2020 年 10 月 18 日

・説教 創世記33章1-20節「兄エサウとの再会」

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2020.10.18

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 みなさんは、食事の時に嫌いな食べ物があったとしたら、それは最後まで残しておく方でしょうか。それとも、先に食べてしまう方でしょうか。私は、子どもの頃から、嫌いなものは最後まで残しておく方でした。そして、あわよくば食べなくても良くなることを期待していたのです。ところが、今は違います。苦手な食べ物は先に食べるようにしています。

 これは、何も食べ物に限ったことではありません。やらなければならない仕事を後回しにするか、先にやってしまうか。これも、そうですが、私は以前は、最後まで先延ばしにしてしまって、やらなければいけないことにギリギリまでかかってしまう方でした。今でも若干そういうところはありますが、できるだけすぐにやろうと心掛けるようになりました。ですから、以前は、礼拝説教などは、ほとんど日曜の朝方にできるとか、夜中の2時までかかるとかいう具合でした。最近は土曜の夕方には終わるようにしています。もちろん、うまくいかないこともしばしばですが、先延ばしにしないように気を付けるようになりました。というのは、仕事ができる人というのは、すぐにやるんだということに、ある時気が付いたからです。

 また、人との関係が難しくなってしまった時となると、余計に私たちはそういうことは先送りにしたくなってしまいます。なかなか気が進まない、そんな経験はみなさんのなかにもあるのではないでしょうか。

 ヤコブも同じです。いやなことは最後の最後まで先延ばしにするタイプの人間だったようです。決断が遅いのか、その間に何かが起こることを期待しているのか。気が進まないことを先延ばしにして、漠然と時間が解決してくれることを期待したい、ヤコブのそんな思いは誰もがよく分かると思います。幸い、ヤコブは先延ばしにした結果、その何かが起こります。それが、最後までヤボクの渡し場の所で、一人残っていた時に、ある人と出会い、格闘をし、勝利を得るという出来事だったのです。

 そして、この時戦った相手はというと、主なる神ご自身であり、主はそこでヤコブに新しい名前である「イスラエル」つまり、「神に勝利した者」という名前を与えてくださったのでした。

 先週あまりその後のことを詳しく話しませんでしたが、ヤコブはその場所の名前を「ペヌエル」と名づけました。

「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

と32章の30節に書かれています。

 この時、ヤコブは主ご自身と顔を合わせたと言っているのです。兄エサウと顔を合わせるのが怖くて、おびえていたヤコブは、ここでもっと偉大なお方、最も畏れるべきお方である主と顔を合わせたのに私は生きていると言ったのです。ただ、勝者と言われていますけれども、気づいてみるとヤコブは、正反対の敗者のようになっていました。主に足を打たれて傷を負ってしまうのです。ももの関節、腰の筋を打たれてうまく歩けなくなってしまったと、32章の最後のところに書かれています。

 そして、今日の、聖書箇所は衝撃的な言葉からはじまっています。1節です。

ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウがやって来た。四百人の者が一緒であった。

 嫌なことというのは、いつまでも先延ばしにすることができません。必ず夜は明けるように、その時は来るのです。大事なことは、その時を迎えるまでにどんな準備をしておくことができるかです。

 ヤコブは、不思議なことにエサウと会うために何の備えもしなかったはずなのに、主がヤコブと出会われて、格闘し、ヤコブは意図していなかったのに、必要なすべての準備を主が整えてくださったのです。

 しなければならないことを先延ばしにしたところで、本当はそこには何の解決もありません。なぜなら、するべき準備もせず、自分に与えられている責任を果たそうとしないで、逃げているからです。ヤコブは、そのような者だったのです。

 ところが今日の33章から、新しいイスラエルという名前をいただいたヤコブの変貌ぶりが示されています。

3節。

ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。

と書かれています。

 一番後ろにいたヤコブは主と出会ったことを通して、ここで自ら先頭に進みでていく者へと変えられているのです。

 それは映画さながらの感動的なシーンであったに違いありません。妻も、子どもたちも、ヤコブのしもべたちも、これまでちっとも動きださず、おどおどしていたヤコブが、一晩のうちに成長し、たくましい人物に生まれ変わっていることを目の当たりにするのです。

 荘厳なトラペットの音色がその後ろに聞こえてきそうです。ここにあるのは、そんな力強いヤコブの姿です。

 ところがです。その前に進み出て来たヤコブは足を引きずってうまく歩けません。顔は勝利者のような顔をしていても、体は傷つき、足を引きずらなくてはなりませんでした。そして、そのヤコブは、後ろに家族全員をおいて、目の前の男、兄エサウの前にひざまずきます。一度だけではありません。七度、ヤコブは兄の前にひれ伏すのです。

 私が、映画監督ならヤコブをクローズアップにして、ひざまずくヤコブを撮りながら、さっきまでの荘厳な音楽は止めて、沈黙のままでヤコブのひれ伏す姿を撮ると思います。そして、妻や、子どもたち一人一人の顔をアップで順番に撮っていくと思います。決して格好の良い姿ではないのです。このヤコブの振る舞いの結果によって、この後のすべてが決められるのです。

 緊張の場面です。家族は目の前で起こっているヤコブの姿に驚きながら、これをどう理解していいのか分からない。そんな複雑な表情をしながら、事の成り行きを見守ることしかできません。

 そして、少しずつカメラをそのひれ伏すヤコブの前で立っている兄エサウを足から順に上にカメラを上げて、顔を映す。問題は、その時、エサウがどんな顔をするかです。

 そして、次の瞬間、みなが驚くのです。

 兄エサウの目から涙がながれているのを、みなが見るのです。兄は走っていってヤコブを抱きしめ、ヤコブは兄に首を抱かれながら、二人は涙を流し合い、後ろにいた家族たちは一瞬で安どの顔色に変わり、その喜びが全体へと広がっていくのです。

 20年間の間に冷たく凍り切った兄弟の関係が、ここで一瞬にして溶けてゆき、暖かな温もりを感じることができるようになる。そんな和解が、こうして成立するのです。

 私たちは知るのです。この和解を成り立たせたのは、ヤコブの頑張りでもなく、ヤコブの先を進んだ妻や子どもたちでもなく、兄エサウでもない。前の晩、一晩かけて戦われた神であられる主が、この20年におよぶ兄弟の憎しみあいを和解の物語へとつくり変えられたのだという事を。

 これが、私たちの主なのです。和解の主であり、慰めの主であり、愛と力の主です。この主がヤコブと共にいて、ヤコブに主にある平安を与えてくださったのです。

 先日の祈祷会でこの箇所を学んだ時に、ここに描かれているエサウの姿は、まるでルカの福音書15章に記されている放蕩息子のようだと言われた方があります。本当に、ここに描かれているエサウはまるで、息子の帰りを待つ父親のように、ヤコブを受け入れます。息子が全財産を使い果たした後、父のもとに戻って来たとき、わたしをしもべの一人としてくださいと言ったように、ヤコブはこの5節で「あなた様のしもべ」と言っています。それに対して、兄エサウは9節で、ヤコブのことを「弟よ」と呼んでいます。これも、不思議とあの物語と同じようなのです。

 しかも、兄がここで弟と呼んだのは、ヤコブからの贈り物を断った時です。ということは、兄は贈り物にほだされて、弟を許したということではなかったということです。

 ヤコブはこの出来事の中で、主なる神の顔を見ても死ぬことがなかったように、兄との再会に際しても、殺されることはなかったのだということを、この物語は私たちに伝えようとしているのです。そして、その背後には、神の配慮と働きがあるということなのです。
ヤコブからの贈り物を拒んだエサウにヤコブはこう答えています。10節です。

「いいえ、もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。

 ヤコブはここでエサウのことを「神の顔を見ているようです」と言っています。これはどういうことなのでしょうか。ヤコブにはエサウの顔が神の顔と重なって見えているのです。ヤコブはこの20年の間、ずっとエサウの顔を恐れて生きてきました。今度あったら殺されてしまうと思っていたのです。ところが、このエサウと会う直前に神と顔を合わせることになりました。本当に畏れるべきお方と出会った時、ヤコブは神に受け入れられると言う経験をしたのです。そして、エサウとも顔を合わせることができた。つまり、神との和解が、兄弟の和解へと連なっているのです。神と出会い、神ご自身を知ることが、兄弟を本当の意味で知り、和解することができるようにされたのです。これは、まさに神の御業なのです。

 こうして、ヤコブは、顔と顔を合わせてくださる主を知ることを通して20年来の恐れから自由になることができたのです。

 新約聖書のヨハネの手紙第一の4章12節にこういうみ言葉があります。

いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 ここの箇所を考えると、ヤコブは神を見たのではないかと思えてくるのですが、ヨハネはここで、互いに愛し合うことの中に神の姿が見えてくると言っています。そして、このことは、まさにここでヤコブが経験したことです。このヤコブとエサウの和解の中に、神の愛が示されているのです。人を和解に導かれる神は、この出来事を通して私たちにも、和解の道を示してくださいます。

 本当はもっと早く仲直りすべきだったと思いながら、ずるずると、先延ばしにしてしまっているようなことはないでしょうか。どんどんと和解が難しく感じられて、しり込みしてしまうようなことになっていないでしょうか。

 先日の祈祷会である方がこんな質問をされました。もし、誰かと喧嘩をしていて、そのことを神様にお祈りして赦していただいたら、もうそれでいいでしょうかという質問がありました。神様に赦していただいたのだから、本人同士は仲直りしなくてもいいのではないかということです。気持ちはよく分かりますし、そのくらい人との和解ということは難しいということが、この質問からもよく分かります。みなさんは、どう思われるでしょうか。

 神は、20年間顔を合わせることのできなかったヤコブに、主ご自身のみ顔を向け、顔と顔を合わせて、格闘し、支え、はげまして、兄弟の前に立たせてくださいました。そして、兄との和解の道が開かれたのです。この主とともにあるならば、この主が私たちの傍らにおられるのであれば、私たちにも、もう遅いのではないかと考えて先延ばしにする必要はないのです。神は、私たちを人との和解へと導いてくださるお方です。そして、その力を支えてくださるお方なのです。

 その後、ヤコブはエサウと共に生活をすることをしませんでした。エサウはそのことを求めましたが、ヤコブはやんわりと断って、別々の道を歩み始めます。このことも、一つの答えです。無理に、一緒にいなければならないということではないのです。ただ、赦し合っている、和解し合っているという事実が大切なのです。

 この後、エサウはセイルへ向かいますが、ヤコブはシェケムに向かいます。シェケムというのは、ヤコブの父祖アブラハムがカナンの地に着いた時に、留まることにした記念すべき場所です。その土地を、ヤコブはお金で買い求めて、カナンの地の民として歩むことができるようにされるのです。

 兄弟で進む道は別々でも、その新しい生活の中で、神はヤコブを祝福してくださいます。そして、この時に得た、シェケムはイスラエルの民にとって大切な場所となっていきます。このシェケムがイスラエルの始まりの場所ととらえられるようになるのです。詳しくは話しませんが、ヨシュア記24章でイスラエルの民全体を集めてヨシュアが語った時、ヨシュアはこのシェケムに民を集めて、イスラエルの歩みについて語ったのです。

 神が、そのような神の民であるイスラエルの歩みの背後で生きて働いていてくださる。そして、この神の働きによって兄弟の愛が築かれる、このことが、この箇所が伝えようとしていることなのです。

 私たちも、主と和解して主の御顔を仰ぐ者とされています。そして、兄弟と和解して、愛を築き上げることを期待されているのです。

 パウロはこう言っています。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

第一コリント13章12-13節です。

 私たちもまた、やがて神と顔と顔とを合わせる日が来るとパウロは言います。その日が来ると、私たちは神に、私たち自身のことを完全に知られるように、私たち自身も神のことを完全に知ることができるようになると言っています。私たちが主と顔を合わせる時、それは、私たちが完全な姿に変えられる時なのです。この箇所は愛の13章と言われている箇所の結びの言葉です。主の和解に生きるという事は、愛に生きることなのだということです。愛することを先延ばしにしないで、主が愛してくださったように、私たちも愛に生きること。このことが、大切です。

パウロはこうも語りました。第二コリント3章18節です。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。

 私たちの前にかかっていた覆いが取り除かれて、主を見ることができるようになる時、私たちは主と同じかたちに変えられていくというのです。主が愛してくださったように、私たちも愛に生きるのです。まだ、私たちには覆いがかかっているので、主の愛がよく分かりません。分かっているようにしか愛せない者です。それは、仕方のないことです。だからこそ、私たちはこうして主の日ごとにすこしずつ主と出会っていく歩みを繰り返しているのです。

しかし、やがて、私たちが主の顔を見る時、それは、私たちが主イエスのように完全なものに変えられる時だとパウロはここで言っています。少なくとも、私たちは、死を迎える時に主と顔を合わせる時が来るでしょう。そして、その時には私たちは完全な者、主イエスのようになっているのだから安心したらいいと言っているのです。私たちの先にあるのはこの主にある希望しかないのです。それが、主イエスを信じる者の死の先にあるものです。

 主を見上げる時、私たちにはこの希望があるのです。だから、私たちはどんな時でも主を見上げるのです。そこに、神との和解があるからです。たとえ、死を迎えることがあったとしても、そこにも希望があるのです。今は覆いがかけられていたとしても、神のみ顔を求める時、私たちは神と和解し、兄弟と和解し、愛の関係を築き上げることができる。これが、私たちの信仰であり、希望なのです。

お祈りをいたします。

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