2020 年 1 月 26 日

・説教 創世記17章1-14節「99歳からの新スタート」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:34

2020.01.26

鴨下 直樹

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 毎週、すこしずつですがこうして創世記のみ言葉を聴き続けています。みなさんが、毎週この続きの説教を聞くことを楽しみにしてくださっているといいなと思っています。私は、一週間の間に、創世記のさまざまな翻訳の聖書に目を通し、解説している注解書や説教集を読みます。特に、創世記は優れた内容の本がたくさんありますので、少なくても20~30冊の本に目を通します。そうやって準備をするのは、ここに書かれていることがどういうことなのかをできるかぎり理解したいと願うからです。そうすることによって、神はここで何をなさろうとしておられるのかをつかみ取ることができるわけです。けれども、いつも時間が足りない、もっと知りたい、もっと深く掘り下げたいと願いながら、一週間がすぐに過ぎていってしまいます。

 一方で、アブラハムは前回の箇所の終わりで86歳であったと書かれていまして、ここでは99歳です。この13年の間のことを、聖書は何も記していません。言葉に記すことのできない時間を過ごしているわけです。ハガルから生まれたイシュマエルが跡取りではないと聞かされながら、子どもが日に日に育っていくのを、アブラハムはどんな思いで育てたのでしょうか。13年という時間は、とても長いのです。一週間、この前のところから今日の箇所までをゆるされる時間の中で、できるかぎり理解しようとする努力に比べて、アブラハムがここで味わった理解したいと願いながら、何の答えも、言葉もないそのような13年の重みというのはどんなものなのか、想像する他ありません。

 私たちは、教会でこうして毎週、順に聖書の言葉に聞いていくことができるわけですが、そこから神さまはどういうお方か、信仰に生きるということはどういうことなのかを考えることができます。私たちは、アブラハムはあまり立派ではなかったのではないかとか、もっと他の選択がなかったかとか、好きなことを言えるわけですが、それもこれも、私たちはすべての結末を知っているから言えるだけのことで、実際にその期間を経験したわけでありませんので、アブラハムの本当の苦しみというのは理解し得ないのです。

 1節をお読みします。

さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」

 主はここで、ご自身のことを「わたしは全能の神である」と言われたと書かれています。「エル・シャダイ」という名前です。前回のところで「エル・ロイ」、「見ておられる神」という主なる神様のことが語られています。それと、同じように、ここで主はご自分の方から、自分は「エル・シャダイ」という神であると言われたわけです。

 ここで、この「エル・シャダイ」という神の御名を「全能の神」と訳しております。ところがこの「エル・シャダイ」という言葉の意味ですけれども、この「シャダイ」という言葉はどの本を読んでも意味が分からない言葉だと書かれています。意味が分からない言葉なのに、どうして「全能」なのかと言うと、まだ紀元前の話ですが、ギリシャがへブル語の聖書をギリシャ語に翻訳した70人訳聖書といわれる、旧約聖書の最初のギリシャ語翻訳がなされます。この70人訳ギリシャ語聖書がこの「シャダイ」という言葉を、「全能」と訳したのです。

 ところが、私も自分で調べてみようと思って、70人訳聖書を見てみますと、ここの箇所は「全能」とは書かれていなくて、「あなたの神」と書かれていました。少し前のことですけれども、この70人訳聖書が日本語訳になったものが出版されているのですが、そこでは「おまえの神」と訳されていまして何だかがっかりしました。どうも、すべての「エル・シャダイ」という言葉が、「全能の神」と訳されているわけではないのです。それで、この箇所をそのまま「エル・シャダイ」と表記している聖書もあります。ただ、紀元前の時代にすでにこの「シャダイ」という言葉が「全能」という意味を持つと理解されていたことは事実ですから、その後の聖書には「全能の神」と訳されることが多くなっているわけです。

 意味が明確ではないのですが、ここで、神ご自身がご自分のことを「エル・シャダイ」と語られ、それとともに「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と要求しておられるのです。

 しかし、「わたしの前を歩む」というのはどういうことなのでしょうか。たとえば、創世記ではこれまで信仰の人として語られているエノクだとか、ノアという人物が出てきます。この二人は、聖書を注意深く読んでみますと、エノクは「神とともに歩み」と5章22節で書かれていますし、ノアの場合も「ノアは正しい人で、彼の時代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」と6章9節に書かれています。

 エノクもノアも神と共に歩んだと書かれているのに、アブラハムには「わたしの前を歩み」と書かれているのです。前を歩むといったときに神はどこにいるのかということを考えてみるのですが、神が後ろにいてくださるのか、それとも、神に相対しているのか、どっちなのだろうかと考えてみるのです。ヴェスターマンという聖書学者は「神と差し向った生」という言葉を使いました。フォン・ラートという聖書学者は「エノクやノアの時とは違う前置詞が置かれることによって、神との関係に変化が生じている」と語りました。

 あまり難しい話にならないようにしたいのですが、主を見上げながら歩むということを、ここで主は「全き者」と呼んでおられるということなのだと私は思うのです。星空を見上げることをお求めになられた主なる神は、ここで、わたしを見上げて生きよと語りかけておられるのです。

 アブラハムからしてみれば、13年間も放っておかれ、無視され続けて来た。そんな気持ちだったのかもしれないのですが、それはアブラハムの視点でしかありません。ひょっとすると、アブラハムはその間、主を見上げて生きてはいなかったのではないか。イシュマエルを育てることに夢中になって、あるいは、自分が年をとっていって、自分の状況が日に日に悪くなっていく、そこばかりを見つめながら、後ろ向きな生き方をしてきたのではないか。そんなことも考えられるわけです。

 この主の語りかけは、そういうアブラハムにもう一度私を仰いで生きよ、わたしはエル・シャダイ。「あなたの神」、「全能の神」なのだと語りかけてくださっているのではないでしょうか。

 今日は、本当は17章全部をやるつもりでした。それで、水曜日の聖書の学び会では全部を取り上げて共に学んだのですが、あまりにも内容が多くて、木曜日にはこの14節までにしました。今はこの1節だけでも十分だとさえ思っているほどですが、もう少し先に進みたいと思います。
 主はここでまた契約を結ぶと言われます。これで三度目のことです。契約の内容は、子孫の繁栄と土地の約束です。それはこれまでも変わっています。ここで大きく変わっているのは、2つあります。

 一つは「アブラム」という名前が「アブラハム」に変わったことです。もう一つは割礼です。

 まず、この名前についてですが、「アブラム」という名前ですが「父は高められる」という意味の名前です。学び会の時に、この「父」は誰をさすのだろうかということが議論になりました。子どもに名前を付けるのは父です。そう考えればこの「父」はアブラハムの父テラということになります。父は高められるというのは、「アブラハムのお父さんは偉大な人なんだぞ」という意味になるのではないか。そんな考え方をすることができると思います。

 ところが、聖書の学び会で誰を指すのだろうかという疑問がでたので、いろいろ調べてみたのですが、多くの説明は「高貴な家柄」という意味であるとなっているものがあるのですが、何人かは「この父は神のことを指す」と書いています(ギブソン、リュティ)。旧約聖書で神のことを父と呼ぶところはほとんどありませんから、どの程度その解釈が当てはまるかは何とも言えないのですが、そうであれば「父は尊い」というアブラムは、父なる神をほめたたえる名であるということになります。

 ただ、この後のアブラハムは「多くの者の父」という意味に変えられるとあります。そう考えると、それまでは自分の家族だけを指していた名前が、世界規模の名前に変えられたという意味であると考える方が妥当だと私は思います。

 名前が変わるということは、存在が新しくなるということです。たとえば、結婚するときに女性は名字が変わります。なんだか今、ある国会議員が、「名前が変わるのがいやなら結婚しなければいい」と国会でヤジを飛ばしたとかで問題になっているようで、こういう発言は気を付けなければいけないかもしれせんが、名前が変わるということは、その時に存在が変わるということであることに違いはありません。普通は、名前は変わりません。名字が変わったとしても、名前は変わりません。主がここでアブラムに、アブラハムと名乗るようにと言われたのは99歳の時です。これまでは、一つの家の名前であったものが、今日に至るまでの神の民の父となる。そのような壮大な名前に変えられたのです。

 神は、99歳であったとしても、主によって新しい存在に変わるのだということを、ここで語っておられるのです。

 そして、その新しい存在になるということのしるしとして、「割礼」をするようにと、主はここでお求めになられました。実は、昨日も午前中に家庭訪問をしておりまして、その方のご主人とも一緒にお話をすることができて、とてもよい時間になりました。その時に、葬儀の話をいたしました。その方のご主人はクリスチャンではないのですが、奥さんと同じように葬儀は教会でしてもらいたいという話になりました。それで、ここはチャンスとばかりに、奥さんが、ご主人にイエス様を信じたらいいという話をしました。すると、ご主人が「洗礼を受けると何かメリットがあるのか」という話をなさいました。それで、その方はクリスチャンになるとメリットがたくさんあると一所懸命話しておられました。

 洗礼を受けるということもそうですけれども、私たちは洗礼名がありませんので、名前が変わるということはありませんが、洗礼を受けるということ、主イエスを信じるということは、私たちの存在が新しくなるということです。そこには、実にたくさんのメリットといいますか、祝福があるのです。

 この箇所は洗礼の話ではなくて、割礼の話ですけれども、意味としては非常に似ていますので、そんなことも念頭において聞いてくださるとよいと思います。

 「割礼」というのは、この時、「アブラハムの子孫たちが行っていくように」と神様がお求めになられました。それは男性の性器の包皮を切り落とすという儀式です。それを通して、アブラハムの子孫であることのしるしとしたのです。

12節にこう書かれています。

あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。

 主はアブラハムの子孫だけではなく、その家のしもべも、子孫ではない者でもアブラハムと共に歩む者みなに、割礼を受けるように求められました。そして、この割礼がやがて、神の民イスラエルのしるしとなっていったのです。割礼を受けたときから、その人はアブラハムの子孫としての祝福を受けるのです。アブラハムに与えられた子孫繁栄の約束は、割礼を受けた人のものとなります。約束の土地をえるという約束も、もはやアブラハムだけの約束にとどまらなくなるのです。

 割礼を受けることによって神の子どもとされ、アブラハムの祝福を受け継ぐ者となり、そして、その約束を家族や子どもたちにも引き継いでいくようにしていったのです。そして、神のものであるというこの祝福のしるしは、イスラエルの誇りを支える唯一つのしるしとなっていったのです。

 旧約聖書の終わりには、アブラハムの子孫であるイスラエルはバビロン捕囚を経験します。多くの人々がバビロンに捕らえられていきました。イスラエルの人々は国土を失い、神殿を失い、聖書も失ってしまいますが、割礼だけが残りました。アブラハムの子孫たちはちゃんとこの約束を受け継いでいったのです。そして、それが異教の支配の中にあっても、イスラエル人であるというアイデンティティーを保つことのできる唯一の祝福のしるしとなったのです。

 そして、この祝福は、今では洗礼に形を変えて、私たちにも受け継がれているのです。私は神のものである。神の祝福を約束された者である。この神の約束は、アブラハムと主なる神が契約を結ばれてから、今日に至るまで私たちに確かに与えられ続けている約束に他なりません。
 今、私たちに与えられている洗礼もこれと同じです。そして洗礼は、男だけのものではありません。女も子どもも、すべての人の前に示されている神からの約束のしるしです。

 アブラハムの子孫たちは、この祝福の意味を知っていました。だから、子どもたちに割礼を施してきました。あかちゃんにこんなことさせるのは可哀想だから、やめた方がいい。そんな意見も、何度も何度も出てきたはずです。信仰は親が強制するものではない。そんな意見もどこからか聞こえてきそうな気がします。しかし、イスラエルの人々は自分が受け取った神からの祝福が確かなものであることを知っていましたから、割礼を施すことをやめたりはしませんでした。ここにこそ、祝福があると知っているからです。

 家族に洗礼を勧めることは、私たちにとって難しいことなのでしょうか。子どもに主イエスのことを伝えることは困難なのでしょうか。自分が主から頂いた救いの喜びに確信を持っていただきたいのです。そして、この祝福の意味を知ってほしいのです。そして、この祝福を、ぜひ家族に、子どもたちに分かち合ってほしいのです。自信をもって語ってほしいのです。

 神は、アブラハムが99歳の時に、この新しい人生をお与えになられたのです。それは、もう遅いということはない、ということです。神の祝福はいつでも私たちの前に開かれています。私たちの主は、何度も何度もその御手を差し伸べるのです。

 目の前の自分に迫る状況しか見えなくて、主を見上げることが出来なくなったとしても、主は何度も心を高く上げるように語りかけてくださるのです。

 私たちの主は、「全能の神」です。このことを私たちは信じているのです。「エル・シャダイ」である神は、「あなたの神」なのです。この主を見上げながら、この主に向かって歩んでいくときに、主はその歩みを確かなものとしてくださるのです。

お祈りをいたします。

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