2020 年 9 月 13 日

・説教 創世記29章1-30節「ヤコブとレアとラケル」

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2020.09.13

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日の聖書は、とても興味深い箇所です。今日の聖書箇所に出てくる登場人物は4人です。この物語の主人公でもあるヤコブ。そして、ヤコブの母リベカの兄であるラバン。そして。ラバンの二人の娘であるレアとラケルの四人です。

 私が聖書を読んでいて面白いと思うのは、聖書にはへんなお世辞はありません。最近の言葉で言うならば「忖度がない」のです。ヤコブは後にイスラエルと名前が変わりますが、そういうイスラエルの物語だから美しく書いておこうというような記述はないのです。

 また、誰から見てなのか分かりませんが、この二人の姉妹の美しさを書いています。レアはそれほど美しくなかったようで、それに比べて妹のラケルは美しい女性でした。よく考えてみますと、ヤコブも、イサクも、アブラハムもそうですが、聖書はこの男性たちが美しかったとかイケメンであったというようなことに、あまり興味がないのか知りませんが、そういうところは書いておりません。ところが、女性のこととなるとそうではないのです。

 現代ならセクハラ案件なのかもしれません。そもそも美しいというのは、誰目線なのかも、実ははっきりしないのです。もし、神様目線だということになると、大変です。もしそうなら、それこそ寝る時も、お風呂に入る時も、神様に綺麗に見せるためにお化粧しなくてはならなくなるのでしょうか。

 実は、先日の聖書の学び会の時に、ある方が私にこんな質問をされました。

「先生に聞きたいことがあるんだが、この話は先生の身に当てはめてみて、どうなんだ?」

と言われたのです。

 今日の聖書の話を自分に当てはめてみてどうかという質問に、実はいろいろ思うところがあって、どう答えようか、しどろもどろになっていますと、その方が続けてこう言われたのです。

「先生の奥さんは二人姉妹で、それこそ、レアとラケルだ。なぜ姉の方ではなくて、妹の方と結婚したのか?」

と言われました。それを聞いていた皆さんは笑われたんですが、私も少しほっとしながら、残念ながらお姉さんとは出会いがなかったんですと、答えました。

 こういう聖書の質問ではないものは、時々、どう答えたものかとドキドキします。まぁ笑い話ですむのであればよいのですが、どちらが美しいかというような個人的な好みというか、感性の問題になると、どう答えてよいか分からなくなってしまいます。

 聖書はそういうきわどい話を、このようにさらっと書いております。それでは、美しいと評価されたラケルがすべての点において、神の目に留っているのかというと、そうではないわけです。

 それは、また来週の話になりますが、神は決してこの姉のレアを軽んじていたということではないことが、この箇所を読んでいきますと、だんだん分かってきます。

 さて、今日のところでいうと、まず、ヤコブです。ヤコブは長い逃亡生活の果てに、ついに目的地であるハランにたどり着きます。着いたと分かったのは井戸のある場所です。聖書を読むと、その井戸のしきたりがまず書かれています。そこで羊に水を飲ませるためには、すべての群れが集まってから井戸をふさいでいる石をどかして、飲ませるのです。そうすることで、少ない水を勝手に飲ませて争いになるのを避けたのです。

 ところが、このところで、ラバンの娘が羊の群れを連れてやって来ることを知ると、ヤコブはそれまで話していた、他の群れの人に、「まだ日も高く、羊を集める時間でもないから、水を飲ませたらさっさと羊を連れて行ってはどうか」と提案し、ラバンの娘のラケルがやって来るや否や、勝手に石をどかして彼女の羊に水を飲ませる始末です。

 ヤコブ一人が盛り上がって、涙を流し、感動の対面を果たして、ラケルにキスまでするのですが、周りにいる人々にしてみれば一体何が起こっているのか、というような出来事なのです。

 最近の言葉でいえば「ドン引き」ということなのかもしれません。本人ひとり盛り上がって感動して、涙を流しているのですが、聖書の書き方はいたって客観的です。

 聖書には、このヤコブを立派なイスラエルの祖を築いた人物として忖度しようという態度は、まったく見られないのです。さて、そんなこんなで、ラバンのところでの生活が始まるのですが、次に注目を集めるのが伯父ラバンです。

 このラバンは、はじめのうちはヤコブを来客として迎えますが、ひと月経つとこう言います。

「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもないだろう。」

15節です。初めの一か月は来客として扱いましたが、要は、「今日からはこき使うからな」という宣言です。そして、その間に、ヤコブが娘ラケルのことを気に入っているのを知っているのでしょう。ヤコブに何が欲しいのかと聞いているのですが、結婚のための支度金も持たないヤコブは、娘さんを頂きたいと言えば、代わりに働くしかないという状況を作り出したのです。とんだ狸おやじです。

 そして、ヤコブはラケルのために7年働きますと、いいところを見せようとするのですが、実は、全部狸おやじの手のひらの上で転がされていることに、本人は気付いてはいないのです。

 そして、このラバンの狸おやじぶりは娘の結婚の時に、さらに発揮されます。ヤコブが結婚したがっていた妹のラケルではなく、姉のレアを嫁がせたのです。そして、文句を言うヤコブに、「一週間後にラケルも嫁にやるから、もう7年間働け」と言うのです。これを狸おやじと言わずにどう呼ぶかと言ってもいいほどです。

 そして、その次に、その父親に言われるまま、結婚式の時に、妹ラケルに成り代わって闇にかくれるようにしてヤコブのところに行く、姉レアの姿が描かれているのです。そして、ラケルもまた姉の結婚式の一週間後にヤコブに嫁いだのだと聖書は語っているのです。

 物語としては面白い話です。しかし、これは聖書です。私たちはこの聖書をどう読むことができるのでしょう。

 ここには自分のことしか考えていない独りよがりの感動屋のヤコブと、狸おやじと、それに振り回される二人の娘しか、描かれてはいないのです。神も登場しなければ、何か教訓じみたことが書かれているわけでもありません。この箇所は私たちに、何を語り掛けようとしているのでしょう。

 実は、私もここから何を説教できるのだろうと考えていたのです。そうしたら、先日の学び会で、「先生はこの話を、自分のことにあてはめてみたらどうなのだ?」というあの質問が、私に投げかけられたのです。

 自分の恥をあまり話したくはないのですが、この日の朝、私は妻と喧嘩をしてしまいました。妻が作ってくれた朝ご飯に、文句を言ったのです。しかも、娘が「私これ苦手」と言った瞬間に、味方を得たと思った私は、調子に乗って妻が作ってくれた食事に文句を言い始めたのです。

 「この話を自分にあてはめてみてどうか?」と聞かれた時に、私は心の中で、「ああ、この自分よがりの周りが見えていないヤコブに、自分を当てはめてみたらどうなんだ」と言われた気がしたのです。

 もし、あの朝の朝食の会話を、どっきりカメラで撮られていて、今日の礼拝で、みなさんが見ることになったとしたら、それこそ、みなさん、「ドン引き」だと思います。これが、うちの牧師か、もうこの教会に行くのやめようかとなったのではないかと思うのです。これが、牧師の日常です。

 そして、これがヤコブの日常なのだということです。聖書はきれいごとばかりを見せようとしているのではないのです。だいたいアブラハムも、イサクも描かれているのはカッコ悪いところばかりです。そうです。だから、聖書はアブラハムや、イサクや、ヤコブがイケメンだというようなことは書かないのです。聖書が書くのは、その人の醜い姿。それでいいのです。そして、もし、この人に、何かいい部分を、何か美しいものを見出すことができるのだとしたら、それは、神の与えたものだということが分かればそれでいいのです。

 レアはあまり美しくなかったのかもしれない。そのレアを、神はご覧になられているのです。夫にあまり愛されていない。父親もそんなにレアを大事にしているわけでもない。けれども、神はそのレアを見ておられるのです。

 それに対してラケルは美しかったのかもしれない。夫に愛されていたのかもしれない。けれども、ラケルもだからといってすべてがうまく行ったわけでもないのです。レアのような一週間におよぶ結婚式をしてもらえたわけでもなく、普段は男がするはずの羊飼いの仕事を女でありながらしていたのです。ラバンには男の子がいたようなのですが、まだ小さかったのでしょう。誰かがやらなくてはならない仕事です。そんな男まさりの仕事をしていたのがラケルです。そして、神はこのラケルにも、ラケルにふさわしく目をとめてくださるのです。

 聖書というのは、とても興味深い書物です。神は性格の悪いヤコブに目をとめてくださるように、性格の悪い牧師にも目をとめてくださるお方です。

 ヤコブの中に何か人知れず隠れた素晴らしい部分を、神は人知れず見ておられて、ヤコブを祝福したということでもないのです。ヤコブは計算高く、人をだまし、自分本位な性格のままで、神はそのヤコブを受け入れ、愛し、祝福を与えてくださるのです。

 それが、神のなさり方です。そしてそのことを、聖書を通して知らされる私たちの気持ちが、神様にドン引きしてしまったとしても、神は気にしておられないのです。私たちは、この神を見上げながら、このお方のことを知れば知るほど、このお方の大きさと、愛と、慈しみが見えてくるのです。

 ヤコブは、まだここで、この主をよく知らないのです。確かに、前回、石の枕の夢の中で、主と出会いました。けれども、まだヤコブの主は、ベテルに住んでおられる主なのであって、自分とともにおられる主ではなかったようなのです。だから、ヤコブは何とか自分で出来ることを、精一杯やってみようとしていたのでしょう。

 ラケルに気に入られるように、必死に石をどかして、羊に水を飲ませてみたり、妻にもらうためにラバンに騙されながら、14年間働くことを通して、妻を得る。努力、努力、ヤコブはここでひたすら努力の人として描かれています。しかし、空回りしている努力の人です。この空回りしてしまっているヤコブこそ、神が愛する者、神に愛された者の姿なのです。

 そして、これこそが、私たちの姿なのです。ヤコブも、レアも、ラケルも、自分本位であったり、さほど美しくなかったり、あるいは弱さや悲しみを抱えている人なのです。ラケルのように美しい部分もあるにはあるのでしょう。けれども、それさえも、神が与えてくださったものであって、自分の力で勝ち取ったものではないのです。神は不完全さも、醜さも、弱さも、そのようなものすべてを受け入れて、その人を新しくつくり変えることのお出来になるお方なのです。

 人から、ドン引きされるほどの人間であったとしても、美しくなかったとしても、悲しみを背負っていたとしても、その人を愛し、期待し、力を与えてくださる。それが、私たちの主なのです。

お祈りをいたします。

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