2019 年 7 月 14 日

・説教 マルコの福音書15章33-47節「光を与えたまえ」

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2019.07.14

鴨下 直樹

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「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。」

 今日の聖書はこのところからはじまっています。十二時というのは、お昼の十二時です。太陽が一番高く上るとき、つまり一日の中でもっとも明るい時間、もっとも光に包まれている時間です。その時に、この世界は闇に包まれたのだと聖書は語っています。

 主イエスが十字架にかけられている時、それこそまさにここでこそ神の光が注がれたら、誰もが奇跡が起こったと信じることのできるような時に、神はこの世界の希望に応えるのではなくて、闇に支配されてしまった。そして、その闇が三時まで続いたと記しています。

 光が欲しい、救いが欲しい、神の助けが今あれば、神を信じるのに、と人が思う時があります。しかし、いつもそうですが、神の救いの光は、私たちの望むように簡単に与えられたりしないのです。そこにあるのは、神の沈黙と絶望です。

 私たちが神を必要とするときに、時折そのような思いを抱いてしまうことがあるのだと思うのです。なぜ、神は私の祈りに耳を傾けてくださらないのか。神は死んでしまったのではないのか。そう考えることがどれほど楽だろうかと考える人は多いのです。実際に、教会に足を運びながら、この神の沈黙に耐えられずに、離れていく人は少なくないと感じます。

 そして、驚くことに、そのような神の沈黙を経験し、闇を味わいながらこの聖書に出てくる人物はこう叫んだというのです。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

 34節にそのように記されています。この礼拝に先立って、祈祷会でこの箇所を学んだ時に、何人かの方が、「この主イエスの叫びの言葉が理解できない」と言われました。もっとほかの言葉があるのではないのかと言うのです。あるいは、神に見捨てられると言っても、すぐその後でよみがえるわけだから、すでに分かっていることを大げさすぎるのではないかというのです。

 こういう問いかけはとても大切です。そういうところから、この言葉の持つ意味がより明らかになるからです。私もそう聞きながら、改めて、この主イエスの言葉の持つ意味を考えさせられています。そこで改めて考えさせられるのは、主イエスにとって、神から引き離される、闇に支配されるということがどれほど恐ろしいことなのかということを、私たちはあまり理解できていないのではないかということを改めて考えさせられているわけです。

 生まれて間もない子犬を母犬から引き離すような感覚がそこにはあるのかもしれません。あるいは、生まれたばかりの赤ちゃんが検査のために母親から引き離されて、医者の手に託されるような感覚と言ってもいいかもしれません。決して、離れ離れになるなどということが考えられないくらい深く結びついているものを、引きはがす。そういうものに例えることができるでしょうか。

 いや、それでもまだこの闇の恐ろしさについて十分に語られているとはいえません。主イエスにとって、神から引き離されて、罪あるものとして裁かれて、この闇の中に呑み込まれていく怖さというのは、筆舌に尽くしがたい恐れであったと言わなければなりません。それが、この「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉の持つ意味です。

 それは言い換えるならば「光を与えたまえ!」という叫びであったと言うこともできるかもしれません。

 実のところ、私たちはこの完全に見捨てられるという恐怖を味わうことがないので、この主イエスの言葉を正しく理解することができません。つらい経験をする人はあります。孤独を味わうこともあるでしょう。壮絶な別れを経験することもあるいはあるのかもしれません。けれども、神すら私たちを見捨てるということを経験することはないのです。主イエスはそれをここで味わっておられる。かつて、ある牧師は「暗黒への飛び込み」という表現を使った人がいます。私たちは暗黒であってもそこに神の御手があると信じて飛び込むことができる。それを信仰と呼んだりもしています。けれども、主イエスにはここで神の御手がないのです。そこにあるのは、完全なる裁きと、完全なる闇です。

 多くの人にとって「死」というのはそういう恐れであるということもまたできるかもしれません。神を見失っているというのは、まさにそのような恐れの中に生きているということであるのかもしれません。

 主イエスにとって、この闇はひどく悲しく、恐ろしいものでした。ゲツセマネでの祈りにおいて「この杯をわたしから取り去ってください」と祈られました。この神から罪びととして裁かれ、闇の支配に身をゆだねることになるということが、まさにこの瞬間身に迫って来たのです。

 主イエスと闇、死、裁き、それらの言葉ほど主イエスの遠くにあるものはありませんでした。しかし、今この時、主イエスには闇がとりつき、死がつきまとい、神の裁きが差し迫っているのです。

 かつてパスカルが言いました。「イエスは世の終わりまで苦悶されるであろう」と。主イエスは、最後の最後まで苦しみを味わわれるのだというのです。この世界が滅ぼされるその時まで、主イエスは苦しみを身にまとわれると。それはつまり、私たちのための苦しみなのだと言おうとしているのです。光の中に生きておられ、光そのものであるお方が、闇の中に捨てられる。そして、神の支配の及ばないところに捨てられる。そこには絶望しかないのです。神はそのように、主イエスに対して、徹底的に沈黙を貫き、無視し続け、この裁きの業を完成させようとしておられるのです。

 パスカルはさらに言うのです。「おまえは涙もながさずに、わたしに人間としてのわたしの血をいつまでも流させようと望むのか。」

 このことを知ってもなお、主イエスが苦しみ続けることを望むのかというのです。パスカルの痛烈な私たちへの問いかけです。自分の死の時まで、主イエスにこの苦しみを与えつづけようとしているのかと問うのです。十字架の主イエスのこの叫びは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」との叫びは、本来主イエスの叫びではないのです。そうではなくて、私たちの叫びです。本当は、私たちが死に呑み込まれていくときに、「神様どうして私を見捨てられるのですか」と、死に恐怖しながら死んでいかなければならないのです。けれども、主イエスはここで、この私たちの叫びを、自らの叫びとして叫んでくださっているのです。私が受けるべき神からの裁きを、死の恐怖を、主イエスがここで引き受けてくださっているのです。

 ここで、大切なのは想像力です。主イエスの愛の業を、自分のこととして受け止める想像力が必要です。この主イエスの愛を受け取るためには、この主イエスの出来事が、自分の出来事であると理解する心が必要なのです。

 ドイツにおりました時に、時々リンブルグという町に何度か訪れたことがあります。このリンブルグという町は、それほど大きな町ではありませんが、町の真ん中にドームと呼ばれるその地域で一番大きな教会堂があります。私たちが住んでいたズィーゲンという町から、マレーネ先生が住んでいたライン川沿いの町のちょうど真ん中くらいにある町です。そういうこともあって、何度も、その街に足を運びました。そして、その都度、ドームと言われる教会を訪問しました。この会堂の外側はロマネスク様式のオレンジを主体とした美しい建物で、とても歴史を感じさせてくれます。1000年近い歴史のある教会です。

 その礼拝堂に一つの十字架像が上から吊されています。私は、ドイツの町を観光するたびに、さまざまな街の教会を見学するのですが、このリンブルグの教会の十字架はとても印象的です。私の記憶違いであれば申し訳ないのですが、この教会の十字架像は、磔にされた主イエスが上から吊されているのですが、このイエスの頭に髪の毛がついているのです。あまり美しい十字架ではありません。むしろ、そこだけ変なリアルな感じが出ていて、昨日もネットでその写真を確認しようと思ったのですが、ほとんどの人はその十字架の写真を撮っていないのです。私の想像ですが、あまり写真に収めたいと思えるような十字架ではないからだと想像するわけです。こういうことを言っていいかどうかわかりませんが、ちょっと気味が悪い感じがするわけです。

 ただ、その時にいろいろなことを頭の中でイメージするのですが、なぜこの十字架の作者はこんなことをやったんだろうと想像してみるわけです。決して綺麗ではないし、あまり見ていたいとも思わない十字架像が、この礼拝堂の正面に上から吊されているわけです。そうやって考えているうちに、別の考え方が浮かんできます。きっとこの奇妙な十字架をここに吊したのはわざとだと考えてみたわけです。そもそも、主イエスの十字架というのは、じっと見ていたいような美術品なのだろうかと考えるわけです。そう考えながら、その十字架を見上げていると、こんなことを考え始めます。もし、ここに本当に主イエスが十字架にかけられたようなリアルなものがあったら何を感じるのだろうか。気持ち悪いと思うのだろうか、それとも「痛そうだ」と感じるのだろうか。そうやって考え行くうちに、「痛そうだ」という感じることも、主イエスの十字架を観察しているだけだということに気づかされるわけです。十字架の主イエスを見上げながら、痛そうだというのは、あまりにも冷たい反応です。

 この時にも、主イエスの叫びを耳にした人たちは「エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言っています。これも同じです。自分の代わりの主イエスがここで叫んでおられるのだということが分からないのです。この十字架は私のため、この叫びは私の叫び、そう考えることができた時に、一瞬でこの十字架の景色が変わってくるのです。

「しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた」。この光景を目の当たりにしたら、涙を流さずにはいられないはずなのです。私のようなものを救うために、主イエスが死んでくださったということが分かるなら、私たちはその十字架の前に胸を打ちたたきながら涙を流す以外にできることはないのです。
 

 そして、この主イエスが息を引き取られた時、神の御業は完成したのです。主イエスが罪人として死なれたことを通して、私たちの罪の代価が支払われたのです。そして、そのことのしるしとして、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と38節で記しているのです。これは、それまで神の御前で罪が赦されるためには大祭司だけが至聖所の中に入ることがゆるされていたのですけれども、その幕が取り除かれて、この時から神と直接関係をもつことができるようにされたことがここで示されているわけです。

 この後のマルコの書き方は見事です。弟子でもない、律法学者たちでもない、ローマの百人隊長がその主イエスの姿を見て「この方は本当に神の子であった」と言ったと記録しているのです。異邦人の兵士です。聖書を読んできたわけでも、主イエスに従ってきたわけでもないこの男が、主イエスの死の様をみて、「この方は本当に神の子であった」と告白しているのです。

 グリューネバルトはかつて4枚のキリストの十字架の絵を描きました。その中にスイスのバーゼルにある「キリスト磔刑図」という絵があります。グリューネバルトの描くキリストはいつも首をうなだれ、体には無数の傷のある醜いキリストを描いているのですが、この絵をよく見ると、キリストの目にうっすらと涙が描かれています。主イエスの絶望の様が、その涙によって描き出されています。そして、その十字架の横にローマの百人隊長が描かれています。その百人隊長は右手を上にあげながら、「この方は本当に神の子であった」と告白しています。そして、その目にも涙が描かれています。十字架の主イエスを見るならば、涙を流しながら信仰の告白に導かれるのだということをこの画家はよく知っているのです。

 マルコはこうして、このように描きながら、まるで真っ黒になって、もはや負ける寸前だったオセロの盤面が、この百人隊長の告白という一枚の白が置かれたことで、ここから端を発していっきに形勢が逆転して白にかわっていくかのように描いていくのです。そのすぐ後には三人の女の弟子たちがいたことを記し、サンヘドリンの議員であるアリマタヤのヨセフも心動かされて主イエスの埋葬を願い出たというようにして、一枚一枚のピースが白く変わっていく様を描き出しているのです。あるいは、どん底まで叩き落とされたところから、V字回復するかのように、この主イエスの死を起点にして、世界が新しく動き出していく様を描き出しているのです。

 それは、まさに真っ暗な闇の世界に主イエスが落とされたことを通して、そこから光が差し込んでくるかのような、そんな描き方をしているのです。

 主イエスにとって、それは死です。滅びです。裁きです。しかし、その死が、私たちにとっては、命であり、光であり、希望の出来事であったのです。私たちは闇の中を生きています。神の裁きの世界の中に置かれています。しかし、そこに主イエスがおられる。主イエスがそこで、自らを犠牲にしてくださることを通して、私たちはその代価を通して、救いの光を受けることができるのです。

お祈りをいたします。

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