2020 年 6 月 7 日

・説教 ローマ人への手紙2章11節「えこひいき?」

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2020.06.07

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

「神にはえこひいきがないからです。」

 今日の聖書にはそのように書かれています。「えこひいき」という言葉は、私たちにいろんな連想をさせます。

 以前、ドイツにおりました時に、平日の「ユングシャー」と呼ばれる子ども集会のお手伝いをしておりました。ドイツの学校はほぼ午前中で終わります。学校が終わってから、塾にいくという習慣もありませんから、子どもたちは午後のびのび生活しています。それで、教会では平日に子どもたちを集めまして、子どもの集会を持つのですが、その多くの時間ゲームをして過ごします。ゲームといってもビデオゲームではなくて、体を使ってする様々なゲームです。

 そのゲームをしていた時に、ひとりのスタッフが、小さな子どもや、あまりそのゲームが得意ではない子どもに対して、少しルールを緩めて、沢山点数がとれるようにしてやったのです。すると、それを見ていた子どもたちが一斉に「アンフェアー!」と叫び出しました。

 私はその姿をみながら、ああこういう時は「アンフェアー」と言うんだと言葉を覚えて喜んでいたのですが、子どもたちの顔は真剣そのものです。そして、日本の子どもならなんて言うんだろうと想像してみたのです。岐阜の方言なら「ずるやげー」とか「ずりーげー」とか言うのかもしれません。あるいは「ひいきやん」、「えこひいき」と言うのかもしれません。

 「フェアーではない」という言葉と「えこひいき」という言葉のニュアンスは少し違うようにも感じます。
私の持っている国語辞典で意味を調べてみると、「えこひいき」は、「自分の気にいった者だけの肩をもつこと」と書かれていました。「アンフェアー」というのは「不公平」ということです。意味は似ていますが、えこひいきという場合には判断する側の主観に強調点が置かれている感じがします。

 このパウロの手紙の「神にはえこひいきがないからです」という言葉は、神が裁きをするときの態度のことを指して言っている言葉です。つまり、この箇所のテーマは「神の裁き」です。そして、神が裁きをなさるときには、神の主観で、人をえり好みしたりはしないのだということが、ここで言われているということになります。

 考えようによっては当たり前のことなのかもしれません。神が人を裁くときに、同じ基準で判断しないとしたら、それこそ、「アンフェアー」と叫びたくなります、けれども、パウロはここで、神はそんなことをしない。公平に裁くのだと言っているのです。

 問題は、パウロはここで人を裁く場合のことを語っているのですが、私たちが人を裁くときには、どういう視点で裁きをしているのかということです。

 先日、この聖書箇所を調べるためにいくつかの本を読んでおりましたら、ある本にこんな文章が載っておりました。

以前、ある評論家が、子供の親に勧めていることがありました。
一日でいいから、自分と子供の会話を全部録音してごらんなさい。そして、一人でゆっくり録音を再生して自分の言葉を数えてごらんなさい。あなたが裁判官のように、子供に何回の判決を申し渡したか、朝起きてから寝るまでに、あなたの子供は何回被告席に座らされ、何回有罪判決を下されているか、子供の立場に身をおいて聞いてごらんなさい。その教育評論家は、更にこう問うのです。裁判官は判決を言うだけ、でもあなたは、それ以上の刑罰を子供に課していないか。

 私はこの文書を目にして、もう自分の心が痛んで痛んでしょうがないのです。本当に、一日録音した方がいいかもしれないなどと思わされます。親が子どもを叱る場合、他の方はどうか分かりませんけれども、問答無用で一方的に裁いてしまうということをしてしまいがちなのです。子どもにそうであるということは、他の人に対してもそうすることがあるわけです。 

 私たちが人を裁いてしまう場合のことを考えてみますと、子どもにするときもそうですけれども、自分が正しいという立場に身を置いて、人を裁きます。自分のもっている常識や、価値基準というものが、判断するときの材料になります。けれども、一方的に悪者にされてしまう側にも、それなりの道筋があるはずなのです。ということは、本当に人を裁くためには、その人に寄り添って、その人がどういう信念を持っていて、どういう判断をして物事を考えているのかということに、思いを馳せることがどうしても必要になるはずなのです。

 自分の恥ずかしい話のついでに言いますと、私は神学生の頃、教団の青年の仲間たちからあるニックネームを付けられました。それは「裁き主」というあだ名です。まったく褒められたものではありません。人からそう言われてしまうわけですから、所かまわず人を批判していたのです。そういう人間が牧師をやっていていいのかという事なのかもしれません。20年かかって少しずつ変えられて来つつあると思っていますが、あまりにも不名誉なことです。

 ちょっと神学校で学んで聖書の知識を身に付けると、とたんに調子にのってしまうのです。このように、自分に自信がつくということは、人を裁くということに結びつきやすくなります。そのことを私たちは肝に銘じておく必要があるのだと思うのです。

 パウロはなぜ、ここでこんな話をしているかというと、当時ユダヤ人のキリスト者たちは聖書の律法をできる限りちゃんと守って生きていたということが背景にあります。そういうちゃんとしている人から見ると、異邦人であるギリシャ人の生き方が生ぬるく見えてしまうわけです。パウロはもともとそちら側の人間でしたから、その精神構造がよく分かるわけです。

 自分たちは神の民であるユダヤ人で律法もちゃんと守って生きて来た。だから、そういう自分たちには神様からの特別なお目こぼしがあるのは当然だけれども、聖書も神の律法も何にも知らないで生きて来たギリシャ人は、これまでちゃんと生きてこなかったのだから、自分たちよりも、当然厳しい目にさらされるはずだと考えたわけです。

 理屈としては筋が通っている気もします。けれども、それは、自分が正しいという、正義の側に立つ人のものの見方でしかありません。

 パウロは4節でこう言っています。

「神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」

 ここでパウロは「神のいつくしみ深さ」を語っています。これは、新共同訳聖書では「神の憐れみ」と訳されていましたが、今度の協会共同訳では新改訳と同じで「慈しみ」と訳しました。もともとのギリシャ語は「クレーストス」という言葉です。「善」とか、「良い」と訳されることもある言葉です。

 4節の後半にも「豊かないつくしみ」という言葉がありますが、これも「クレストテース」という言葉で、「いつくしみ」という言葉から派生した言葉です。なんだか、「キリスト」という言葉を連想させるのですが、この言葉の中に、キリストの性質が込められています。

 ある人はこの言葉は「親が子どもの心を何とか目覚めさせようとする心」と説明しました。神の慈しみというのは、人間が回心することを期待しつつ、忍耐と寛容をもって見ていてくださるということです。すぐに、ジャッジするわけではないのです。いつくしみというのは、そういう言葉です。まさに、「親が子どもの心を何とか目覚めさせようとする心」を持って見つめてくださるのです。

 主イエスのことを考えてみると、このことはよく分かるのです。主イエスは罪人の友となられたお方でした。取税人や遊女と言われた人たちに寄り添って、一緒に食事をすることを大事なことと考えられたのです。この人はダメな人だとバッサリ切り捨てるのではなく、その人のところに行って、寄り添って、その人を理解しようとなさる。それが主イエスというお方です。そこには、キリストの「いつくしみのまなざし」が注がれているのです。

 北海道に北海道家庭学校という施設があります。私はこの学校のことを、説教の学びをするなかでもっとも大きな影響を受けた加藤常昭先生の説教を通して知りました。もう20年以上前のことです。そのころは、谷昌恒さんがこの北海道家庭学校の校長を務めておりました。この頃はいわゆる非行少年と言われる問題が大きかったころで、この学校は少年教護院と呼ばれる施設でした。学校で問題を起こしてしまう少年少女を更生させるための施設です。今、この学校は非行少年が減少していることもあって、学校に来る子どもたちの性質もずいぶん、そのころとは変わっているようです。今は教護院という言い方でなく、児童自立支援施設という言い方に変わっているようです。

 谷先生のころにこの学校が出していました「ひとむれ」という機関紙が書籍化されておりましたので、私はよく読んでおりました。そこには、学校側と非行少年たちとのやり取りがよく取り上げられていました。この北海道家庭学校は、従来の少年院のようではなく、門はいつも開かれております。そのために、当時は生徒が学校を抜け出して、問題行動を起してしまうという事件が何度となくあったようです。けれども、この学校は森の真ん中に礼拝堂があって、それで子どもたちと一緒に礼拝をしながら、キリスト教の愛を伝えるという理念で行われていました。そのころのものを読みますと、よく分かるのですが、まさに、主イエスが町の人々から罪びと扱いされている人、悪者のレッテルを貼られている人に寄り添いながら、共に生きたように、この学校でも、問題行動を起こしてしまう子どもたちを信頼し、愛して、一緒に生きることを通して、もう一度愛に触れて生きることが出来る機会を持てる学校となっていました。愛されることを知ることで、人は変わることができると信じたのです。

 谷昌恒さんの言葉にこんな言葉があります。
「少年たちは過去の出来事を忘れようとしている。乗り越えようとしている。その心を一体だれがほじくりかえして、決めつけた目でみようとするのか。」と。
 そして、こうも言うのです。
「少年を全面的に受け入れて奥深く胸の中に抱きとめることが大切」なのだと。

 それこそ、主のいつくしみの眼差しで、「親が子どもの心を何とか目覚めさせようとする心」で接して来たのです。

 私たちにとって必要なのは、このようなまなざしが注がれていることを知ることです。そして、主イエスは誰をも、裁く目ではなく、受け止める目で見ていてくださるのです。すぐに善悪で判断して相手を裁いてしまうのではなく、この主のいつくしみの眼差しは、人を信じ、受け止め、その人を愛するまなざしなのです。大事なのは、この主イエスのまなざしを知ること。人に寄り添って共に生きてくださるいつくしみ深い主イエスと出会うことです。この慈しみに触れる時に、人は変わることができるのです。

 4節にあるように「神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導く」のです。必要なことは、人を裁く心で見ることではなく、人をいつくしみの眼差しで見ることです。

 なぜなら、「神にはえこひいきがないからです。」

 この「神にはえこひいきがないからです」は、教会共同訳聖書では「神は人を分け隔てなさいません。」と訳しました。新改訳が「えこひいき」と訳した言葉を「分け隔てしない」と訳しました。同じ眼差しでご覧になるということです。

 今、アメリカでも人種差別のことが大きく取り上げられています。歴史を変える出来事になるかもしれないと言われています。この出来事からも考えさせられるのですが、私たちはいろいろな色眼鏡で人のことを見てしまうことがあるのです。それは、人種差別だけのことではないのです。能力によって、あるいは経済格差によって、あるいは病気によってこういうことは起こり続けています。そして、私たちは誰もが、そのような目で人を見てしまうことがあるのです。そして、そのとき、私たちは人を見下してしまっています。

 けれども、主イエスは人を分け隔てしないのです。また、えこひいきもしないのです。この主のいつくしみのまなざしは、いつも私たちに注がれています。そして、私たちが変わることを期待して、待っておられるのです。

 宗教改革者ルターは、この11節の解説として「神は誰ひとりとして軽蔑され、非難され、捨てられることを望まない」と語りました。「誰ひとり」です。神が望んでいないのに、私たちは人を軽蔑し、非難し、捨ててしまおうとする。けれども、どんな人にも、大切な人生があります。人が軽んじることのできない大切なものがあるのです。そして、主イエスはだから、そういう人を愛のまなざしで、いつくしみのまなざしで見つめ続けておられるのです。

 大正時代に生きたキリスト者の詩人で八木重吉という人がおります。この人の詩のなかに、こういう詩があります。


あるときは
神はやさしいまなざしにみえて
わたしを わたしの わがままのまんま
だきかかえてくれそうに かんぜらるるけれど
また ときとしては
もっと もっときびしい方のようにおもわれてくる
どうしても わたしを ころそうとなさるように おもえて
かなしくて かなしくて たえられなくなる

 
 私たちへのいつくしみのまなざし。それは、私たちを受け止めてくれる愛のまなざしです。けれども、私たちが正しいことをしていないとき、そのまなざしは私たちを苦しめることにもなるというのです。八木重吉は、キリストのまなざしにはそういう両面があることを知っていました。

 けれども、隠れていたいと思う。見てほしくないと思う。それは、自分に注がれているまなざしを、自分が裏切ってしまった時に起こることです。だから、パウロはここでそういうまなざしを知ることが、人を悔い改めに導くことになるのだと言っているのです。

 受け止めてくれるまなざしがあるから、人は変わることができるのです。攻撃されてばかりでは、意地になってしまうばかりなのです。主イエスは、心の柔らかなお方です。そして、忍耐と寛容を誰よりも知っておられるお方なのです。
 この主のまなざしこそが、私たちをつくり変えるのです。

「神にはえこひいきがないからです。」

 私たちに心向け、私たちのことを正しく知りたいと思っておられる神の前に生きる時、私たちもまた、人を心から愛するまなざしをもって、人を見つめる者と変えられていくのです。

 お祈りをいたします。

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