外に絵の具を持って出かけて絵を描くときに、「写生する」と言うわけです。俳句も、その意味では絵を描くときと同じで、見て感動した景色を切り取ってきて、それを五七五で描写していくわけです。その時に、どこをどう切り取るかということが、その人のセンスということになるわけです。

 これは、聖書の説教をするときも、同じようなことが言えると思います。この箇所のどの部分を切り取って、ここで語られていることを物語るかということです。ただ、絵も、俳句も、説教も、そういう意味では似ているわけですが、その切り抜き方というのは、その人特有の癖みたいなものがあって、もうなんとなく決まってしまうわけです。毎回毎回同じやり方をしていると、だんだん、自分の写生に飽きてきてしまうと言いましょうか。同じ作業を繰り返しているうちに、だんだんと感動がなくなってきてしまう。感動がなくなってくると、そこから伝えたいものがなくなってしまいます。インプットしていないと、アウトプットできないと言いましょうか。食べていないと出てこないわけです。それで、そうなったらどうするかという話を昨日したわけです。私の場合は、こうなると手あたり次第インプットしていくわけで、ありとあらゆる本を読みます。特に説教を読みます。できるだけ、自分と近い人のものから読むんですが、そうすると刺激も少ないので、全然違う立場の人のものを読んだりします。そうすることで、何かしらの刺激を受けて、心が動きだすわけです。

 考えてみると、この箇所ほど心が動く場面はありません。愛する主イエスが十字架で殺される、その決定的な現場である主イエスの逮捕についてが語られているわけです。けれども、たとえば、ちょっとたとえが古いのですが、水戸黄門の印籠と同じで、毎回毎回、助さんと角さんが出てくるあたりで、もういいか、あとはお決まりのパターンだしという気持ちになるのと似ていて、主イエスの受難ということを語り続けているうちに、もっとも肝心な主イエスの逮捕のところで、心が動かなくなってしまうということが起こるわけです。
 
 何でこんな話から私は説教をしているのでしょうか。確かに、これは私の問題なのですが、私はこういうことは私一人の問題ではなくて、いつでも私たちに起こっていることなのではないかと考えているのです。いかがでしょうか。

 そういう思いで聖書を読むと、他の福音書の中には全く出て来ない、言ってみれば少し新鮮な記事がここにあります。それは、51節と52節です。

ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。

 こういう記事を私たちはここで読むわけです。ここを読んだ率直な感想は、「なんのこっちゃ」という思いがするのかもしれません。ここには、それほど大事だと思える言葉はほとんどありません。あっても、なくてもいいような気がする箇所です。

 聖書の解説を読みますと、いろいろなことが書かれていますが、それでもそれほどその分量は多くはありません。ここからいろんなことが考えられるわけですが、たとえば、なぜ他の福音書にはこの記事が書かれていないのかということです。このマルコの福音書は最初に書かれた福音書であるということは、ほぼ間違いのないこととして今は分かっています。そうだとすると、他の福音書はこの記事を大事なことではないと思ったのか、あるいは、この言葉はその福音書の書かれた後で、書き込まれたのかという可能性もありうるわけです。

 もちろん、ここからの話しは、仮定の話で、断定できるものではないのですが、この青年とは誰かということが大きな意味を持ってくることになります。そして、多くの人々はこの青年は、この福音書を記したマルコ本人なのではないかと想像するのです。

 たとえば、レンブラントという画家がいます。この人は主イエスの裁判の場面なんかを銅版画なんかで描いていますけれども、そういうところに、ひょっこりと自分の姿を書き入れたりします。それと同じようなことだというわけです。

 このマルコというのは、キプロス島の出身でヨハネ・マルコと言います。この人はパウロの第一次伝道旅行の時にパウロとバルナバとともに伝道に行った人です。このマルコはバルナバの従兄弟であるとコロサイ書にあります。そういうことが背景にあったのだと思いますけれども、パウロは第一次伝道旅行でバルナバとともに出かけますが、途中までこのマルコも同行しています。ところが、マルコの故郷であるキプロスを去ったときにマルコはそれ以上の伝道に付き従うことをしませんでした。

 それで、第二次伝道旅行の時に、パウロはバルナバとともに伝道に行く計画を立てていたのですが、バルナバがこのマルコを連れていきたいと言い出します。パウロは、第一次の時に途中で離れてしまったような者と一緒には行けないと言って、パウロとバルナバは袂を分かってしまうという出来事がありました。そののち、このマルコは、ペテロの手紙の冒頭でペテロが「私の子マルコ」と書いていまして、パウロと別れた後、このマルコはペテロとともに伝道したということは分かっているわけです。しかも、これは伝説として伝えられている話ですけれども、ペテロが殉教の死を遂げた時に、マルコも一緒に殉教したという記録があります。

 ですからマルコはペテロと共に伝道者として生涯を生きた人であったことが分かっているわけです。そのマルコが、この主イエスの逮捕の時に居合わせたのだということを語っていたのではないかと考えられるわけです。もちろん、はっきりとした資料があるわけではありませんので、あくまでそうであったかもしれないという話に留まっています。

 けれども、マルコのことをよく知っていた人たちは、このくだりを読むときに、「私たちのマルコ先生は、あの時、どうも、もう食事の後で寝るつもりだったのか、亜麻布を着て寝ようとしたら、主イエスの弟子たちがオリーブ山に出かけたので一緒について行った。その時に、目の前で大捕物が始まったので、マルコ先生は着ている物を脱ぎ捨てて裸で逃げたという話ですよ。」と、マルコのことをよく知っている人たちは、少しからかうような、あるいは、ユーモアを込めて、こういう話を楽しんで読んだのではないかと考えられているわけです。

 こういう逸話が聖書の中に記録されているというのは、とても興味深いことです。他の福音書にはない、別の切り口がここから見えてきます。

 なぜ、マルコは逃げたのか。恐ろしかったからです。自分もこのままでは捕まえられてしまうと考えたのです。もちろん、それは、この時に逃げた主イエスの他の弟子たちも同じです。けれども、特別にマルコのことをよく知っていた、マルコの教会の人々などはこういう物語も、まるで、自分の物語を聞くかのような思いで読んだということなのです。

 こういうところを読むと、私自身も、この主イエスの逮捕の物語が、手垢のついたいつものお決まりのフレーズということではなくて、新鮮な思いでこの物語と向き合うことができる気がするのです。

 有名なペテロ先生が、ヨハネの福音書にその名前が出てきていますけれども、この時に祭司のしもべに切りかかって耳を切り落としたとか、他の弟子たちも逃げてしまったというのは、話としてはよく分かるわけです。けれども、自分たちの仲間がこの現場に居合わせたとなると、とたんに、この物語が色彩を帯びてくる気がします。自分の出来事として考えるきっかけになるのです。

 テレビでいろいろな事件を犯した人が逮捕される場面を何度見ても、それはどこか他人事ですけれども、自分の知っている人が目の前で逮捕されたなんていうことになったら、それこそ、それはもう他人事ではなくなるわけです。この主イエスの逮捕という出来事は、まさに、そのような思いで読むべきところなのだということを、こういうところから考えさせられます。

 人を捕まえに来る者が、自分の目の前で主イエスを捕らえる。それまで、主イエスと一緒にいるのはなんと素晴らしいんだろうと、仲間気分で一緒にいたのです。最後の晩餐をともにし、オリーブ山まで一緒に賛美し、ゲツセマネでは眠い祈りの時間を過ごした。そのように、今まで喜んでご一緒していた主イエスが捕らえられた時、私は裸で逃げたのだとマルコは語ったのです。

 捕らえられるということは、まる裸にされるということだと、ある説教者はここでそう説明しました。先日のニュースを見ていましたら、この6月1日から逮捕されたものが、検察で取り調べを受ける時に、それがすべて映像で記録されることになったのだそうです。これは特に裁判員裁判の対象事件に関して義務化されるということのようです。まさに、文字通り、丸裸にされることになるようです。別に録画されていなくても、同じことですけれども、自分がこれまで犯したことが、一つひとつ明らかにされ、記録されて、隠すことができない。それが、裁かれるということの姿です。

 だから、恐ろしいのです。捕まらないようにと逃げ出すのです。主イエスへの深い絆と固い決意がこの前のところで語られていましたけれども、残念ながら、この怖さの前には、そのような絆も意志も役には立たなかったのです。ここに人の弱さが記されています。人間の限界の姿が示されています。人とはそのように弱い者なのです。

 ペテロも、他の弟子たちも、またマルコもこの闇の中を必死で走って逃げたに違いないのです。その間いろいろな葛藤があったに違いないのです。主イエスを残してしまった無念があったかもしれません。他の弟子たちはどうなっただろうという心配もあったかもしれません。そういう思いの中で、追手がないことに気づいて走るのを止めた時、「ああ助かった」と思う。自分は捕らえられずに済んだと胸をなでおろす。それに気づくときに、これは私の物語なのだという事に打ちのめされるのです。

 一方で主イエスを見るとどうでしょうか。主イエスはここで、力強く語っておられます。

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは捕らえませんでした。」

と、主イエスはこのようにお語りになられました。

 主イエスは恐れてはいないのです。これは、宮で語っていた時から、いつ捕らえられてもいいという覚悟でわたしはいたのだとも読めます。そして、この言葉は同時に、隠れた闇夜に捕らえに来ている祭司長たちのやり方を指摘しているわけです。

 けれども、この主イエスの言葉の大事な部分はこの後の言葉です。

「しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」

 しかし、主イエスが捕らえられるのは、聖書の成就なのだと主イエスは言われたのです。これらの出来事は、すべて神の御手の中で行われているのだと言われたのです。

 この言葉の中に果たして福音の響きを聞き取ることができるのでしょうか。普通に読んだだけでは、特に何も感じないのかもしれません。むしろ、この言葉に絶望したくなる人もあるかもしれません。というのは、結局のところ、神の手の中にすべてのことはあるのだとしたら、私の意志や決断には何の意味もないのではないかという思いを抱くからです。

 祈祷会でもそのような質問が出てきました。これはとても大事な問いだと私は思います。信仰の急所でもあるとさえ思います。

 ここにユダが出てきます。ユダの裏切り。ここに焦点を当てると、確かに、前に書かれていた言葉、「そういう人は生まれて来なければよかったのです」という言葉が浮かんでくるかもしれません。その時にも言いました。ユダも、ペテロも、弟子たちも、私たちも同じであると。主イエスを裏切るような人間は生まれて来ない方がよかったとすれば、それは、どういうことか。それが、罪びとの姿だということです。つまり、それが私たちの姿だという事です。人の罪ゆえに、主イエスは捕らえられ、十字架にかけられるのです。それは動かすことのできない人間の現実の姿です。

 その時に、人は「運命」という言葉を使いたくなるのです。抗う事のできない「運命」と。ユダは、自分ではどうすることもできない。可哀想だと思いたくなるような思いまで出てきます。自分の中にユダの姿を見出すからです。けれども、私たちが知らなければならないのは、この神の御計画は、人の罪と裁きで終わってはいないということです。罪と絶望では終わらないのです。神は、常に人の前に救いを備えていてくださる。人は自分の罪と死という抗う事のできない絶望的な神からの裁きの道に立たされながら、そこに救いの道を神が備えていてくださることを知ることができるのです。

 それが、「こうなったのは聖書が成就するためです」という言葉の持つ意味です。神の救いの計画は、主イエスの逮捕で終わりはしないのです。弟子の裏切りでは終わらないのです。そのもっとも苦しいところを通り越して、その先にある、復活。それは新しい命、と神からの使命、そして神との和解という完全な救いの道が示されているのです。

 これは、私の、私たちの出来事です。主イエスを裏切り、逃げ去ってしまうこと。それが私たちです。けれども、そこに私たちの救いの道が敷かれているのです。

お祈りをいたします。

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