2020 年 8 月 9 日

・説教 創世記27章30-45節「エサウの恨み」

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2020.08.09

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 さて、今朝はイサクから祝福を与えられたヤコブの物語の続きのところです。弟ヤコブに祝福を奪われた兄エサウはその後、どうしたのかというのが、今日のところです。

 それで、前回あまり丁寧に考えることができなかったので、そもそもイサクが与えた祝福の内容に、もう一度注目してみたいと思います。

27節から29節です。

ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。
「ああ、わが子の香り。
主が祝福された野の香りのようだ。
神がおまえに
天の露と地の肥沃、
豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。
おまえは兄弟たちの主となり、
おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。
おまえを呪う者がのろわれ、
おまえを祝福する者が祝福されるように。」

 内容は、三つのことが言われています。第一は、豊かな収穫の約束です。第二は、近隣諸国との平和な関係の構築です。そして、三番目に書かれているのは、家族内での尊敬と平安と言っていいと思います。そして、この三つの祝福の内容は、こう言い換えることができると思います。仕事の成功、社会との平和な関係、そして、家庭内の平和です。

 弟ヤコブにこのような祝福が与えられたということは、同時に、兄エサウはこれらのことを失ったことになります。

 考えていただきたいのですが、仕事がうまく行かず、社会との関わりが薄く、あるいは悪くて、家庭内でも争いばかりあるとしたら、人はどこに生きがいを見出すことができるでしょう。実に、神の祝福というのは、私たちが生きていくうえで必要不可欠なものであるということが、ここからもよく分かると思います。

 仕事がうまく行かない、それはヤコブのせい。対社会とよい関係が築けない、それもヤコブのせい。家庭内でいざこざがある、それもこれも、みんな弟ヤコブのせいと、常に恨みを抱かなくてはならない生活というのは、とても悲しいものですし、苦しいものです。いや、ヤコブだけではない、祝福をうっかり渡してしまった父イサクを責めたくなる気持ちにもなるでしょうし、弟をかばいだてする母リベカに憎しみを抱くということもあると思うのです。

 あるいは、その後の人生で何度も何度も、なぜ自分はあの時長子の権利を弟にレンズ豆の煮物で譲り渡してしまったのかとか、母親を疑うべきだったかとか、自分を責めたくなることもあったでしょうか。

 あるいは、いや、それもこれも、そもそも神が悪いのだと神に対する敵対的な感情をもつこともあったかもしれません。

 このような反応は、私たちが何か思いがけない出来事に見舞われるときにしてしまいがちな三種類の反応です。他者を責めるのを他罰的思考と言います。自分を責めるのを自罰的思考といいます。そして、いやそもそも誰かが悪いのではなく、このシステムが悪いとか、神が悪いと考えるのを無罰的思考と言います。

 もちろん、これはどれが正しくて、どれが間違いと安易に言うことはできないと思いますが、自分にはどういう傾向があるか知っておくことで、その対処の仕方も、また見えてくるものでもあります。
 このエサウの場合はどうも、他罰的な傾向があると言っていいと思います。

 さて、少し聖書に戻って考えてみたいと思います。

 エサウは狩りに出かけ、首尾よく獲物を捕らえることができました。そして、大急ぎで料理をし、父イサクのところにやってきます。

「お父さん。起きて、息子の獲物を召し上がってください。あなた自ら、私を祝福してくださるために。」と31節にあります。

 この時のエサウはどんな気持ちだったでしょう。きっと誇らしい気持ちと、うれしい気持ちがこみあげていたに違いないのです。ところが、次の瞬間、イサクはこう言います。

「だれだね、おまえは。」

 エサウの予想もしていない言葉がイサクの口から発せられたのです。エサウが、「私はあなたの子、長男のエサウです。」と答えると、今度はとまどうのは、イサクの方です。

33節にこうあります。

イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう。」

 ここで、この神の祝福の担い手になるはずの物語の中心人物となるべき二人が、まるで一気に物語の隅に追いやられてしまう瞬間を聖書はこのように描いているのです。まるで韓流ドラマの一場面を見ているかのようです。
34節

エサウは父のことばを聞くと、声の限りに激しく泣き叫び、父に言った。「お父さん、私を祝福してください。私も。」

 このエサウの求めは何も難しくないことのように思えるのです。兄にも同じように祈ってやればよいではないか。そのように、思うのですが、そうはならないのです。そして、父と子の問答の末に、イサクはこう答えます。39節です。

「見よ。おまえの住む所には地の肥沃がなく、上から天の露もない。おまえは自分の剣によって生き、自分の弟に仕えることになる。しかし、おまえが奮い立つなら、おまえは自分の首から彼のくびきを解き捨てるだろう。」

 これが、兄エサウに与えられた父イサクのことばでした。ここで語られているのは、先の三つの祝福の内容の正反対のものでした。収穫を得ることは厳しく、剣を持って生きなければならず、弟に支配されるというのです。そして、最後にあるのは、もし奮い立つなら、弟の支配から解かれることはできるだろうという内容です。仕事も、社会も、家族も思うようにはいかない、それがエサウに語られた父イサクからのことばでした。

 この結果、エサウがどう反応したのかが41節にあります。

エサウは、父がヤコブを祝福した祝福のことで、ヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」

 エサウは心の中である決意をするのです。それは、憎いヤコブを父が死んだ後で殺してやろうというのです。

 殺意を抱く。とても恐ろしいことです。これほどに醜い感情はありません。そこにあるのは、自己絶対化です。相手は生きるに値しない、自分のこの考えは絶対に間違っていないと考えたのです。

 この数か月、テレビをつけると、こんなニュースばかりを私たちは毎日のように聞かされています。このコロナ禍で出て来た “自粛警察” だとか、先日煽り運転で逮捕された人も同じような考え方の傾向があるように思います。ただ、そのように悪目立ちしている人たちだけに特有ということではないのだと思います。人との言い争いや、日常のささいな喧嘩も、考えてみれば自己正義感と、他罰的な考え方がその背後にはいつもあります。

 自分の側の理屈しか思い浮かばず、それが思うようにいかない時に不幸せな気持ちになってしまって相手を責めたくなってしまうようです。

けれども、そのような特徴はエサウばかりでなく、ヤコブにもリベカにも見られるのかもしれません。私たちは誰もが、この時のエサウの恨みのような感情や感覚を持っている人間だといわなければなりません。

 エサウは36節で「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。」と言っています。この「押しのける」という言葉に、新改訳聖書には注が付いていまして、語根「アカブ」と書かれています。ヤコブという名前はこの「押しのける」という言葉が語源になっていて、その名の通り、兄である自分を「押しのけた」と言っています。憎くなると名前まで憎くなるということが、ここで語られていると言えます。

 弟のヤコブにしてもそうです。確かに、ヤコブが母のリベカと計画した作戦は成功し、祝福を受け継ぐことに成功します。けれども、ヤコブは勝ち誇ることはできませんでした。平安も訪れることはありませんでした。リベカはエサウの中に殺意があることを知ると、すぐさまヤコブに自分の育った町、ハランに逃げるようにアドバイスします。リベカにしてみれば、イサクの死は、同時にヤコブの死というエサウの計画を受け入れがたいのです。

ここでは、皆絶望的な思いに支配されてしまっています。この部分だけを切り取ってみれば、そういうことになります。誰の立場で見ても、そこには、祝福の姿を見ることはできないのです。

 毎晩、娘に読んでいるディボーションの本があります。サリー・ロイドジョンズの書いた、「神様とともに歩むための101のヒント」という小さな本です。このサリーというひとは、あの有名な説教者であるマルティン・ロイドジョンズとどういう関係にある人なのか分かりませんが、こんな文章がこの本の中にあります。

 タイトルは「自分に言い聞かせよう」というページに書かれたものです。

どうして私たちは、いつも幸せな気持ちでいられないのでしょうか。ロイドジョンズという人はこう言っています。

「それはみんなが、自分の心が語る話を聞いてばかりいて、自分自身に言って聞かせようとしないからです」

 あなたは朝起きる時、心からでてくるいろいろな考えに注意を向けるでしょう。昨日うまくできなかったことを思い出したり、明日しなければならないことを考えてびくびくしたりするものです。そんな心の話を聞いていると、気持ちが暗くなってしまいます。

 けれども私たちは、そのような話に言い返すことができます。自分の心に向かって、本当のことを話して聞かせるのです。自分は神様に愛されていること、神様は愛のお方であること、神様は素晴らしいことをしてくださったこと、を話して聞かせるのです。

 次のように言い返してみてはどうでしょうか。

「どうしてがっかりしているの。なぜ私の心は悲しんでいるの。でも、私は神様を、待ち望みます。(詩篇42・11自由訳)」

 自分のことしか見えない思いは、自分が失ったものにばかり目を向けることになります。それは確かに気持ちが暗くなってしまうことです。けれども、サリー・ロイドジョンズは、その時に、神様が何をしてくださったのかに目を向け、それを自分に言い聞かせることで、自分の怒りや悲しみや不幸せな思いから解放されると、詩篇を通して語り掛けています。

 もし、自分がヤコブであれば、祝福の約束が与えられているのですから、何がこの後起こったとしても、耐え抜く力はでてくるのかもしれません。けれども、選ばれなかった側、エサウであればと考えると不安になるばかりです。

 相手を憎み、その人に対する恨みが心を支配してしまうことがあります。あるいは、その思いを神様に訴えたくなる思いを抱くのはよく分かるのです。けれども、その時に神様はどういうお方なのか、何をなさってこられたのか、そのことに目を向けることができるなら、私たちは冷静さを取り戻すことができるようになるのではないでしょうか。

 見るべきなのは、目の前に起こっている出来事や現象ではなく、その背後にあるものです。それは、何に対してもそうです。目の前の出来事や現象に心が奪われてしまうなら、冷静な判断をすることはできなくなってしまい、心を取り乱し、相手を責め、あるいは自暴自棄に陥ってしまいます。

 けれども、その背後におられる神を知り、神がこれまでしてくださったことを自分に語り聞かせることによって、私たちは自分を取り戻すことができるようになり、失いかけた平安をもう一度取り戻すことができるのです。

 さきほどの聖書の箇所である詩篇42篇11節にはこうあります。

わがたましいよ
なぜ おまえはうなだれているのか。
なぜ 私のうちで思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
私の救い 私の神を。

お祈りをいたします。

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