2020 年 7 月 5 日

・説教 ローマ人への手紙10章9-11節「主の救い」

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2020.07.05

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 あまり気づいていなかったのですが、どうも私はこれまで何度かこの箇所から説教をしているようです。それはいつも洗礼式の時の聖書箇所として、ここを選んでいるからです。それには、理由があります。きっと何度もお話をしているのだと思いますが、この箇所は私自身が、洗礼を受ける決断をした時に与えられた聖書箇所なのです。

 私のことを話して恐縮ですが、私は牧師家庭に生まれました。父は大衆伝道者としていろいろな教会で説教をすることがあったために、子どもの頃から遊園地には行ったことがほとんどありませんが、伝道集会にはよく連れられて行きました。

 実は、このコロナの自粛期間中、子どもの頃や若い時に聞いた説教者たちの本を集めまして、あの頃どうしてその説教を喜んで聞くことができたのか、思い起こすことができました。私が子どもや学生だった当時、伝道集会やキャンプに参加しますと、いつも「救いの証し」という、その人がどのように信仰に導かれたのかを証しするという習慣がありました。そこで私は、いろんな人の証しを聞くうちに、証しにはひとつのパターンがあることが分かって来ました。どうも、聞いているとみんな、洗礼を受ける前まではひどく罪深い生活をしていて、教会に行って、説教を聞き、福音を受け入れると、人生が180度変わったという証しを誰もがすることが分かってきたわけです。

 そういう話を、子どもの頃から何度も何度も聞いているうちに、私は「ああ、クリスチャンになるためには、一度悪いことをする人にならないといけないのか」と考えるようになっていました。ですから、子どもの頃や、学生の頃というのは、クリスチャンホームで育った私は、自分の中にある罪ということがよく分かりませんでしたので、自分はまだ当分の間クリスチャンにはなれないのだ、まだ自分は洗礼を受けるのにふさわしくないのだと考えるようになっていたのです。そして私は、いつの間にか、クリスチャンになる日がある時、ビックウェーブのように突然訪れるのだと考えるようになっていったのです。

 ところがです。当時中学二年生だった私は、夜寝る前になると父がやって来まして聖書を読んで祈るという、家庭礼拝の習慣がありました。今時、中学生までそんなことをする親はいないのではないかと思います。その家庭礼拝の中で、父はその日に限って、かなりしつこくいろいろな箇所の聖書を開いて話し始めたのです。子どもながらに、今日はしつこいなと思ったのですが、その時、突然ビックウェーブが訪れたわけです。

 その時、父が読んだたくさんの聖書箇所の一つが、このローマ人への手紙10章と9節と10節です。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 この御言葉を聞いた時に、「あれ?」と思ったのです。
「イエスを主と告白する」
「うん、大丈夫。」
「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」
「うん、信じている。そんだけ?それなら信じてる」
そう思ったのです。それで、「お父さん、僕イエス様のこと信じてるよ」と話したのです。不思議に泣いていました。

 いつの間にか、クリスチャンになるというのは、ちゃんと聖書を全部読んでからとか、もっとふさわしくなってからとか、罪を犯してそれを赦してもらいたいと思うようになってからとか、そういうものが、条件であるかのように考えこんでしまっていたのです。
 けれども、ここにはそんなことは何にも書かれていません。

「イエスは主である」。私にとって、私のとても大切なかけがえのない方として、そして、主イエスは十字架で私たちのために死なれ、私たちを新しくするためによみがえられたお方なのだということを信じることができる。そのことを告白することができる。それが信仰なのだということが、私はこの時に分かったのです。

 もちろん、それはクリスチャンホームで育った人と、聖書をそれまで聞いたことのない人とでは、まったく違う反応になるということは当然です。「イエスは、主である」と告白する。主イエスの十字架の意味や、復活を信じるということは簡単なことではないはずです。みなが、簡単に信じることができるのなら、教会にはもっとたくさんの人が来ているのだと思います。このことがすっと心の中に入ってくるというのは、子どもの頃からクリスチャンホームで育った者の特権です。私たちの教会では残念ながら幼児洗礼はしていません。そういう歴史のない教会です。けれども、クリスチャンホームで育って、子どもの頃から神様と出会って生きているということは、神からの祝福であり、子どもたちはすでに神さまの契約の子どもです。神様のことを信じる者となるように育てられてくるというのは、クリスチャンホームの子どもの祝福なのです。

 ですから、自分はだめだと思う必要はないのです。まだふさわしくないと考える必要もありません。この御言葉に、アーメンと言えるかどうか。そのことを信じることができるか、そのことが大切なのです。

 さて、そこでもう一つ大事なことがあります。「あなたは救われるからです。」とここに書かれています。この肝心な「救い」とはいったい何を意味しているのでしょう。

 というのは、人によって求めている「救い」は異なります。先日の説教でお話しした、私がおぼれた時の話を覚えておられると思います。

 おぼれている人にとっての救いは、自らが水の中から引き上げられることです。お金に困っている人は、お金が与えられることでしょう。悩みを持っている人は、悩みが解決することです。そのように自然に考えてしまいます。つまり、私たちが救いを必要するとき、そこで求めているというのは、自分本位なものです。そして、多くの人がつまずいてしまうのは、この「救い」の分かりにくさから来るものです。

 悩みを抱えて、聖書に、あるいは神様に救いを求めて教会に足を運ぶ人は少なくありません。以前、ある教会で自分の息子さんを交通事故で亡くしてしまった方が、教会にみえるようになりました。けれども、教会に来て、聖書の話を聞いても、亡くした息子さんが生き返ることはありません。この方は20年ほど教会に集われて、今はクリスチャンになっています。それは本当にうれしいことです。

 けれども、それぞれの求めていることが叶うことが救いであるとすれば、大変なことになってしまいます。お金がない人が教会に来るようになったらお金持ちになるというような単純なことでもないでしょう。ただ、自分の悩みや、病気というようなことであれば神さまであれば何とかしてくれるのではないかと、期待する心が生じるのも当然のことなのかもしれません。

 人にはいろいろな思い煩いがあります。そういう中で神様に何かを期待し、聖書に書かれていることに期待して教会に集い、礼拝をささげ、説教を聞く中で、だんだんと、救いというのは自分の願っているようになるということではないということに、気づくようになっていきます。むしろ、神様の願っているように、私たちが変えられていくということが救いなのだという事が分かってくるのです。

 私が教えております、名古屋の東海聖書神学塾で長い間塾長をされておりました、河野勇一先生が、少し前に『わかるとかわる!《神のかたち》の福音』という本を出されました。この河野先生は、神学塾で組織神学を教えてくださる先生なのですが、この授業で教えてくださっている内容を、分かりやすく書いたものです。

 私自身も、この先生から神学を学びましたので、非常に大きな影響を受けているのですが、「救い」と言っても、聖書には3つの概念があるといいます。関係概念と、実体概念と、目的概念です。少し難しく感じてしまうかもしれませんが、少しだけ説明したいと思います。

 関係概念というのは、神様と私たち、また周りの人との関係です。私たちは罪の結果として、神様との関係を失ってしまい、人間関係を築くことに困難を覚えます。この神との断絶や疎外感というのが、罪のために起こった結果です。けれども、主イエスは、私たちとの関係を回復するために、犠牲の小羊となってくださいました。それが、十字架の一つの意味です。主イエスの犠牲によって、私たちは義とされ、神と和解することができ、人との関係を回復するようにと、隣人を愛するように求められています。これが、関係概念です。

 実体概念というのは、いのちのことです。罪を犯した人間は、滅び、死といった罪の結果を招いてしまいました。けれども、主イエスは私たちに永遠のいのちを与えるために、私たちに代わって死なれ、よみがえってくださいました。この主イエスの贖いによって、私たちは永遠のいのちを受ける者とされました。これが、実体概念でいう救いです。

 目的概念は、罪の結果として人は人生の意味を失い虚無感に支配され、周りの人と比較しながら生きるというような曲がった生き方をするようになってしまいました。けれども、主イエスは神のしもべとして、神の御心に従順に歩まれたように、私たちも、主イエスのように、神を愛し、隣人を愛する者となるように求められています。そうして、私たちは自分が何のために生きるようにされているのかを知り、神の国を相続する者となるようにされているのです。

 もっと詳しく知りたい方は、ぜひこの本を読んでくださればと思います。聖書はこのように、救いを三つの側面で語っています。そのことは、ルカの福音書の15章に記されている3つのたとえ話で、主イエスは分かりやすく語ってくださいました。

 はじめの話は、100匹の羊の中から迷い出てしまった一匹の羊を見つけ出す羊飼いの話です。これは実体概念の話です。群れから外れ、羊飼いの守りのない小羊は、まさに滅びの危険、死の状態に置かれていましたが、羊飼いが見つけ出したことで、まさに、このいのちの危険から救い出されました。

 その次の10枚の銀貨をもっていた女の人は、そのうちの一枚の銀貨をなくしてしまいます。銀貨にはいのちはありません。そこにあるのは、価値です。お金は失われてしまえばただの金属の塊です。そして、その失われた銀貨を女の人が見つけたという話を主イエスはなさいました。つまり、人間の価値は、その価値を知るものによって使ってもらえる時に、その本来の価値が回復されるのだという、これは目的概念を説明するたとえ話です。

 そして、放蕩息子として知られる、失われた息子のたとえ話が続きます。ある父親のもとに、二人の息子がいて、そのうちの一人が財産の生前分与を願い出て、それをもって旅に出て、すべての財産を使い果たしてしまうという話です。無一文になった時に、父親のもとに帰ることを選び取り、父親は喜んで迎え入れてくれるという話です。これも、本来のあるべき関係を失ってしまうと、それは破滅の道に陥ってしまうけれども、父親が息子を許し、関係を回復するときに和解し、もう一度その人のあるべき生活を取り戻すことができるという話です。そして、父のもとにいた兄もまた、父と一緒に暮らしていても、その関係の意味を理解していないという意味で、あるべき関係を失ってしまっているということを教えているわけです。

 このように、聖書は救いを、神との関係の回復、永遠のいのちを得ること、そして、自分の価値と使命を知ることこそが、救いなのだということを物語っています。そして、罪というのは、神とのあるべき関係を知らず、滅びに向かい、自分の生きている意味を知らないで生きていること、これが人間の罪、人間の悲惨な姿なのだということを聖書は語っています。

 もちろん、私たちはそれぞれに救いを必要とするさまざまな困難があります。けれども、聖書はそのような困難の根本的な原因に目を向けさせようとしています。

 私たちは、私たちが望むようになることが救いであると思い込んでしまいます。けれども、神は、私たちが喜んで、そして安心して生きられるようになることを願っておられます。そして、それを救いと呼んでいるのです。

 今日は、洗礼入会式が行われます。それは、十字架にかけられ、よみがえられたイエスこそが、私の主であることを告白することです。そして、主イエスは私たちを喜んで生きることができる者として、新しくつくり変えてくださるという希望を持つ者にされた喜びをともに祝う時です。

 まだつたない信仰です。完全な者になったわけでもないのです。けれども、神は、私たちを主イエスのような者へと、神を愛し、隣人を愛する者へと造りかえてくださいます。そして、私たち一人一人に使命を与えておられ、これからいつも、この主にある教会の一人一人と共に、この交わりに加えられるのです。

 それは、先に信仰を与えられ、主の教会に加えられたみなさん一人一人も同じです。主は、不完全な者であっても、聖霊によって新しくしてくださり、私たちは共に支え合い、励まし合いながら、キリストのような者へと成長させられていくのです。

 お互いのために、そして、今日教会の交わりに加えられる者のために、共に祈ってまいりましょう。

 お祈りをいたします。

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