2020 年 7 月 26 日

・説教 創世記26章17-25節「いのちを支える神」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:16

2020.07.26

鴨下 直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
※今週からライブ配信の時間およびアカウント(ライブチャンネル)が変更になっております。ご注意ください。


 
 創世記26章は、イサクの生涯の物語が短く記されています。そして、今日の箇所は前回の箇所の続きの部分です。

 前回、あまり注意深く話しませんでしたが、12節にこのように書かれています。

イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。

 「イサクはその地に種を蒔いた」のです。飢饉の時です。しかも、父アブラハムは遊牧民でしたから、農夫のようなことはしていませんでした。飢饉のときに、ペリシテの地に主に命じられるまま滞在して、そこで、それまでの羊や牛を飼う、酪農の仕事に加えて、種を蒔いて、農業までやりはじめたと書かれているのです。

 これは、イサクの生きることへの逞しさが描かれていると言えます。そして、これが、イサクなのです。父と同じではないということです。

 立派な父を持つ子どもというのは、父の背中を追い続けているだけではなくて、そこに自分なりの挑戦もする。聖書というのは、そのことを、特別なドラマのようなナレーションは入れていませんが、しっかりと書き記しています。そして、こういう発見をすることが、聖書を読む、面白さでもあります。

 そして、12節の続きの部分では「百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。」と書かれています。イサクは、イサクなりの生き方をして、神の祝福を経験するのです。ここに、主がイサクの生き方を喜んで受け入れておられる姿を見ることができます。

 しかし、聖書はそのような、イサクの成功だけを描いているのではなくて、そんな中でイサクが経験したことにも目を向けています。

 14節と15節にはこう書かれています。

彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。

 ここに、「ペリシテ人は彼をねたんだ」と書かれています。主の祝福は、すべてのことがうまく行くようになったということではなかったようです。確かに、収入の面では目を見張る成果があったのです。しかし、生活のしやすさという視点でみると、イサクは決して、その地で生活しやすかったということではなかったようです。

 というのは、その周りに生活している人々は、神の思いとは関係なく生きているからです。人は、それぞれに意志があります。イサクの周りの人々は、イサクのことを喜んで受け入れてくれるという可能性もあったのでしょうが、実際にはそうはなりませんでした。目の前で成功している人を見ると、どうしても自分と比較するという心が、人の心の中には存在します。そして、そんな中で、人の醜さが出てきてしまうのです。

 問題は、そうなった時にどうするかということです。いろいろな考え方があると思います。徹底的に戦って、自分の意志を貫くということもできたでしょう。あるいは、別の形で仕返しをするという選択もあります。お金を渡して、解決するという方法もあります。

 イサクはそこでどうしたのか、それが、今日の17節からのところです。

「イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。」と17節にあります。このイサクの選択をみなさんがどう思われるか、そこにも、みなさんの考え方が反映すると思いますが、イサクは嫌がらせされている土地を去るという選択をしました。そこにイサクの意外性が描かれていると私は思うのです。

 しかもです。移動した場所で井戸を掘りあてると、またそこにゲラルの人があらわれて、「この水はわれわれのものだ」と言って、争いが起こったと書かれています。そして、どうも、読んでみると、そんなことが二度もあったようで、三度目にようやく、争いもなく、井戸を使うことができるようになったようです。

 この腰の低さと言いましょうか。争わない姿勢が、イサクの選んだ決断だったのです。弱腰と言う事もできるのかもしれません。もっと勇ましい選択もあり得たと思います。しかし、イサクのこの選択は、自分たちのことだけを考えるという考え方ではなくて、自分たちが掘り当てた井戸を、すぐにゆずることができるゆとりを持っていたということです。そして、このイサクの在り方こそ、神の望まれる考え方だったのではないかと思うのです。

 その後、23節から25節にこう書かれています。

彼はそこからベエル・シェバに上った。
主はその夜、彼に現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
イサクはそこに祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。

 主はこのようにしてベエル・シェバに移って来たイサクに、もう一度子孫繁栄の約束を語られます。

 主は信実なお方です。主はイサクに対して、誠実に、信実に向かい合ってくださるお方です。聖書は、最近になって、信仰と訳してきた言葉を、信仰と訳したり、信実と訳すようになってきました。それは、信仰というのは、人間が神を信頼する姿だけではなくて、神が人間に信実をしめしてくださるという、両方向の動きがあることを翻訳で表そうとしているからです。

 イサクの信仰は、井戸を奪われても、奪われても、神が支えてくださるという信頼に生きる信仰でした。そして、それに対して、神もまたイサクに信実に尽くしてくださるさまをこうして描いているのです。

 そして、イサクはここでこの信実な主に対して、祭壇を築いて「主の御名を呼び求めた」のでした。実は、イサクが祭壇を築いて礼拝をしたと書かれているのは、このところだけです。何度奪われても、奪われ続けても、イサク一族のいのちを支えてくださる主に礼拝をしたいと思ったというのです。

 多くの場合、こうはならないのではないでしょうか。つらい思いを経験しているなかで、主からの声を聞きます。そんな時、いままでたまり溜まった怒りの矛先を、神様に向けようとするのではないのでしょうか。イサクはそうしなかったのです。イサクはそういう中で主の御名を呼び求めて、祭壇を築き礼拝をささげたのです。

 イサクも、イサクのしもべたちも、何度も何度も自分たちが掘った井戸を奪われたら面白くなかったに違いないのです。はらわたが煮え返るような思いをしたと思うのです。それでも、怒りに身を任せることをしないで、また別の場所に移動して、井戸を掘る。そんなことを繰り返すのは、つらかったに違いないのです。けれども、イサクは、何度も奪われても、主はいのちを支えてくださるはずだと信じて、新しい地に移り、井戸を掘り続けたのです。そして、信実な主は、そのイサクを、イサクが信じたように支えてくださったのです。イサクはそこに目を向けることを知っていたのです。

 イサクは謙虚に生きることを知っていた人です。人と争わないで生きることが出来た人です。そして、これがイサクの生き方であり、イサクの信仰なのです。

 そして、聖書はそのイサクがどうなったのかをこの後のところで報告しているのです。ペリシテの王アビメレクが軍団の長ピコルを連れて、盟約を結びたいと言ってきたというのです。アビメレクは16節で、「出て行ってほしい」とイサクに言ったのです。しかも、その後、アビメレクの命令ではなかったと思うのですが、アビメレクの民は、何度も何度もイサクの井戸を奪い続けたのです。けれども、何度も嫌がらせをしてもたくましく生き続け、繁栄する姿を見たアビメレクは、このイサクの姿勢と、イサクを守られる主の力強さを認めざるを得なかったのです。

 イサクにしてみれば、「何をいまさら」との思いがあったでしょうか。イサクがここで、文句を言ったということも書かれてはいません。書かれているのは、33節で「イサクはその井戸を『シブア』と呼んだ」ということだけです。七は「ベエル」です。かつて創世記21章で、アブラハムはペリシテのアビメレクに七匹の雌の子羊を送って、七の「誓い」という意味でベエル・シェバと呼ばれるようになったと記されていたのですが、ここでは七つの井戸「ベエル・シブア」から、「ベエル・シェバ」と呼ばれるようになったのだと、父の時代の呼び名がイサクによって新しい意味に更新されたのだと記されています。父の歴史を、子どもが塗り替えていった出来事となったとここで説明されているわけです。

 「親の苦労、子知らず」ということわざがありますが。「子の苦労もまた、親しらず」です。人は、それぞれに自分で自分の問題と向き合い、自分で新しく神と出会っていく必要があります。

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主」という言葉がこの後から出てきます。確かに、主は変わることのないお方です。その都度、その都度、生きて働かれるのが主です。けれども、アブラハムの信仰、イサクの信仰、ヤコブの信仰と、それぞれの信仰をひとくくりにすることはできません。それぞれに、歩む道は違うのです。そして、子どもは父の歩みを、イサクのように上書きしていくこともあるのです。そして、実に、そこに主の祝福があるのです。

 主は生きておられるお方です。今も生きて働いておられるお方です。その主と出会うのは、私たち、一人一人異なります。どのような主のお姿を見るのか、知るのか、それは皆異なります。そして、信仰は人と比べるものでもありません。ただ、この主を知れば知るほど、私たちの信仰は豊かになり、主と出会えば出会うほど、その人の信仰は深まるのです。

 そのようになるには、自分の前にある試練を、自分でどう乗り越えていくか、どのように、主と出会っていくか、そこにすべてはかかっているのです。

 アブラハムが、主には不可能なことがないことを100歳の身で経験したように、イサクがここでいのちを支えてくださる主を知ったのです。そのように私たちも私たちの人生の歩みの中で、主と出会っていくのです。そして、聖書に記された主のお姿を知ることを通しても、私たちの信仰は豊かにされていくのです。

 主を知ることは、私たちの信仰の土台となるのです。その土台がしっかりすればするほど、その上に、立派なその後の人生を、永遠に祝福された人生を築き上げることができるのです。

お祈りをいたします。

コメントはまだありません

コメントはまだありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.463 sec. Powered by WordPress ME