2020 年 4 月 5 日

・説教 創世記22章1-24節「主に試みられる時」

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2020.04.05

鴨下 直樹

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 今日は少しいつもと様子が違います。新型コロナウィルスのためにほとんどの教会の方々は自宅で映像や音声や説教原稿をみながら礼拝を行っていただいています。岐阜県では当面の間、不要不急の外出自粛要請が出されました。いつも教会堂に集いながら礼拝をしておられるので、戸惑いもあるかもしれません。それぞれの場所でともに主を見上げてまいりましょう。

 今日は「棕櫚の主日」と呼ばれる主の日です。そして、今週から受難週を迎えます。主イエスが十字架の苦しみを受けるこの一週間を私たちは過ごそうとしています。私たちは、このレントの期間、文字通り苦しみを心に留めて過ごしてまいりました。新型コロナウィルスに感染した人の数は世界では96万人を超え、世界の半数にあたる人々が今、外出を制限されています。そして、それはこの岐阜市にもやってきました。そのため、今日はみなさんに自宅で礼拝をしていただいて、インターネットを用いて礼拝をしていただくようにお願いしています。とても残念なことですけれども、仕方がありません。この世界が今まさに試練を受けていると言っていい状況にあります。

 今日、私たちに与えられているみ言葉はまさに、この「試練」の物語です。

これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。

と今日のみ言葉は始まっています。1節です。

 「試練」と聞くと、私たちは「幸せ」の反対にあるものという理解がどこかであります。幸せを壊すものが試練であると考えるのです。確かに、試練にはそのような性質があると言えます。

 地震や津波のような自然災害、あるいは今回のようなはやり病、伝染病といったものは自然災害などと言われます。私たちはこのような試練を経験する時に、まさに信仰が問われている思いになります。そのような試練がやってくると私たちはどこかで神が、私たちから平和を奪ってしまったような、何か神に見捨てられているような思いになるのではないでしょうか。

 アブラハムのことを考えてみたいと思います。アブラハムは今や、約束の子どもが与えられ、ペリシテからの脅威もなくなり、井戸のあるベエル・シェバの土地で平穏な暮らしをすることができるようになりました。それは、まるで絵にかいたような幸せなひと時であったに違いありませんでした。

「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。」と1節に書かれています。

「試練」によって、アブラハムに訪れていた平和が、幸せが打ち破られた。しかも、神によって、この出来事は起こったと、ここに書かれているのです。主なる神はアブラハムに語りかけます。2節です。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

 その日は突然やってきました。幸せをかみしめていたであろうアブラハムに、主なる神は突然、難題を突き付けたのです。しかも、その試練とは、アブラハムが100歳になってようやく与えられた約束の子である息子イサクを、全焼のささげものとして献げなさいという命令です。

 先に生まれた女奴隷ハガルの子イシュマエルは追放してしまっています。そんな中で、あろうことか、約束の子であるイサクまで献げるようにとの命令なのです。これはどういうことなのでしょうか。考えてみれば、神のこれまでの語りかけと、この命令とは矛盾しています。もし、イサクを殺してしまえば神の約束それ自体が無効となってしまうのです。しかも、息子を全焼のいけにえとして殺してしまうということも、理解できることではありません。この神からの要求、これこそが、ここでアブラハムに問われていることでした。

 私たちはどこかでこう考えます。信仰によって幸福感が得られ、不信仰に陥ると不幸になって、試練が訪れるのだと。しかし、それは本当なのでしょうか。私たちは、この受難週を迎えているこの時、神が与えておられる試練の意味をもう一度考えるように促されています。そして、今、世界が抱えている新型コロナウィルスの蔓延という試練が、信仰にとってどういう意味を持つのかということを考えさせられているのです。

 この受難週に起こった出来事のことを、私たちはよく知っています。父なる神は愛するひとり子である主イエスをこの世に送り、私たちを贖うために、犠牲のささげものとしてくださいました。それは、まさにアブラハムがここで経験した試練を、神ご自身が経験されたことであることを私たちは知るのです。

 それは、神にとってまさに悲しい決断であったに違いないのです。そして、主イエスもまた、この神の思いに応えられてこの試練を引き受けてくださいました。

 そうであるとすると、私たちは信仰に生きるということは幸せになること、不信仰のゆえに試練を経験するのだという考え方は一度脇においておかなければならないのだということに気づかされます。

 この試練はまさに、神ご自身がアブラハムに与えられた試練であって、アブラハムの日ごろの行いが悪かったためでもなく、アブラハムに何かを改めさせるたり、気づかせるためではありませんでした。

 アブラハムがここで問われているのは、少し複雑ですが、実は、神の約束をとるのか、それとも神ご自身を取るのかという選択であることが分かります。というのは、もしアブラハムが神からの約束を取るのであれば、イサクは献げないという選択をすることになります。その場合、私は主の約束を信頼したのだという理由は、理由として成立すると思います。しかし、もしここでアブラハムに問われているのは、その約束をも超えて、神ご自身を信頼するのかということが、ここでアブラハムに要求されているのです。それがここで明らかになっているのです。

 主がここで求めておられるのは、自分の子どもも、自分の判断や決断も、すべてまとめて神に明け渡して、神の言葉に従うということです。これは、まさに人間の心の中にある小さな願い、願望、自分がすがりたいと思う希望さえも神に明け渡すのだという完全な服従を神がここで求めておられるということを意味しています。信仰とは、私たちの願いがかなえられるためにあるのではなく、神の御心が行われるためであるという、どこか遠いところにあるスローガンのような言葉が、今その本当の意味を問いかけているのです。

 私たちは、主イエスのゲツセマネの祈りを知っています。主イエスもまた捕らえられる直前、最後の晩餐の後、オリーブ山に出かけて行って祈られた時に、そのことが問われていました。神の願いは主イエスが人々に渡されて、殺されることにありました。他の選択肢もあるはずではないか。神ならば、もっと他の方法も可能なのではないか。いろいろな思いが頭に浮かんだと思います。けれども、主イエスは苦しみ抜きながら、この祈りで得た結論は「わたしが望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」(マルコ14:36)という祈りであったのです。

 まさに、この時、神はアブラハムに、主イエスよりも2000年も先立って、同じ祈りの結論に到達することをお求めになられたのです。

 そして、聖書はこの創世記22章でアブラハムの迷いのない信仰者としての姿を伝えているのです。主から命じられた翌朝早く、アブラハムは旅立ちます。これはアブラハムがこの神の命令にすぐ従おうとしたことの現れです。ロバに鞍をつけイサクを連れてモリヤの地に向かい、全焼のささげ物のために薪を割り、三日の旅の後に目的地に到着するまでの間、アブラハムの苦闘や葛藤は少しも描き出されてはいません。

 そして、7節で、はじめての息子イサクの言葉が記されています。

イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」

8節には続けてこう記されています。

アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。

 ここを見ると、アブラハムには迷いはありません。完全に神にすべてをゆだねた信仰の人としての姿が描き出されています。それは、これまで何度も何度も、弱いアブラハムとして描かれていた人物とは思えないほどの、信仰の姿を見ることができます。

 いつも、子どもが寝る前に一緒に本を読み、最後にディボーションの本を読んでお祈りしています。その時に用いているのは、以前みなさんにも紹介したサリー・ロイド・ジョーンズの『神様とともに歩むための101のヒント』という本です。先日読んだところは、鳥の話が記されていました。ワシの話です。

 ワシは子どもに飛び方を教えるためにそれまでいた巣から追い出してしまうのだそうです。子どもは落っこちながら一生懸命に羽ばたきます。そして強くなっていくのだそうです。親は何度も何度も子どもを翼で受け止めると、また上に戻してやる。そうやってついに飛べるようになるというのです。そして、子どもは飛べるようになって気づきます。「ぼくは飛ぶために生まれて来たんだ!」と。

 その話を読みながら、このアブラハムに神がなさったこともそうではなかったのかということを思い返していました。アブラハムは何度も何度も過ちを繰り返しながら、少しずつ成長していきます。そして、イサクが大きくなるまで待って、アブラハムに教えようとしておられる。「私は主を信じるために生まれたんだ!」と。それこそがこの試練の本当の意味なのだということが、まさにここで問われているのです。

 アブラハムが子どもに聞かれた時、アブラハムは「わが子よ。神ご自身が、全焼のささげものの羊を備えてくださるのだ。」と答えた時、アブラハムは本当にそのように信じていたのではなかったのかと考えさせられるのです。それほどにアブラハムの中に迷いがないのです。

 アブラハムは祭壇を整え、薪を並べて、息子イサクを縛ります。そして、10節にこうあります。「アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」と。

 アブラハムは徹底して主の言葉に従います。イサクはどんな思いだっただろうかと心配にさえなります。今であれば、児童虐待で捕まえられてしまうような話です。もちろん、それは今でなくても大問題です。しかし、アブラハムは主の言われるままに、主に服従したのです。
 11節をお読みします。

そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」

 ここに自分の存在を神に託した信仰の人の答えが記されています。「はい、ここにおります。」このアブラハムの言葉の重みを私たちはこの御言葉をとおして知るのです。

 「はい、ここにおります。」 主よ、私はここにおります。 あなたからの試練から逃げ出すことなく、いまここに私はたっています。薪をならべ、息子を縛り、その息子をほふるために刃物を取って息子に手をのばしている私が、いまここにおります。あなたの言うことに、完全に聞き従うことを知った私がいま、ここにいるのです。

 アブラハムのこの言葉の中には傲慢な響きはありません。自己陶酔するような言葉でもなければ、主を責めるような言葉でもありません。ただ、神と私というその間に何もいれない、神と対峙している信仰者アブラハムがいるだけなのです。

御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」

 この主の御使いの言葉をアブラハムが聞いた時、アブラハムは自分が信じたことの答え合わせをすることができました。私が信じたお方は、私が信頼し、私を生かして下さり、イサクを与えてくださった主は、確かに真実なお方であったということを、改めて知ることになったのです。

 自分の思いではない、神の思いに生きる。これこそがここで神がアブラハムにお求めになられたことでした。それは、幸福感を得るための信仰ではなく、信じるがゆえに得ることのできる幸福なのだということが明らかにされた一瞬でもあったのです。神が与えてくださる幸せは、私たちの状況に左右されるものではないのです。試練の中にあっても、失われることのない確かさ。「わたしはここにおります」と言うことのできる確かさを、私たちは持つことができるようにされているのです。

 それは、逃げ出さないこと。自分の描く幸せに捕らわれないこと。神が与えてくださるみ恵みを求めるのではなく、主ご自身を求めること。そこに、私たちの信仰はあるのです。そして、この信仰は十字架の主イエスによって、私たちはいよいよはっきりと知ることになるのです。

 先ほどお読みしたヘブル人への手紙第11章17-19節でこのことをこう言い表しました。

信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。

 へブル人の手紙の著者は、アブラハムは神がイサクを死者の中からよみがえらせることもできると信じたのだと書いています。そのようにしか読めないほどの信仰をこのアブラハムの中から見出したのです。これこそが、試練の中にある信仰の姿なのだということなのです。

 アブラハムが目を上げて見ると、主は一匹の羊を備えておられます。一匹の雄羊が角を藪にひっかけているのが目に留まります。アブラハムが信じたことが、ここでまさに出来事となっています。そして、この羊をアブラハムは全焼のささげ物として主に献げます。アブラハムは、その場所を「アドナイ・イルエ」と名づけます。「主の山には備えがある」という意味です。

 アブラハムが試練を受けた時、そこにあるのは息子のイサクを奪われてしまうということしか目の前には見えていません。しかし、主の山には備えがあるのです。主の山がどんなところなのか、そこではどんな備えがあるのか、それはその時には見えてはいません。しかし、私たちには見えているものがあります。それは、私たちの主のお姿です。私たちを愛し、私たちに最も良いものを備えてくださるお方。このお方のことを私たちは知っています。

 この主は、「アドナイ・イルエ」と呼ばれるお方です。私たちにはまだ見えていなくてもいいのです。けれども、その先に、神が確かなものを備えておられるのです。

 この先、日本の中に何人の感染者が出るのか、世界中でどれほどの感染者が出てしまうのか、誰が病におかされてしまうのか、誰がこの試練を味わうことになるのか。私たちには、目の前に差し迫る恐怖しか見えません。仕事はあるのか。子どもは大丈夫か。これから大きな自分の人生の大きな修正を強いられることになるのか。私たちは、そういう自分から何が奪われてしまうのか、そのことしか見えなくなってしまいます。

 けれども、私たちに主はこの試練を通して、語りかけておられるのです。あなたは自分のもっとも大切なものを私に差し出す覚悟があるのかと。そのことを、心に留めるのがこの受難週です。そして、そのとき、私たちは心を高く上げ、主を見上げて言うのです。
「主の山には備えがある」と。

お祈りをいたします。

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