2020 年 11 月 1 日

・説教 創世記35章6-29節「イスラエルを祝福される神」

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2020.11.01

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日でヤコブの生涯の説教の終わりを迎えます。けれども、お気づきの方も多いと思いますが、今日の終わりのところに書かれているのは、ヤコブの死ではなく、父イサクの死で結ばれています。そして、物語はヨセフへとつながっていくのです。このヨセフの物語の最後の部分で、ヤコブの死が記されています。

 この創世記というのは、父の生存中に息子たちの物語を記しているのです。これは、聖書の一つの考え方を表しています。つまり、子どもたちは父の祝福の中で生を与えられているのだというメッセージです。

 私たちは、自分の生涯は自分の力で生きていると思いながら毎日の生活をしています。私たちは学生の時代を過ごし、成人して、その後に独立して、家庭を築いていくことが多いと思いますが、その背後には意識していようとしていなかろうと父がいるのです。そして多くの場合、その生涯の途中で父を天に送るということが起こるわけですが、それまでの間、父の守りの中で、生きているのだと、聖書は考えているのです。この聖書の考え方はとても大切なものです。というのは、さらに、その背後には父なる神の眼差しがあり、神の御手が差し伸べられていることを知ることになるからです。

 もちろん、人生には様々なことが起こります。病のため、あるいは何かの事故のために早く両親と別れてしまうということも起こります。そうだとしても、聖書の考え方は、その背後に父の眼差しがあるということを伝えようとしているのです。

 もちろん、私たちの生涯の中にも様々な出来事が起こります。今日の35章に書かれているヤコブの物語にしてもそうです。

 ベテルに移り住むこと、そして、母リベカの乳母の死、神からの祝福、妻ラケルによって、ベニヤミンの誕生と、妻ラケルの死、そして、長男ルベンの不品行、そして、父イサクの死。どうまとめたらいいのか分からないほど、さまざまな出来事が記されています。

 私たちの人生もそうでしょう。様々なことが同時進行で起こるのです。兄弟のこと、子どもたちのこと、親のこと、会社のこと、友人や知人のこと、さまざまな人との関わりの中で生かされているわけですから、簡単ではありません。時々疲れてしまって、休みたくなることもあります。全然前に進み出せず、足踏みしてしまうこともあります。あるいは、大きな後退と思えることもあるのです。

 そういうことが次々に起こり出すと、本当に苦しい思いになります。逃げ出したいと思うことがあります。途方にくれてしまうことがあります。それは、聖書に出てくる人物も、私たちもまったく同じです。

 聖書を読んでいますと、何度も何度も、同じような言葉が繰り返されています。たとえば、今日の箇所ですと、11節にこのような主の言葉があります。

神はまた、彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」

 昨年から、アブラハムの生涯の説教を始めまして、イサク、ヤコブと続いて説教してきました。その間に、何度も何度も、これと似たような言葉が語られ続けていますので、続けて読んでいる私たちには、また、同じ言葉が書かれていると慣らされてしまうような気がします。けれども、聖書が何度も、何度も同じように、祝福の言葉を語り続けるのは、神の祝福の言葉を聞き続けていなければ、私たちは生きていかれないからです。

 もちろん、子どもが生まれるという嬉しいニュースもありますが、妻の死が突然起こったり、息子からの辱めを受けたり、大好きだった乳母が死んでしまったりという、悲しい出来事も起こるのです。

 私たちは、生きて行かなければなりませんから、いつまでも泣きつづけることはできません。立ち上がらなくてはなりません。目当てを持って生きて行かなければならないのです。

 何のために自分は生きているのか。その根本的なことを忘れてしまう時に、私たちは前に進めなくなってしまうのです。だから、主は語り続けるのです。

 あなたは、わたしの祝福の担い手、わたしがあたえた祝福を、この世界に示すために生きている。あなたから王がでる。あなたの子どもたちはどんどん増えることを通して、わたしが全能の神であることが示されるのだと、主はここでヤコブに語りかけておられるのです。

 神の御名がかかっているのです。その名も「全能」と言うとてつもなく大きな名前で神が、ご自分のことを語られています。この神の全能が示されない生き方を私たちがするなら、神の名折れです。

 私たちは、ヤコブの子孫です。新しいイスラエルの民です。私たちの信じている神は、ヤコブに全能の神として、ご自身を示されたお方です。このお方が、私たちの神、主なのですから、私たちの人生にも次々に色んなことが起こっても、慌てふためかなくてもよいのです。

 神が、ヤコブにそうされたように、私たちにも、神の御業を示してくださるのです。

 先日、私の携帯電話のLINEに、ある方からメッセージが届きました。まだフレンド登録されていない方でした。その場合、承認するか、ブロックするかという選択画面が出てきます。もちろん、その方は私の知っている方ですから、「承認」のボタンを押しました。ただ、その瞬間、あたまの中で、別の考えが一瞬よぎります。「これをブロックしたらどうなるんだろう?」

 私は普段、ほとんどLINEを使っていないので、ブロックというのをやったことがないのです。どうなるか分からないので、興味があるわけです。あとで、知っている方は教えてください。もし、「ブロック」と押してしまうと、二度とその方とのコメントができなくなるのだとしたら、大変だなと思うのです。もちろん、全然知らない人や、悪用する人がいるからそういう機能があるのだと思うのです。

 私たちが、神様にお祈りするとき、同じようなことを感じてしまうことがあるのかもしれません。私たちがお祈りをしますと、神さまの方で、このお祈りを承認しますか? ブロックしますか? という選択画面が出ていたらどうでしょう。一度、ブロックされてしまうと、もうお祈りを聞いてもらえなくなってしまうのでしょうか。

 私たちは時々、それと似たような考え方をしているのかもしれません。人生の中で、次々に、思いがけないことが起こると、「あれ? 神様、私のアカウント、ブロックした?」
「何か、神さまを怒らせるような悪いことしたかな?」とか「ちょっとしつこく祈りすぎたかな?」とか「自分勝手にお祈りしすぎた?」などと考えるのかもしれません。

 神さまに嫌われてしまったから、今、自分に悪い出来事が起こっている。そう考えてしまうことがあるのかもしれないのです。

 しかし、ヤコブはどうでしょうか。神からの祝福の言葉を与えられていても、次々に、悲しい出来事が起こっているのです。これは、神様にブロックされたために起こったことなのでしょうか。それは、ヤコブに非があるからではないことは明らかです。そして、神はそういうヤコブに、何度も何度も、祝福の言葉を与え続けて、私はあなたのことを忘れていないよ。あなたは、私の祝福の担い手で、わたしの名前があなたにかかっているのだからと声をかけて下さっているのです。

 この主の言葉を聞いて、ヤコブはベテルの石の柱に、ぶどう酒を注ぎ、さらに油を注ぎます。以前もそうしたのですが、ここでまた同じようにしているのは、その間に、石が倒れてしまっていたのかもしれません。そして、改めて、その場所を「ベテルと名づけた」と15節に書かれています。

 前の28章19節の時は「ベテルと呼んだ」となっていますが、ここでは「名づけた」です。今までは勝手に呼んでいただけの場所が、正式な名前になったということです。ということは、この土地を手に入れたということなのかもしれません。

 かつてのヤコブは、逃亡の途中で、それまでは知らなかった場所で、石を枕にして休んだだけの土地が、ヤコブにとってかけがえのない土地となったのです。そして、このヤコブを導いてくださった主を、自分ひとりのものとしないで、そう名前をつけることで皆に知って欲しいと願ったのです。この土地はなぜ「神の家」と呼ばれるのか? と誰かが聞くならば、そのときにはこの主とヤコブの物語が語られることになったのです。まさに、この御業は全能の神のなせる業でした。

 この後、ヤコブはそのベテルから旅立ちます。おそらく、父イサクの住むヘブロンに行くためだったのでしょう。その旅の途中で妻ラケルが出産します。そんな状態で旅をしたのも、その後記されているイサクの葬りのためであったのでしょう。そんな中で、ヤコブは妻も失ってしまうのです。しかし、その時、ラケルは子どもを産みます。ラケルは「ベン・オニ」と名づけますが、ヤコブは「ベニヤミン」と名づけました。「ベン・オニ」は、「私の苦しみの子」という意味ですが、「ベニヤミン」は「右手の子」という意味です。

 そして、実際にこのベニヤミンは、ユダと並んで、ヤコブの祝福の担い手となっていくのです。では、なぜ長男のルベンではなく、ユダが担い手となったのかですが、この後、そのルベンが父の妻と寝て辱めるという事件を起こします。その地のイスラエルではそれは石打にされるような行為です。やがて、死を目前にしたヤコブが子どもたちを祝福するさいに、ヤコブはルベンにこのことを語ります。また、その次の息子たちであるシメオンとレビはこの前の章で、シェケムの人々を殺害してしまう事件を犯してしまいます。そのためであったかは分かりませんが、ヤコブの祝福はこういうこともあってその次のユダへと継がれていくことになるのです。

 そして、このユダとこの時に生まれたベニヤミンが、後のイスラエルの民の祝福の担い手となっていくのです。
祝福の言葉を頂いても、次々色々なことが起こります。悲しい出来事も、うれしい出来事も、祝福を失う者、そして担い手になる者、その背後には大きな神の祝福があって、その神のゆるしの中ですべてのことは起きているのです。

 そして、聖書はこの最後の結びでは、父イサクのことを記しています。ヤコブの生涯の記述はここで終わります。物語の主役はヨセフへと移り替わっていきます。けれども、聖書はそのヤコブの結びの部分で、父イサクの死を伝えているのです。

 イサクが子どもたちを祝福しようとした時に、ヤコブが兄を出し抜き、そのために、ヤコブはパダン・アラムに逃れ、妻を得るために働きます。そのときから、最後の時に至るまで、イサクはエサウとヤコブという二人の子どもたちのそろった姿を見ることはできませんでした。けれども、その最後には、二人の息子たちによって葬られたと記されています。

 神はアブラハムの祝福の担い手であるイサクの最後を、幸せの色で包み込んでくださったのでした。子どもたちと別れてからのイサクの歩みがどうであったのか、聖書には記されていませんが、神はイサクのことを心に留めて下さっていたことが、ここに記されています。

 29節にこう書かれています。

イサクは年老いて満ち足り、息絶えて死に、自分の民に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った。

 イサクは年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。アブラハムの最後にも同じように記されていました。全能の神の御手にある歩みは、その人生をどのように終えることになるのか、聖書はこう記しているのです。その人生にはさまざまな試練や困難がともないます。まるで神から見捨てられたように思えるような出来事もあるのです。けれども、聖書はそのイサクの人生の最後まで祝福したいのです。ここにも神の全能が示されています。

 ここに、主の祝福があります。私たちの人生を、最後まで幸いの色で彩ってくださる。それが、全能の神の御業なのです。

お祈りをいたします。

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