2020 年 3 月 8 日

・説教 創世記20章1-18節「アブラハム再び・・・」

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2020.03.08

鴨下 直樹

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 今日の説教題を「アブラハム再び・・・」としました。「・・・」の中に何を入れるか、色々な想像力が働くかもしれません。「アブラハム再び、ブラックアブラハムに」。そんなタイトルにしてもよかったのかもしれません。私が好きな映画で、スターウォーズというのが、ありますが、そのイメージ言えば「ダークサイドに堕ちたアブラハム」という言い方もできるかもしれません。ちょっとマンガのような描写ですが、この創世記は、ホワイトアブラハムとブラックアブラハムという、良いイメージと悪いイメージが交互に登場してくるような書き方をわざとしているのではないかと感じるほどです。

 と言いますのは、この20章で、アブラハムが12章で犯した失敗をもう一度このタイミングで犯してしまうというのは、少し考えにくいのです。18章に出てくるのはホワイトアブラハムですが、ロトとソドムの人々の救いを求めて祈る美しい信仰者の姿です。そして、その際に、主とお会いしながら、来年の今ごろサラから子どもが生まれるというお告げを、アブラハムにも、サラにも受けているということが書かれているのです。ひょっとすると、サラのお腹は大きくなっていたのでないかという想像すらできる、そんなタイミングで、自分の妻であるサラをカナンの君主であるアビメレクに嫁がせたというのです。

 サラはこの時90歳ということになります。もちろん90歳でも美しい方もあると思います。アビメレクの好みがそういう女性であったということもあるかもしれません。けれども、一般的にはこのタイミングは考えにくいわけです。1節にアブラハムたちが「ゲラルに寄留していたとき」とあります。このゲラルという町は、ここではカナン人と書かれていますが、後のペリシテ人と呼ばれる民族の首都となった町です。そういう町の王ですから、アブラハムが恐れを覚えたとしても理解はできます。しかし、時間的な順序としては少し考えにくいタイミングです。

 ただ、そういうタイミングであえてこの出来事をここに置いているわけですから、そこには聖書の意図があるはずなのです。そして、その意図というが、ここを読み進めていくと見えてくるようになります。

 まず、ここから見えてくるのは、アブラハムの弱さです。かつて12章でエジプトに赴いた時に、自らのいのちを守る決断として、妻のサラを妹ということにしたのです。そのときアブラハムは75歳ですから、このタイミングでいえばそれから25年たっていることになります。そういう長い間、主と共に歩んできたのにも関わらず、アブラハムの主への信頼が少しも深まっていないかのような印象を受けるのです。自分の身は自分で守らなければならないというアブラハムの姿勢がここでも明らかになっているのです。

 これは、私たちも経験のあることでしょう。自分の弱さというのは、時間がたってもなかなか乗り越えることができないことを、私たちは誰もが経験しているのではないでしょうか。

 お金に弱い、異性に弱い、自己防衛本能が強い、色々な弱さが私たちにはあります。つい陰口を言ってしまう。自分の方が力がある、上だと示したくなる。挙げればきりがありませんが、人にはそういう弱さがあるのです。アブラハムの弱さは、美しい妻でした。妻が美しすぎるために、自分のいのちが狙われるかもしれないという恐怖をいつも持っていたということになります。それが、妻が90歳になってもなおそうであったということになるのだとすれば、一方で妻は嬉しかったのかもしれません。けれども、それは同時にアビメレクに引き渡されてしまった時点で、そのアブラハムの思いは結局自分が可愛いだけのことではないかということにもなるわけです。

 ここにきて、まだアブラハムの中には乗り越えられていない弱さが存在していることを、聖書はこうして描き出しているのです。

 一面ではとても立派な信仰者として行動することのできる頼もしいアブラハムの姿が確かにあります。他の人のために必死で祈ることもできます。星空の下で主の声に耳を傾ける信仰の人アブラハムの姿は確かに存在するのです。

 けれども同時に、結婚している妻を妹と言い、それを隠れ蓑にしながら自分は助かりたいという姿がある。あるいは子どもが与えられないからといって、主の約束を信頼しないで自分なりの方法で行動したり、ヒステリーになる妻を恐れて、お前の好きにしたらいいではないかと言ってしまうような、弱く、人間的な姿もあるのです。どちらもアブラハムの姿です。

 ブラックなアブラハムも、ホワイトなアブラハムもどちらもアブラハムであることに変わりはないのです。そして、それが信仰者のリアルな姿であるということを、他の誰でもない私たちがよく理解しているのです。

 さて、ところがです。この20章は書き方が少しおかしいのです。アビメレクがサラを召し入れたその夜のことです。主は、アブラハムにではなく、アビメレクに夢で現れます。

「見よ。あなたは、自分が召し入れた女のために死ぬことになる。あの女は夫のある身だ。」

と3節にあります。

 アビメレクは神から夢の中ではありますが、いきなりの死刑宣告を受けるのです。裁かれているのは、アブラハムではなく、アビメレクの方なのです。そして、いきなり被告人アビメレクに神は唐突に死刑宣告を下しているのです。

 そして、ここから、夢の中でアビメレクと神との対話が始まります。4節。

アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかった。そこで彼は言った。「主よ、あなたは正しい国民さえも殺されるのですか。」

 興味深いことにこの言葉は、アブラハムがソドムのためにとりなした言葉です。けれどもここでは、アブラハムの方がアビメレクを神のさばきへ追いやっている側になっていることが、皮肉のように記されているのです。

 アビメレクは、自分は潔白であると主の前に告げます。自分は知らない。アブラハムがサラのことを妹と言ったからで、アブラハムの問題であったとしても、自分の問題ではないはずだとアビメレクは訴えます。

 確かに、ここを読めば誰もがアビメレクに同情するのです。アビメレクの言い分は正しいと思うのです。本来、悪いのはアブラハムの方なのに、ここで神はアビメレクを裁こうとしておられるのです。これはどういうことなのでしょうか。なぜ、神はアブラハムではなく、アビメレクに罪を問われるのでしょうか。

 実は、このことは聖書の考え方の重要な部分を示しています。以前、聖書の学び会で「レビ記」を学びました。レビ記というのは、神の戒めが記されているところです。どうしても、レビ記を読むと、難しいという印象を持ってしまって敬遠しがちですが、こういう箇所には神のルールがちゃんと書かれていますから、聖書を正しく理解するためにはとても重要です。

 レビ記には4章に「気づかずに罪に陥ってしまった」時のことが出てきます。主に、「汚れ」にまつわる箇所ですが、ここでは気づかずに犯した罪についても、神の御前で犠牲をささげて神との関係を修復することが必要であるということが記されています。新改訳では「罪のきよめのささげ物」と呼ばれるささげものです。そして、この「知らずに犯した罪」のために、イスラエルの民は毎年一度、必ずこのためにイスラエルの民全体で悔い改めをする「贖罪の日」という日がもうけられていました。これは、レビ記の23章に書かれていますが、今度の新改訳2017では「宥めの日」という翻訳に変わりました。「贖罪」という言葉が、違う意味で理解されてしまうので、翻訳を変えたのですが、今度の協会共同訳では「贖いの日」と訳されています。私はこの翻訳が一番いいと思いますが、ここでイスラエルの民は、一年に一度、知らないで犯した罪も含めて、主の前で罪が赦されるための「聖なる会合」を持つことが記されています。

 私たちは、罪というのは自分が自覚しているものだけを指しているとつい理解してしまいます。けれども、自分が気づいていようが、気づいていなかろうが、罪は罪として神は見ておられるわけです。ですから、ここでアビメレクが、自分は身に覚えがないことで、潔白だと言ったところで、サラがアブラハムの妻であるという事実がなくなるわけではない、ということがここで問題とされているわけです。

 ここで主がアビメレクに問いかけておられるのは、本人に自覚がなければ神は罪を問わないということにはならないということです。本人に罪の自覚がなくても、本人が知らないで犯した罪であったとしても、神はそのことを見ておられるのです。そして、ここで神はその罪を犯すのか、改めるのかとアビメレクに問いかけておられるのです。そして、神は、アビメレクにアブラハムの妻サラをアブラハムに返すなら、いのちを得ることになると言われ、まだ悔い改めの余地が残されていることを告げておられます。

 しかも、この7節で神はこのように言われました。

「今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう」

と。

 神はここで、アブラハムのことを「あの人は預言者である」と言われています。「あの人はクリスチャンだがどうしようもない人だ」と言われたのではないのです。ここでの「預言者」というのは、後の時代に出てくる油注がれた者を示す聖三職、つまり「預言者、王、祭司」という意味での「預言者」の意味とは少し異なっていると思われます。あくまでも、「わたしのしもべ」というようなニュアンスが強いのだと思います。

 けれども、神はここでアブラハムのことを信仰的に未成熟な者と見ているのではなく、「預言者」、「わたしのことばに生きている者」と見なしていてくださっているというのです。ここに、慰めがあります。

 アブラハムのような信仰の父と呼ばれる人であっても、聖書はその人となりを等身大に描き出しています。それは、決して理想的な信仰者像ではなく、弱い部分や失敗を繰り返す罪人としてのアブラハムの姿です。しかし、神はそのような弱さを持ったままのアブラハム、未だに、このタイミングですら自分の妻を妹と言ってしまうようなアブラハムのことを、一人の「預言者」として見なしてくださっているというのです。

 それは、不完全な罪びとのクリスチャンである私たちにとって、どれほど大きな慰めなのでしょう。

 ここでアビメレクはアブラハムの前で猛然と抗議をします。「あなたは、してはならないことを私にしたのだ」という9節も、10節でもう一度繰り返される「あなたはなぜ、こんなことをしたのか」との問いかけも、まったくもって正当な申し出です。

 11節以降で、アブラハムが言い訳を繰り返しますが、もはや、アブラハムの言い訳には何の力強さもありませんし、説得力もありません。
 11節。

アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに私を殺すと思ったのです。」

 自分の防衛本能が問題なのに、相手が悪いのだという主張をくりかえし、12節では「本当に妹なのだ」という主張を繰り返すだけなのです。

 それに対して、アビメレクはどうしたかというと、14節以降で、そんなアブラハムにサラを返し、それだけでなく、沢山の財産を与え、好きな土地に住んでよいという権限も与えています。こうして、アブラハムのもとには、また思いもよらない富が与えられるのでした。

 どう見ても、アビメレクの方がほれぼれするような立派な人物で、アブラハムの姿はここではかすんで見えます。この20章は徹底して、アブラハムを貶めているかのようにさえ思えてきます。このように、聖書はアブラハムにではなく、アブラハムを憐れまれる主なる神に目を向けさせているのです。すべては神の憐れみであり、神の恵みなのです。そして、この姿こそが福音そのものなのです。

 アブラハムの得た富は、自分の力で得たものではありませんでした。エジプトの時も、このアビメレクの時もそうです。きっとアブラハムは自分の得た財産を見るたびに、神の憐れみと恵みのゆえに自分はすべての富を得たのだということに目が向けられたに違いないのです。

 そして、この物語の最後はアブラハムの祈りで結ばれています。

そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒されたので、彼らは再び子を産むようになった。

と17節にあります。

 主が7節でアビメレクに語られたように、アブラハムの祈りが不可欠であったのです。アブラハムは罪びとです。聖人でもなんでもありません。けれども、そのようなアブラハムの祈りを通して、神は神の祝福をこの世界にもたらせておられるのです。

 そして、私たちはこのアブラハムの子孫とされているのです。私たちも、良い部分と悪い部分があります。「本当にあの人は教会に行っているのだろうか。あの人がクリスチャンなんて信じられない」と私たちの周りからは言われているのかもしれません。クリスチャンであっても、性格の悪さはあるかもしれませんし、私たちよりも人格的に優れている人が、巷にはごまんといるのかもしれません。けれども、なのです。

 主を信じ、神の民とされている者は、その人の弱さや醜さがあったとしても、主はそのような罪びとをご自分の民とされるのです。そして、私たちの祈りをこの世界は必要としているのです。

 今、私たちは本当に連日、この新型コロナウィルスのために社会が機能を失いつつあるさまを見せられています。そのような世界の中にあって、私たちのような者に何ができるのだろうかと、私たち自身の無力さを痛感させられています。けれども、アブラハムがアビメレクたちのために祈ったように、私たちも今、祈るときなのではないでしょうか。この世界が混乱から抜け出すことができるように。罪びとの祈りであったとしても、その祈りを祝福に変えることのできるお方を私たちは信じているのです。この憐れみ深い主に、私たちは祈りながら、この世界に平穏が訪れることを祈り求めていきたいのです。

お祈りをいたします。

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