2019 年 10 月 6 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 4章1-8節「神に喜ばれる歩み」

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2019.10.06

鴨下 直樹

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 10月に入りました。私がかかわっております名古屋の東海聖書神学塾でも、先週から講義がはじまりました。講義と講義の間に10分ほどですけれども、休憩の時間があります。その時に、ひとりの塾生が私にこんな質問を投げかけてきました。「先生は牧師家庭で育ってみえると思うのですが、どうやって神様から離れないでいられたのか、その秘訣があれば教えてほしい」というのです。というのは、理由があって、その方の教会には学生たちが何人も教会に来るのだけれども、しばらくすると来なくなってしまう。自分は社会に出てから信仰をもったので、学生時代に信仰を持つということの大変さがよく分からないというのです。

 私は、その質問に少し困りながら、「私の教会でも若い人が教会から離れてしまう現実があるので、もし、その秘訣が分かっていたら自分でもやっていると思うんですが、なかなか難しいですね」と答えました。そう答えながら、こう続けました。「でも、学生であって、大人であっても、教会に来続けて、神様から離れないでいられるということは、みんな同じところを通っているんじゃないでしょうか」と答えました。

 学生だけが、教会を離れやすいということではない気がするのです。というのは、だれもがそうですけれども、何かのきっかけで神さまから離れてしまうスキというようなものに直面させられているのではないかと思うのです。いかがでしょうか。

 そんなことを考えながら、ふと今日の聖書の箇所を改めて読むと、今日のテーマはまさに、そのことだと考えさせられるのです。その時に、パウロはどうアドヴァイスしたのか、それが、このテサロニケ人への手紙の第四章の内容だと言っていいと思うのです。

 ここでパウロが使っている言葉の中に「歩み続ける」という言葉があります。1節です。新改訳2017の1節の後半にこの言葉がでてきますが、そこでは「現にそうしているのですから、ますますそうしてください」と記されています。新共同訳では「その歩みを今後もさらに続けてください」となっています。この度、新共同訳の方も新しい翻訳がでまして、協会共同訳といいますが、こちらの翻訳では「これからもますます歩み続けなさい」と訳されています。

 「歩み続ける」というのは、その道、つまり信仰の道を進み続けていくということです。途中で脇道に逸れてしまったり、引き返したりしないということです。けれども、この「歩み続ける」というのは、言うのは簡単なことですけれども、実際は大変なことです。自分の進んでいる道が正しいか不安になることもあるでしょう。ほかの道の方がよさそうに思えることもあるし、いつも歩みやすい舗装された道ならいいわけですけれども、時には試練の道、いばらの道を通るということもあるわけです。

 今、ラグビーのワールドカップがこの日本で行われています。日本は前回歴史的な勝利を収めまして、あまり普段ラグビーを見ない私のような者でさえ、次の試合は見ようかなという思いになっています。こういう一流の選手たちというのは、その道を歩み続けて来た選手たちです。もうそこに自分のすべてを注ぎ込んで、それこそ、体調の管理から食事の管理まで、きっちりとなされているわけです。そうやって、ストイックにといいましょうか、わき目もふらずに歩みをつづけて到達できる道があるということを私たちは見るわけです。

 そういうふうに考えると、信仰の道はとても険しい、もう自分のようなものには到底なしえない、不可能な道なのかと考えてしまいそうになります。

 けれども、パウロはここでテサロニケの教会の人々に、「あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、私たちから学びました」と、語っています。先頭を歩んでいる人々がいるのです。学ぶべき人があるというのです。実は、この「学ぶ」という1節の言葉も、何か一所懸命に学んだというよりも「受け容れた」という意味の言葉でもあります。パウロたちの歩みを受け入れて、自分もその道を進む者となったというニュアンスもあるのです。その受け入れた道を、新改訳の言葉でいえば「ますますそうしてください」です。新共同訳でいえば「今後もさらに続けてください」と言っているのです。

 何か、すごい急激な坂道だとか、まるでアスリートが行く道、スポーツ選手だけが到達できる道というのではなくて、今やっていることを続けていけばいいのだとここで言っているのです。それは、私たちになしえないような道を歩めというようなことではないということなのです。

 主イエスが命じられているのはこういうことだと言っています。ここでのテーマは3節です。こう書かれています。

神のみこころは、あなたがたが聖なる者になることです。

 あなたがたは聖なる者になること、これが神のみこころなのだとパウロはここで語っています。そうすると、私たちはまた途方もないような気持ちになってしまいます。「聖なる者なんて言われても無理やん」と言いたくなるわけです。

 けれども、思い返してほしいのですが、すでに3章の終わりで、パウロはこう祈っています。

私たちの神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように

と祈ったのです。これが、完成された姿だと先週お話ししました。パウロはこのゴールから見ているわけです。

 今、できていない私たちを見て、叱咤激励するのではなくて、神がこのように完成させてくださるのだからと、このゴールに目を向けるように促しているわけです。だから、ここでも、できないことを命じているのではなくて、神の約束は、あなたがたが聖なる者となる、そこを見ているのだから、その道をこれまでも歩んできたように、これからも歩んでいきましょうと言っているわけです。そうすると、すこし安心できるのではないでしょうか。

 パウロは、この後、パウロがここで求めている聖さの中身をいよいよ具体的に記していきます。それは、「淫らな行いを避ける」ことと、「異邦人のように情欲におぼれないように」ということです。

 パウロは、今コリントでこの手紙を書いています。このコリントという町は、性にとても乱れた町だったようです。この問題は、パウロが後でこのコリントの教会にあてた手紙の中にも出てきます。一夫多妻ということが認められている社会の中で、また、みだらな行いをことさらに問題にしない社会に生きていると、そのことはあまり大きな罪としてクローズアップされません。けれども、聖書は旧約の時からこの不道徳のことをしっかりと問題にしているわけです。これは私の想像ですけれども、コリントで起こっているようなことがテサロニケの教会の中に入り込むということを考えて、そういう心配する気持ちからこういう手紙を書いたのではないのかと考えるのです。コリントのようなことが、テサロニケでも行われるということは十分あり得たことです。パウロはここで、このことをことさらに、「ここが信仰の道を踏み外す誘惑となりやすい」ということを指摘しているのです。

 私たちの生きている世界でもそうです。少し前も、最近注目を浴びている政治家の結婚が報じられました。その時に、相手の女性が妊娠しているということが同時に報じられて、なんとなくおめでたいことであるかのような報道がなされるわけです。けれども、もう一方で、そういうテレビなどに出てくる人の性的なスキャンダルが起こると、それはもうひどい叩きようでバッシングするという、私たちは二つの建前がまかり通るような世界に身を置いているわけです。

 4節は新改訳と共同訳の翻訳があまりにも違うので、共同訳をお持ちの方はあまりの違いように驚かれたかもしれません。新共同訳はこうなっています。
「おのおの汚れのない心で尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず」となっています。新改訳2017では「一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち」となっています。これは少し説明が必要なのですが、新改訳が自分の「からだ」と訳している言葉はもともとの言葉は「器」という意味の言葉です。そのあとの「保ち」という言葉は「獲得する」という意味の言葉で、妻を獲得するという意味なのか、それとも自分自身を獲得するという意味ととらえるのかで翻訳がここまで変わってくるのです。新共同訳の新しい方の協会共同訳では「自分の体を聖なるものとして尊く保ちなさい」となっていまして、新改訳に近い翻訳をとったことが分かります。

 私はこの「妻と…」と理解することもとても大事なことだと思います。この誘惑ということは、自分のことだけでなくて、妻をどう見るかということに深くかかわってくるということと、結局は深く結びつくからです。自分の体を聖なるものとして保つためには、妻を自分の体のように愛するということが当然求められるのです。

 そして、パウロはこの5節で、このような情欲におぼれる生き方というのは、神を知らない生き方だとここで警告しているのです。それは、当時の乱れた社会の在り方に対して挑戦するような言葉だったのではないかと私は思うのです。そして、このパウロの言葉は、今の時代の人々にも届くのだろうかと考えさせられるのです。

 祈祷会でこの箇所を学んだ時にも、お話したのですけれども、まだ神学生だった時にどの先生であったか忘れてしまったのですが、こういう性にまつわる罪や誘惑というのは、「私は大丈夫だ」と考えるなとその時言われて、はっとしたことをよく覚えています。自分はこういうことにはかかわらない、私は昔から気を付けているから、自分のようなものは誰も相手にしないからとか、自分は若くないからとか、そういうふうに油断するところから、足を滑らせることになると言われて、はっとしたのです。

 もちろん、若い人にその誘惑が大きいのは間違いのないことです。その意味で、最初にお話したように、若い人ほど、足をすくわれやすいということはあるのかもしれません。けれども、それは若い人に限ったことではないのです。

 パウロはここで、それに対してどうしたらいいのかということを具体的に語っています。新改訳の今度の翻訳は、実はかなりひどい翻訳で、こうなっています。6節の後半です。

主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。

 普通に、読むとそんなことをやっていると罰があたるぞ、神様は罰を当てる方だからと読めてしまうのです。まだ、新改訳2017をすべて見てはいないのですが、今のところですが、ここが一番ひどい翻訳だなと個人的には感じています。今までの新改訳は「主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。」となっていました。

 このことを正しく理解するためにはパウロがここで何を言おうとしているのかということに、まずちゃんと目を向けることです。パウロはこの情欲という誘惑に対処するためには、神が、ご自分の聖さにあずからせるために私たちを救われたということを忘れてはならないと7節でまず語っています。主イエスの聖さが、私たちに与えられるのです。私たちが聖なる者となるというのは、主イエスのようになるということです。そして、神はそのために、私たちに聖霊を与えてくださったと8節で語っています。

 主イエスによって救われるということは、この主イエスの霊をいただくことです。神の聖さをいただいたのです。もし、それなのに、誘惑にまけてしまうなら、それは、聖霊を拒むこと、つまり、神の救いを自ら放棄するようなことなのだと忠告しているのです。

 そうすると、神の救いを拒絶したものは、神の裁きをうけることになるのだということが、その前の6節で言おうとしていたことなのだということが分かってくるわけです。

 つまり、罰があるからがんばって聖さにとどまりなさいと脅しているのではなくて、神に聖であるものとされているのだから、その救いを自ら踏み外すことのないようにと注意をここでしているのだということが分かってくるのです。

 私たちの主は、私たちを聖なる者としてくださるお方です。それは、人には到底なしえないようないばらの道を歩ませることではなくて、私たちの前に備えられた道を喜びながら、主をみつめ、先輩のクリスチャンを見つめながら歩んでいく歩みです。その歩みを、神は喜んでくださるのです。

 確かに、この世界にはさまざまな誘惑があります。道を踏み外してしまいそうになるさまざまなことが私たちの周りにはたくさんあるのかもしれません。けれども、主のお姿を見上げていくこと、自分が見失いそうになるなら、周りのクリスチャンに助けてもらいながら、この道をみんなで歩んでいくのです。その時に、私たちは主が約束してくださっている主イエスのようになるという、一見とてもできないような道を、気づいたらなんとか支えられてきたねと共に喜び合うことができるようになるのです。

 お祈りをいたしましょう。

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