2020 年 6 月 21 日

・説教 ローマ人への手紙1章16節「私は福音を恥としない!」

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2020.06.21

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

「私は福音を恥としません。」

 パウロはここで「私は福音を恥ずかしいとは思わない」と語っています。どうも、ローマの教会の人々の中に福音を恥とするということが、あったのでしょう。だから、パウロはこう語る必要がありました。それはどういうことかと言うと、主イエスはローマの手で十字架にかけられた男だ。そんな十字架刑にかけられるような犯罪者のことを信じているのかという声があったということです。

 今日の箇所の少し前の14節からこの16節までを読んでみます。

 私はギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

 パウロは、ローマに住んでいるギリシア人に手紙を書き、このローマの人たちに福音を伝えたいと願っていました。ところが、ローマの人は、ローマ人ではない他の人たちのことを全部ひとくくりに「未開人」と呼んでいたようです。未だ開拓されていない地の人というわけですから、完全に上から目線です。もっとも、そう言えるほどの栄華がローマにはあったのです。

 そんな華やかな都に憧れて、世界中から人が集まってきます。珍しいものが運び込まれてきます。ローマにいれば、それだけで世界を知ることができたわけです。そのローマの人たちに、主イエス・キリストを語ろうとするときに、ポンテオ・ピラトによって十字架につけられたユダヤ人の話にが、ローマ人の心を惹きつける魅力がどのくらいあったのかということは、想像するよりありません。

 この頃、パウロはまだローマを訪れてはいませんでしたが、ローマにすでに教会が出来ていたようですから、各地でキリスト者になった人々がローマに福音を届け、ローマの中にも主イエスを信じる人の集まりが出来ていたようです。それは、とてもすごいことですが、パウロはさらに多くの人に福音を届けたいと願ったのは当然のことでしょう。けれども、最初から主イエスの十字架の話をすると、それ以上聞く必要はない、そんな恥ずかしい人物の話になど聞く耳を持たないといった人がいたのは、想像に難くありません。

 そして、教会の人々もまた、そのような主イエスの福音をローマの人々に語ることに恥ずかしさがあったのかもしれません。それは、ローマの人たちであれば経験的にもよく分かるのです。それは、私たちでも、同じことが言えるかもしれません。

 先日、教会でこの説教に先立ちまして、聖書の学び会で、この箇所を一緒に読みました。その時に、福音そのものを恥とは思わないけれども、福音にふさわしい生き方ができていない自分を恥じるという思いがあると、多くの方が口をそろえて言われました。それは、私たちが誰もが抱く思いであるかもしれません。

 聖書が語ることは素晴らしい、神の恵みも本当に素晴らしい内容だと思う。けれども、それを人に語ろうとするときに、「じゃあ、あなたはその福音にふさわしい生き方ができているのですか?」と問われると、自分はその福音にふさわしい生き方はできていないと、自分を恥じる思いというのが出てくるのです。

 ただ、私たちはそこでこそ、この福音を知らなければなりません。私たちを救われる神は、そのような私たちを恥と思われることはないお方なのです。自分で自分がいかに至らないかはよく分かります。自分が罪人であること、なかなか人を愛することができない、人を赦すことができない、そういう葛藤は信仰に生きるようになればなるほど、自分を恥じる思いというのは強くなるばかりなのです。けれども、私たちの神は、そのような私たちのために、愛する御子イエス・キリストを与えてくださいました。それは、神が私たちのことを愛しておられるからです。神が私たちのことを信じてくださっているからです。

 つまり、福音というのは、この真の真実な神が、自分で自分を恥じてしまうような者でさえ、希望を抱き続け、信じ、愛を注いでくださるということなのです。神からの信仰と、希望と愛は、何よりも私たちに注がれているのです。これが福音です。

 そして、パウロはこの福音のことを、「信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」と言い表しました

 「救い」とは何でしょう。「救い」というのは、滅びの状態から救い出されるということです。死から命へ移されるということです。絶体絶命のピンチの状態から救い出されることです。

 みなさんは、おぼれるという経験をしたことがあるでしょうか。私は、まだ神学生の時に、川でおぼれて死にそうになったことがあります。それは、根尾のキャンプ場でのことです。当時の神学生は根尾クリスチャン山荘で行われるキャンプのグランドワーカーをするということが決められていました。当時は40日の夏休みの間の30日ほどは、この根尾のキャンプ場で色々な教団のキャンプや教会のキャンプが行われていました。そして、このキャンプのためにワーカーと呼ばれる奉仕者たちは、キャンプ場に寝泊まりします。私はグランドワーカーでした。キャンパーのための食材の買い出しをし、部屋の布団やシーツの管理、キャンプファイヤーやバーベキューの準備、ふろの掃除や、外回りの掃除、やることはどれだけでもありました。

 ところが、お昼の食事がおわってから二日に一度2、3時間の休憩の時間がありました。その時間になりますと、ワーカーたちは喜んで川に泳ぎに行きます。私はもともと泳ぐのが得意ではありませんので、川で遊ぶのはあまり興味はなかったのですが、他にやることがありませんから、仕方なく、川遊びをします。

 ある時、大雨が降りました。根尾川の水は普段は透き通る綺麗な水でも、雨の翌日はコーヒー牛乳のような色に変わり、穏やかな流れが、濁流になります。それでも、ワーカーたちは川に遊びに行きます。ほかにやることがないのです。私も、そのときも川に行きました。そして、そのとき、頭の中に、ある天才的なアイデアが浮かんできました。この濁流の中を泳いだら、まるで水泳選手のように速く泳げるのではないか。そう考えたのです。一度、その天才的なひらめきが起こりますと、もうわくわくして仕方がないのです。後は、川に飛び込むだけです。泳ぎに自信のない私は、ほんの少し岸辺の近くで泳いで、すぐに戻ってくれば大丈夫だと思いました。そして、恐る恐る、そのコーヒー牛乳のような色をした川に入ったのです。

 水に入ると、すぐに、物凄い速さで泳ぐことが出来ました。これまで経験したことのない速さです。その速さに興奮したのは、時間にして多分1秒もないと思います。すぐに、その川の流れは渦を巻き、あっというまに、その渦の中に巻き込まれてしまいました。川辺では、他のワーカーたちが見ています。何とか、水面に一度顔を上げた私は、誰かが飛び込んで助けにきてくれることを期待しました。そこには、泳ぎが得意なある牧師もいたのです。でも、誰も来てはくれませんでした。あっという間に流されて、どんどん下流の方に流されてしまいます。

 私はそのとき死を覚悟しました。もう水を飲みこんでしまって、どうすることもできなかったのです。ところが、そのとき、またもや、天才的なひらめきが頭に浮かんできました。背泳ぎをすれば、飲み込んだ水を吐き出すことができるということを、思い出したのです。これは、小学生の時にあまりにも泳げない私を見かねた母が数か月私をスイミングスクールに入れた時におそわったことでした。もっとも、泳ぐことが嫌いでしたので、わずか2、3か月でやめてしまいました。でも、このおぼれた時は、この時に聞いた知恵が役立ったのです。私は、コーヒー牛乳のような色をしたすごい流れの川を、背泳ぎになりながら、何とか水を吐き出して、下流で上がることができて、何とか死なずに済んだのでした。

 おぼれた話が、説教の半分くらいになりそうな勢いですが、言いたいのは、救いというのは、そのような絶体絶命のピンチの時に、誰かが手を差し伸べてくれて、そのおぼれてもがいている状態から助け出されることです。つまり、助かりたいともがいている者でなければ、救いを経験することができないのです。残念なことに、すべてがうまく進んでいて、順風満帆のときに、人は救いを求めることはしないのです。

 けれども、圧倒的な水に飲み込まれて、呼吸もできないほどの困難な状況に陥っている者にしてみれば、まさに救いは、のどから手が出るほどに欲するものです。そして、救いの神には、このような状況に不本意ながら陥ってしまった者の、手をつかみ、そこから引き揚げて、救い出すことのできる力があるのです。そして、これこそが、福音なのです。

 なぜ、自分はあの日、あの川に入ろうと思ったのか。泳ぎも得意ではないのに、なぜ、そんな見栄を張ろうとしたのか。考えれば、自分を恥じることばかりです。救いが必要な者には、そもそも、恥も、へったくれもないのです。その人にあるのは、そんな自分のプライドとかよりも、救われたいという思いしかないのです。そして、この救いを経験した者は、この救いの神の、このおぼれているところから引き揚げることのできる神の力というものは、喜びそのもの、誇りそのものでしかないのです。

 信仰とは、自分が手を伸ばせば得られるものではありません。手をのばしてくださるのは、自分ではなく、神の側からだからです。つまり、信仰は私たちがどう信じるかではなくて、神の方で、私たちのことを救いたいと決められる神の意志、神の思い、神の真実にかかっているのです。

 それで、今度の新改訳聖書は、この信仰という言葉に注を入れることにしました。続く、17節にこう書かれています。

福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 この17節の信仰という言葉の注に「真実」と書かれています。この「信仰」という言葉、ギリシャ語でピスティスという言葉は、長い間、間違ったニュアンスで受け止められてきました。「信仰」というのは、私たちがどう信じるか、つまり「信心」というような意味でほとんど理解されて来たのです。ところが、この信仰というのは、私たちがどう信じたではなくて、まず神からの行為です。神の意志がなければ人は救われないのです。それで、このことを表すために、新改訳聖書は「神の真実」という意味なのだと言うことを、欄外の注で補っているのです。

 「信仰に始まり信仰に進ませる」は、神からの真実によってはじまって、人を信仰に進ませるという意味です。

 パウロは、語ります。「私は、福音を恥としません」と。濁流の中でおぼれていた者にとって、福音は真実な神からの力によって救い出していただいたという、力強い神の働きそのものなのです。キリストの十字架は、復活の足掛かりです。キリストの十字架は、恥ずかしい不名誉な出来事なのではなくて、私を死の支配から救いだした記念碑なのです。そして、そこから新しく生きる者と変えられるきっかけとなったのです。十字架には、神の私たちに対する愛と、私を信じてくださった神の信仰、真実と、私に期待してくださる希望が込められているのです。

 私たちは、自分自身を恥じることがあっても、それは何の問題もありません。私たちはそのような者なのですから。しかし、福音は、福音の主は、私たちの誇りそのものです。私たちは、パウロと同じように、今、この世界で、私たちの生きているこのおぼれてしまいそうな、この世界の中にあって、神からの救いを経験するのです。そして、この救いを思い起こすとき、私たちもまた、パウロと同じように、こう言うことができるのです。
「私は福音を恥としません」と。

お祈りをいたします。

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