2019 年 9 月 1 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 2章1-12節「愛に生きる福音」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 15:19

2019.09.01

鴨下 直樹

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 パウロはテサロニケの教会の人たちに手紙を書き送っています。この第二章でパウロは、今まで自分がどのような思いや状況の中で、テサロニケで伝道してきたのかを想い起してもらおうと言葉をつづっています。そして、ここから分かるのは、パウロがテサロニケに来る前のピリピの教会でどれだけ大変な思いをしたのかということがよく分かる言葉です。このピリピでパウロと一緒に伝道していたシラスは投獄されてしまいます。その後、地震が起こって牢の扉が開いてしまうのですが、パウロと一緒にいた囚人たちも逃げなかったのです。その時のことがきっかけで、この時の看守の家族が信仰に入ったということが使徒の働きの16章に記されています。

 そういう中でパウロたちはテサロニケの町へ向かったのです。このことを語ることによって、パウロがどれほどの思いを込めてテサロニケで伝道したのかが伝わることを願ったのです。けれども、それは、テサロニケの人々を喜ばせるためではなく、「神に喜んでいただこうとして、語っているのです」と4節で語っています。この手紙を聞いている人たちからすると、自分たちのためではないと言われているわけですから、聞いた時には耳を疑いたくなる人も出たかもしれません。けれども、パウロはあくまでも神に誠実でありたいと思って伝道しているのだということをここで、躓かれてしまうことも恐れないで語っているのです。
 8節にはこうも書かれています。

あなたがたがをいとおしく思い、神の福音だけでなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。

 私は二週間の間、教会を留守にしておりました。今日は久しぶりにみなさんと顔を合わせることができてとてもうれしく思っています。私は11日の礼拝の後、12日の月曜から15日の木曜まで中津川にあります長老教会のキャンプ場で、中学生や高校生と4日間ともに過ごしながら、そこでみ言葉を語る機会が与えられました。長い間学生伝道をしてきましたが、もうここ何年も学生たちのキャンプで説教をする機会がありませんでしたから、とてもわくわくしながら出かけました。

 この中津川のキャンプ場は森の中にあるキャンプ場で、私たちの根尾クリスチャン山荘に劣るとも勝らない、なかなかのキャンプ場でした。チャペルと呼ばれている建物も、ビニールシートが張られた屋根と、床しかありません。入り口も、壁もなく、柱しかない建物でしたが、それでも学生たちは本当にこのキャンプ場のことが好きでたまらないのだということがひしひしと伝わってきました。特に、彼らの賛美は本当に元気で、また真剣に主を賛美する姿に感動を覚えました。

 そんな中で4回にわたって説教をしたのですが、毎回毎回何人かの高校生や中学生たちが泣きながら説教を聞いていました。私自身、分かりやすい話を心掛けたつもりです。それほど感情的な言葉よりはむしろ、聖書の考え方をしっかりつかんでほしいと願って説教したのですが、とてもよく聞いてくれました。3日目の説教の時に、「招き」をしてほしいと、担当の先生から頼まれました。最近はあまり見かけなくなりましたが、以前は伝道集会のたびに、この「招き」というのが行われていました。「今、イエス様を信じたいと思っている人は手を挙げてください」、とお祈りの途中で尋ねながら手を挙げてもらうわけです。

 私はこれまで招きをあまりしたことがなかったのですが、イエス様を信じたい人と尋ねると、数人の学生たちが手を挙げてくれました。集会のあとで、長老教会の牧師がその一人一人を呼んで、これからどうするかということをお話しする場に、私も出させてもらったのですが、金髪の男性の高校生は、涙を流しながら、たぶん、イエス様を信じると家で話したら家族に反対される。だけども、僕の心の中にはもうイエス様がいるので、家族にこの気持ちを伝えてみたいということを話している姿を見て、本当に私自身もまたうれしい思いを持って、帰ってきました。

 実はこのキャンプの時の感想を紙に書いて、それぞれの部屋のスタッフがまとめてそのデータをあげてくださるのですが、その締め切りが昨日8月31日まででしたので、もう一度、学生たちがどんな思いでキャンプ場を後にしたのか、あらためて読み返しておりました。福音が学生たちに届くというのは、こういうことなのかと、私自身改めて気づかされているわけです。

 福音を語って、それが受け入れられる。そうして主イエスを信じるようになるというのは、伝道者冥利に尽きると言っていいと思います。そこに、伝道者の喜びがあります。けれども、そこで自分自身振り返って考えてみるわけです。この8節にあるような「自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています」と言えるかと、自分に問いかけてみるとそこまで言えるかなと立ちどまって考えてしまうのです。

 こういう言葉と直面すると、これはパウロ先生だから言えることであって私たち一般信徒には次元の違う世界だとか、一般の牧師はここまではいかないのは当然だというような気持ちが出てくるのではないでしょうか。

 パウロはその前の7節でこうも言っています。

キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子のようになりました。私たちは、自分の子どもたちを育てる母親のように、あなたがたのことをいとおしく思い・・・

と続くわけです。

 ここで、「子どもを育てる母親のように、あなたがたのことをいとおしく思い」とあります。そう読むと、みなさんはどんな母親像を持つでしょうか。ここは少し面白い言葉が使われていまして、もともとの言葉では「乳を与える母」という意味の言葉が書かれています。たしかに、母親の役割というのは少しずつ変わっていきます。子どもに乳をやっているときというのは、本当に愛情を子どもにすべて注ぐわけです。ところが、子どもが成長するにつれて、それだけでは子どもは育たないことが分かってくると、厳しいことも言わなくてはならなくなります。そこには、母親の愛と、また同時に母の悲しみもあるわけです。

 パウロはここで、自分が福音を語るやさしさは、子どもに乳を与える母親のようなものだと、臆面もなく語っています。それは、パウロだけが語り得たことだということではなかったと思うのです。

 パウロはテサロニケで福音を告げたのです。3節に「勧め」と訳されている言葉があります。これは新共同訳聖書では「宣教」と訳されています。12節にも同じことばが出てきます。新共同訳ではここは「励まし」となっています。パウロの語る福音の宣教、勧めは、励ましとも訳せる言葉です。しかも、この言葉は他の箇所では「慰め」とも訳されている言葉です。親が子どもを励ますような言葉とは何か、それは「慰めの言葉」です。この「慰めの言葉」を宣教として、あるいは励ましとしてテサロニケの人々に、この慰めの福音を告げたのです。

 11節には今度はこう書かれています。

また、あなたがたが知っているとおり、私たちは自分の子どもに向かう父親のように・・・

 母親のように語ったかと思えば、今度は父親のように12節の最後を読むと「命じた」という動詞で終わっています。父親のようにも語ったのだと言うのです。命じた内容は12節です。「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました」とあるのです。この最後の部分では「勧め、励まし、厳かに命じた」と同じような言葉が続くわけですが、父親が語ることもまた、「慰め」を語るのだということです。

 この慰めの福音をある時は母親のように語り、ある時は父親のよう厳かに命じるようにして語る。そうやって福音の言葉が語られるのだというのです。それは子どもを育てる時に、やさしい言葉だけでは十分ではなく、時に激しい言葉を使わなければならないように、私もそのように福音を語ってきたのだとパウロはここで言っているのです。

 これは、「私たちにはこんなことはできない、パウロならではだ」などと私たちとパウロとの間に線を引いてしまう必要はないのです。心を尽くして想いを尽くして、力を尽くして、私たちもまた福音の言葉を家族や、周りの人々に語ることができるのです。というのは、私たちの神は、パウロがどんな状況に置かれていたとしても、その状況に支配されることなく、私たちを救ってくださる方を知っているからです。ですから、ここでパウロは「神に喜んでいただこうとして、語っている」と言っているのです。

 ピリピで受けた大変な状況も、結果として喜びに変えてくださった。地震が起こって、その結果看守に福音を伝える機会を得、また、牢から解き放たれることをも経験させられているのです。そのような、主を知っているからこそ、私もまた、この主が喜んでくださるために福音を語るものになりたいのだと言えるようになるのです。

 今回のキャンプで最後の日の夜に、一人の高校生の男の子が私のところに、「相談があります」と言って、質問に来ました。このキャンプは50名の学生のために30名ほどの青年たちがスタッフとしてキャンプのあらゆる奉仕をしてくれていました。すると、この高校生の子が、「私もあのスタッフたちのように、簡単に信仰がなくなってしまわないような立派なクリスチャンになりたいのだけれども、自分は弱くて、すぐに教会も休みがちになるし、聖書も読めなくなってしまう。どうしたら、あんなクリスチャンになれるんでしょうか」という質問でした。

 私は、とても正直な質問だなと思いながら、彼にこう答えました。きっと、あのスタッフをやっている人たちだって、会社でつらい経験をすることもあれば、家族の中でトラブルを抱えていることもあるし、信仰的に落ち込んでしまう事だってあると思うよ。でも、だからどう考えたらいいのか、神様はどう願っているのか、聖書に書いてあるから。聖書を読みながら神様の思いを知る。礼拝でみ言葉を聞いて、神様がどんな方かを知って、その思いに応えていくことを心にとめ、そうやって毎日祈ることで、少しづつ、すこしづつ信仰が整えられていく。一気に立派なクリスチャンになれるなんて秘訣はないけれども、コツはコツコツと聖書を読み、祈り、礼拝の生活を大事にすること。これがクリスチャンの基本だから、そのことを大事にしてほしいと話しました。その彼は、キャンプの最後の証し会の時に、信仰生活のコツを教えてもらったので、コツコツ、コツコツと大事なことを大事にすることを続けていきたいと話してくれていました。

 テサロニケの人々も、また私たちも同じところに立たされています。私たちの主は私たちがどんな困難なところに立たされていようと、そこに留まることができるように、慰めの言葉を語り掛けてくださるお方です。この主の愛に触れて、私たちも主を愛していくときに、それは、当たり前のことかもしれませんが、聖書を読んで神様のことを知る。そして、神様に思いに応えるように祈りながら生きていく。そういうことをこの礼拝の生活の中で、コツコツと続けていくことが大切なのだということを覚えていくのです。

 パウロが親のような愛の心をもって、教会の人々を励ましているように、私たちもお互いに励ましあいながら、この愛の主に答えて生きていくのです。そこに、私たちの喜びがあるのです。

お祈りをいたします。

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