2019 年 9 月 22 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 2章13-3章10節「愛することの実際」

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2019.09.22

鴨下 直樹

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 みなさんはラブレターを書いたことがあるでしょうか。もうずいぶん昔に書いたという記憶がかすかに残っている方もあるかもしれません。あるいは、もう大昔すぎてそんなことも忘れてしまっているという方も多いかもしれません。私はご存じの通り筆まめではありませんので、ほとんど手紙を書きません。ほんとうならここで、妻から昔こんな手紙をもらいましたと、出せばいいのかもしれませんが、そういう手紙を持ってさえいません。これは少し言い訳ですが、結婚してからこれまでに6~7回は引っ越しをしていますから、そのたびに、古いものから少しずつ荷物が減っていくわけです。最近の若い人は全部、ラインという携帯の中のアプリで終わらせてしまうようですから、もっと残っていないのかもしれません。

 先週、私たちは群馬県の下仁田教会に行きました。その時、古川さんが小学6年生の時に竹でしょうか、それを削ったものと墨で描いたアルブレヒト・デューラーのうさぎの模写を昭子さんにプレゼントして、それが今も残っているという話をしてもりあがりました。それは手紙ではないわけですけれども、当時の少年であった古川さんのさわやかな愛情がそこに見える気がしています。

 人に手紙を書くという時にどうしても考えるのは、その手紙を読む人のことです。パウロはテサロニケの人々のことを心にとめながら手紙を書いているわけですから、読む人たちのことをよく考えているわけです。しかも、パウロたち一行はこのテサロニケであまり長い間伝道することができませんでした。この町で伝道したときに起こった暴動のために、逃げるようにして、この町を去らなければならなかったわけです。パウロたちがこのテサロニケに留まっていられたのは数か月と考えられています。まだできたばかりの教会で、聖書のことも十分に教えることができなかったことが、ずっと引っかかっているのです。ですから、この手紙を読むと、少しよそよそしいと感じてしまうほどに、テサロニケの人たちに配慮しているパウロ言葉づかいに、私たちは少し驚くのです。

 本当は13節から16節は先週説教する予定のところでしたが、急遽下仁田教会に行くことになったために、今日は少し長い箇所になっています。ここでパウロはテサロニケの人々のことを思い出しながら、感謝しています。

「あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。」

と13節で語っています。

 そして、このテサロニケの人々がどれほど苦しいところを通らされているかを気遣っています。そして、2章の終わりのところ17節からは、自分がいかにテサロニケに人々と引き離されてしまったことを残念に思いながら、何度も何度もテサロニケの町に行こうとしたのだということを書いています。18節では「私パウロは何度も行こうとしました」とさえ書いています。普通、手紙の中で自分の名前を書く、「私パウロは」なんていう書き方はしないわけですけれども、思わずそう言わないではいられないほど、「私パウロ」は、そのことを残念に思っているというのです。けれども、その後では、テサロニケの教会の人々に向かって、こう語ります。19節です。

「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったい誰でしょうか。あなたがたではありませんか。」

そんな言葉まで飛び出してくるのです。

 このパウロのことばには少し説明がいります。この後の3章を読むと、よく分かるのですが、パウロはテサロニケの後、ベレヤで伝道し、そこにシラスとテモテを残してアテネへ向かいます。後にシラスとテモテはアテネでパウロと合流します。この後、パウロはアテネのアレオパゴスの丘ですばらしい説教をしますが、あまり成果をみることができず、重い足取りでコリントにやってきます。ところが、このコリントの伝道はアテネよりも難しかったようで、「あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました」と第一コリント2章3節で語っています。伝道の困難をつづけて経験する中で、テサロニケの教会のことが気になっていたパウロは、アテネにいたときにテモテを送り出したわけです。

その時のパウロの心情が3章2節に記されています。

「このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。」

また5節ではこうも言っています。

「誘惑する者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦が無駄にならないようにするためでした。」

 こういったパウロの言葉の中に、パウロがこの手紙を書いたであろうコリントでどれほど気落ちしていて、かつて自分が建てた教会の人々さえも信仰から離れてしまっていたとしたらどうしたらいいのだろうかという不安をもっていたということが読み取れます。この5節で「私ももはや耐えられなくなって」と言っています。今、いろんなことがうまくいっていない、そして、これまで自分たちがしてきた働きまでがダメになっていたとしたら、もう進み出すことができない。そんなパウロの心境がここで吐露されているのです。

 ところが、パウロがコリントにいたときにテモテがテサロニケから戻ってきて、テサロニケの教会の人々の報告を聞くことができました。この時、テモテによってもたらされたテサロニケの人々の知らせは本当にうれしい知らせでした。

 その知らせによると、テサロニケの人々が信仰と愛に生きていて、パウロと会いたいと願っているということだったのです。この知らせをパウロはここで思わず「良い知らせ」と言いました。これは「福音」という言葉です。テモテによってもたらされた知らせは、パウロにとって「福音」そのものだったのです。それで、8節でこう言うのです。

「あなたがたが主にあって堅くたっているなら、今、私たちの心は生き返る。」

 パウロのこの言葉の中に、パウロがどれほどこのテサロニケの人々の知らせがうれしかったかということがよく表れているのです。

 「私たちの心は生き返る」。これはちょっと訳しすぎな翻訳で、もともとの言葉は「生きる」と書いてあります。けれども、今回の新改訳2017は「生き返る」と訳しました。おそらくですが、この前の「福音」という言葉を使ったパウロの心情を察して、「生き返る」と訳すのがよいと判断したのだと思います。これまでの第二版では「私たちは、今、生きがいがあります」となっていました。「生き返る」と言ってしまうと、それまでは死んでいたということになるわけで、この「生きがいがある」という翻訳もとても魅力的な訳です。今はこんなに厳しい状況だけれども、「生きてきてよかったなぁ」そのように心から感じているという雰囲気が読み取れるのではないでしょうか。

 実は、今回少し無理をして下仁田教会の訪問をいたしました。岡本先生が先週芥見の礼拝に来てくださるということが急遽決まったため、それならば下仁田に行こうと決めたのです。下仁田教会では可児と芥見の教会から合わせて14名の人が行きまして、言ってみれば神学生たちが夏にくる「キャラバンチーム」のような感じで、下仁田教会でのワークキャンプとトラクト配布をしてきたわけです。キャラバンチームと聞くと、20代の若々しい神学生たちの姿をイメージするわけですが、実際に私たちのチームは3人を除いてほぼ70代の方々です。でも、みんなよく働きました。予定の作業の倍以上働いて、日曜の午後は村の方に入っていきましてトラクトも配りました。本当に、よい機会となったのです。

 その日曜に、下仁田の以前の牧師であった関口先生夫妻が帰省されたためにお会いすることができました。私は約15~6年ぶりの再会でした。今、関口先生夫妻は、鹿児島の離島である口永良部島で生活しています。有名な屋久島の隣の島です。この口永良部島は5年前の火山の噴火があってその時は島民のすべてが避難しました。ようやくおさまって島の7割くらいの人たちが戻って来たようですけれども、今年の春にももう一度火山が噴火しました。台風の被害なども多く、毎年のようにこれでもか、これでもかというような災害続きなのです。

 けれども、遠く口永良部の島にいながら、関口先生たちは下仁田教会のことをいつも覚えて祈っているわけです。そして、久々に下仁田教会を訪れると、可児教会と芥見教会ら十数人のシニアによるキャラバンチームが下仁田の教会で伝道をしている姿を見た。そして、私たちも、口永良部で一所懸命その土地の人々と一緒に寄り添って生きながらその地で、キリストを証している関口先生ご家族の姿を聞くことができた。教会の人々もそういう姿を一緒に見ることができる。私鴨下は、本当に慰められましたし、励まされたのです。

 そして、このテサロニケの手紙をこうしてじっくりと向き合いながら、これこそが教会の愛だということを実感することができるのです。

 パウロが経験したように、わずか数か月で教会ができてしまうほどうまくいくときもあれば、何度語っても、何をしてもうまくいかないこともある。これは、教会を立て上げることだけでなくても、私たちの生活のなかでも、そういう経験を何度となく味わうことがあると思います。

 今日は、岐阜市長も礼拝に集ってくださっていますけれども、私たちよりもきっともっと多くのことで頭を悩ませながら、日々を過ごしておられるのだと思います。みなさんもそうだと思うのです。毎日、さまざまなことに直面しながら生きているわけです。そういう私たちが、どうやってここで語られているように「私は生きる」という思いを失わないでいられるか。それは、私たちのしてきたことが、主にあって無駄ではなかったということを見る時です。つまり、お互いの愛を見て、感じることができる時に、私たちは「ああ、私は堅く立つことができる。私はこれで生きることができているのだ!」という確信を私たちに与えるのだと思うのです。いかがでしょうか。しかし問題は、それが見えてくるためには、少し待たなければならないということです。

 落胆し、悩みながらも、励ましがある。確かにそこに神の働きがあるということに気づくならば、この9節にあるように

「どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる」

と、そう語ることができるようになるのです。

 遠く、口永良部島の地にあって、下仁田のためにできることは祈ることしかありません。遠くコリントの地にあって、パウロのできたのはテサロニケの人々のために祈ることです。それが、この最後の10節に記されています。

 ここに愛の実際の姿があります。

 私たちは完全な人間ではありません。パウロであってもそうです。人間的な慰めを必要とすることがあります。目の前には難しい現実が押し寄せて来て、もうどこにも逃げ道がないかのように思える時があるのです。けれども、私たちは、自分には見えていない道があることがなかなか理解できないのです。自分の見ている物しか見えない時、人は苦しむし、そこで悩むのです。けれども、大切なことは自分の視点だけではなく、別の視点もあるのだということに気づくことです。

 先日も、あるところでこんな話をしました。人との集まりの中で、リーダーが、よくやっているひとをとても褒めた。けれども、他にも頑張っている人がいるのに、その人は褒められなかった。それを見ていて不公平だと感じたというのです。

 一つの大きな考え方として、みんな平等に扱われるべきだという考え方があります。そして、別の考え方もあります。良くやってくれた人のことをできるだけみんなに見えるようにしてあげたいという思いがある。どちらも間違った考え方ではないのですけれども、もし、そこで、平等にするべきではないですかという話をしようものなら、そこにいる人はみな嫌な気持になってしまいます。

 多くの場合、自分の考えていることが正しい、ということは考えられたとしても、他の人もそれなりに意味のあることを考えている、ということが見えないのです。ここに、人間の限界があります。どちらの心の中にある思いも、「良かれと思って」ということですが、別の視点を口にしたとたん、人のした良い働きは、どこかに消し飛んでしまうのです。

 パウロはここで、自分の困難しか見えていません。だから気落ちし、慰めを求めたのです。こういう時に、ぐるぐるといろいろ考えてもダメです。別の視点があるというのは、外からしか入ってこないのです。パウロの場合、その視点はテモテによってもたらされました。そして、そのしらせは「福音」の知らせとなったのです。

 福音の知らせ、それは愛がちゃんと届いているという知らせです。だからこそ、パウロもまた手紙を書いて、自らの愛をテサロニケに届けたいと思ったのです。疑いの心は、自らを暗闇の中に引き入れてしまいます。自分の見えているものしか信じることができないときに、人は頑なになり、不思議なことに愛が届かなくなってしまうのです。

 パウロが伝道で苦しんでいたのはこのためです。そして、私たちもまた、そのところで苦しむことになるのです。どうしたら、そこから抜け出すことができるのでしょうか。それは、自分の視点だけではない、他の視点があることに目を向けることです。そこにもまた、愛の心や、誠実さの心があることに気づくことです。そのためには、神の愛を知ること以外に道はありません。真理は人を自由にするのです。

 ぜひ、知ってほしいことがあります。それは、神様がどう考えておられるかという神の視点です。愛の神は、私たちがついしてしまう「減点方式」ではありません。「加点方式」なのです。はじめに合格ラインがあって、そのラインに到達していない者を罪びとと認定するのではないのです。その意味で、聖書は初めから人はみな罪びとだといいます。ここが、多くの人のつまずく元になるのですが、実はここに神の知恵があるのです。つまり、神は、人を神の基準の合格ラインから考えて減点していくのではなくて、はじめから罪びと、つまり落第点と見ておられる。もっと言うと、はじめからみな0点なわけです。ですから、あとは加点していくばかりなのです。そのことに気づくなら人は互いに愛し合うことができるし、赦しあうことができるのです。人の中につくられる良いものに目をとめ、人のしたことの中にも良いものを見出すことができるようになるのです。

 神は、悲しみと困難の中に置かれているパウロに、新しい視点を与えてくださいました。ダメかもしれないと思っていた人の中に、良いものを見出すことができるようになったのです。そして、このことを、パウロはここで「福音」と呼んだのです。それこそが、まさに福音だからです。

 相手が子どもであろうと、相手が高齢者であろうと、男であろうと、女のであろうと、日本人であろうと、外語の人であろうと、クリスチャンであろうと、そうでなかろうと、私たちは、主イエスを通して、人の中にある良いものに目をとめることができるようにされるのです。だからこそ、私達も主イエスのように、それがどういう人であったとしても、その人を愛することができるように変えていただけるのです。そして、このことが見えてくるならば、私たちは自分の目の前にある困難から抜け出すきっかけを得ることができるのです。

 お祈りをいたします。

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