2020 年 2 月 2 日

・説教 創世記17章15-27節「ノー! アブラハム」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:18

2020.02.02

鴨下 直樹

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 みなさんが誰かに話を聞いてもらいたくて一所懸命話をする。ところが、聞いているはずの相手が、鼻で笑っている。そんな場面が私たちの日常でも時折起こるでしょうか。ちゃんと自分の話を聞いてくれていないと思ったとたん、自分が今話した内容が軽く扱われたような気がして空しくなる。悲しくなる。がっかりする。そんな経験をしたことが誰しもあると思います。

 この創世記、17章で主はアブラハムの反応も待たずに、まくし立てるかのように話し続けておられます。アブラハムが多くの国民の父となるという契約を結ぶこと。そのために名前をアブラムからアブラハムに変えること。そして、割礼を施すこと。そこまでが前回の箇所です。主の言葉はそれでとぎれることなく、今度は妻サライの名前もサライからサラに変えるようにと語り続けます。もう、一方的です。99歳になったアブラハムに、神はここぞとばかりに語りかけておられるのです。ここに、主なる神の情熱的なお姿を見ることができます。

 しかも22節を読みますとこう書かれています。

神はアブラハムと語り終えると、彼のもとから上って行かれた。

 えっ? 上って行かれたってことは、下りてこられていたってこと? という疑問符が付きますが、そういうことなのでしょう。神は天から降りてこられていて、アブラハムと顔を合わせて語っておられるのです。それが、どういう姿であったのか、人としての姿をおとりになったのか、御使いのお姿なのか、それとも、光の中から、あるいはモーセの時のように火の中から語りかけられたのかは、書かれていないので分かりません。けれども、この書き方の中に、神のただならぬ情熱のようなものを感じ取ることができます。

 前のめりになって語りかけておられる神。そう表現してもいいと思います。ここで主は満を持して、アブラハムに語っておられるのです。

 一方、アブラハムの方はどうかというと、前回もお話ししました、イシュマエルの出来事の後、13年もの間、何の神からの働きかけもない時間を過ごしています。もっといえば、ハガルとイシュマエルの出来事を通して、アブラハムは神からの直接の働きかけはないわけですから、もっと長い間、あの星空談義の後からここまでの間、アブラハムは神からの御声を聞いたことは書かれておりません。

 忘れたこところに突然現れて、何だかとてもいいことをたくさん話してくれるけれども、こっちの気持ちはどうなのだとアブラハムが思っていたとしても不思議ではありません。

 主なる神が前のめりになっておられるのとは正反対に、アブラハムは引いてしまっています。この主の語りかけのことばをアブラハムは受け止められません。
17節

アブラハムはひれ伏して、笑った。

 ここにそのように記されています。悲しい響きです。アブラハムに一所懸命に語りかけておられる主が、この時どのような思いになられたことでしょうか。神に対してこの態度をとるとは、とても畏れ多いことです。主が、前のめりになって語っておられるのに、アブラハムの心は冷めてしまっているのです。受け止められないのです。笑うしかないのです。

 これが、この17章で描かれているアブラハムの最初の反応です。

 笑いには、いろんな笑いがあります。心がほぐれるような笑いもあります。けれども、人を見下す笑いもあるのです。

 先週、「99歳からの新スタート」という題で説教をしました。神の思いは、そこにあるのです。あなたを新しい存在にする。これまでとは異なる名前を持って生きるように、サラも同様に、新しい名前を与える。サライではなく、サラ。どちらも「王女」という意味の言葉のようです。人によっては「私の王女」という名前が、「王女」という名前に変わったのだと解説する方もあります。もし、そうであれば親の思いを精一杯受けたであろう名前から、その本質を示す名前に変えられたということが出来るのかもしれません。

 神は、アブラハムにも、サラにもここからがいよいよ本当の人生を歩みだす時なのだと語られるのです。主なる神は、この新しい歩み、神の祝福の歩みを押し出そうとしておられるのに、アブラハムはその心をつかみ取ることができないのです。

そして、心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」

 不可能。アブラハムはそう考えました。正気の沙汰ではない。夢物語ですらない。非現実的な話をする神のことを笑ったのです。それくらい、アブラハムは自分の衰え、サラの衰えを見て来たということなのでしょうか。神の語りかけを受け止めることができないほどに、自分の限界を知っていたということなのかもしれません。

 アブラハムは夢想家ではありませんでした。現実主義者です。主を信じる思いはあるのです。主の約束に心ときめかせながら、その約束を長い間待ち望み続けて来たのです。何度も、何度も、信じて来たのです。

 しかし、このタイミングは現実的ではない。今ではない。もう遅い。そして、自分にはイシュマエルがいる。13歳になっている息子がある。サラとの子どもではないけれども、自分の最初の子どもです。かわいくないはずがないのです。生まれるかどうかも分からない子どもに心を寄せるよりも、自分が愛して育てて来たイシュマエルに思いを託したくなるのは当然のことです。

 だから、こう言ったのです。18節。

そして、アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」

 包み隠すことなく、これがアブラハムの思いでした。これで、十分幸せです。アブラハムは今あるもので満足することを知っていた。そういう受け止め方もできるはずなのです。

 そして、私たちは誰もが、このアブラハムに共感できるのだと思うのです。そんなに過大なことを言われても自分としてはどうしようもない。今あるイシュマエルで私は満足していますから、お気遣いなく。これこそが、人としての謙虚さ。潔い生き方。それは、褒められることがあったとしても、間違った考えではないはずなのです。

 それに対する、主の反応はこうです。19節。

神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」

 神は、アブラハムに言われたのは「No!」です。「ノー!」それは違うと、主は言われるのです。「ノー!アブラハム。それは、謙虚さなどではない」。「ノー!アブラハム。自分の限界を、自分で決めてはならない」。「ノー アブラハム。そうではない。わたしの計画を聞け!」と主は言われるのです。

 「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ」。イシュマエルではない。妻のサラから。そして、サラから生まれるのは男の子であると。

 私たちはこう思うのです。こういう大事なことはもっと早く言っておいてほしいと。なんで、神様はいつも小出しにしか、情報を出さないのだと。75歳の時は、「私が示す地へ行きなさい」(12章1節)と言い、ロトと別れた時になって「あなたが見渡しているこの地をすべて」(13章15節)を与えると言われる。そして、その時になって「あなたの子孫に永久に与える」(13章15節)と、子孫の約束を与えられても、子どもが与えられる様子もないので、自分の財産をしもべに与えようと思っていると、「あなた自身から生まれ出てくる者が」(15章4節)受け継ぐと言われる。それならばと、女奴隷のハガルから子どもを設け、ハガルと神さまは何か会話をしたらしいのだけれども、その時もアブラハムには神からの語りかけもありません。そして、13歳まできてアブラハムが、ハガルの子イシュマエルを跡取りにと思っていると、ここでは「いや、あなたの妻サラが」(17章19節)と言われるのです。

 このように、これまでを振り返ってみると、いつも神様の語りかけは、遅いのです。しかも、いつも少しずつしか教えてくれない。もういい加減にしてほしい、もう笑うしかない。もう99歳なんですよ。いい加減にしてください。年寄りをいじめて何が楽しいのですか。そう思えるのです。全能の神だと言われるのであれば、もっと他の方法があるはずだと、私たちには思えるのです。

 しかし、なのです。主はアブラハムがそう考えるであろうことは百も承知で「いや」と言われるのです。「ノー」と言われるのです。今から、あなたは新しい存在になる。そのしるしにあなたに新しい名前を与え新しい存在にする。そして、割礼を受けさせる。そして、ここからが、わたしが行う御業なのだと。この時まであなたはわたしの言葉を信じるべきなのだと主は言われるのです。神は、徹頭徹尾、私たちのイメージできるものを超えておられるのです。人には想像し得えないことを行われるお方なのです。

 主は、アブラハムに言われるのです。

「あなたはその子をイサクと名づけなさい。」

19節です。
 あろうことか、その名前の意味は「彼は笑う」という名前なのです。そんなパンチの聞いた名前はありません。アブラハムにしてみれば嫌味以外のなにものでもない名前です。自分の子どもの名前を呼ぶたびに、「イサク、イサク」と呼ぶたびに、「彼は笑った」と呼ばなければならない。何の罰ゲームなのかと言いたくなるところです。けれども、神はまさに、そこでも、アブラハムの思いを超えておられるのです。

 「イサク、イサク」と呼ぶたびに、わたしの笑いは、今本当の笑いとなったということに気づかされるようになるのです。

 主を信じて生きるということは、こういうことなのです。私たちの主は、私たちの思いをはるかに超えたところから、私たちの救いの生活を思い描いておられるのです。それは、想像しえない喜びがあるのです。しかし、自分の思いにこだわり続けるならば、この神の計画は見えてこないのです。だから、主は言われるのです。「ノー!アブラハム!」と。私たちにも語りかけられるのです。「ノー! いや違うのだ」と。

 「ノー!あなたが考えているようにではないのだ!」と主は言われるのです。わたしには、あなたのために思い描いたわたしの計画がある。それは、受け止められない、信じることのできない、苦笑いしかできないあなたが、本当の笑いを知るようになるほどの計画なのだと、主は言われるのです。

 ここまで言われてアブラハムは、どうしたのでしょうか。アブラハムは、この主の語りかけに耳を傾けました。受け入れたのです。
26節、「アブラハムとイシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。」とあります。アブラハムが立派な信仰者だったのではありません。神が、アブラハムをそのような信仰者に育てたのです。目の前のことしか見えない男に、自分の想像の及ぶ範囲でしか物事が見えないアブラハムに、神は信じて従う決断を引き起こさせられたのです。

 これが、アブラハムの主、私たちの信じるべきお方、主なる神なのです。

お祈りをいたします。

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