2021 年 2 月 7 日

・説教 詩篇119篇17-24節「旅人として」

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2021.02.07

鴨下 直樹


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 今朝は、予定していた説教題を変えまして、「旅人として」としました。年末までは「Go toトラベル」と言って、「旅行に行きましょう」ということを政府が打ち出しました。旅行に行くことで、コロナの中にあって経済を回そうという政策がとられていました。しかし、そのために感染が拡大してしまい、今は旅行どころではなくなって、反対に、「外出自粛」が叫ばれるようになっています。この岐阜市でも、この週末までとされていた外出自粛期間が来月まで延長されまして、旅行という雰囲気ではなくなっています。

 そんな中で、今日の詩篇の中にある「私は地では旅人」という言葉にどうしても目が留まります。「ああ、また旅行に行けるようになりたいなぁ」。そんな思いを持っておられる方は少なからずいると思います。

 聖書が「旅人」という言葉を使っているのを見て、そこにどんな意味があるのか、私たちはいろいろと想像します。「旅人」という言葉にはネガティブなイメージはありません。どちらかと言えば、楽しそうな、心がリフレッシュできそうな、そんなイメージを抱くと思います。

 先日の聖書の学び会でも、「旅人」というのは、どういう意味なのかという質問が出ました。他の聖書の翻訳では「寄留者」となっています。「寄留者」というのは、イスラエルの民の中に住んでいる異国人です。日本語で「外人」という言葉があります。どちらかというと、それに近いニュアンスの言葉です。

 ある解説のものを見ていましたら、このヘブル語は「ゲール」というのですが、「法的保護を必要とする『よそ者』を指す」とあって、さらには「ヤハウェの保護を必要とするはかなき者の意」と書かれていました。立場の弱い者です。そういう異国からの寄留者を、主は保護するように律法の中で戒めてきました。「この地では旅人」というのは、自分はこの地では立場の弱い、よそ者というような存在なのだと、自分のことを語っているのです。そうすると、この言葉はずいぶん違ったイメージになると思うのです。

 この詩篇119篇は最初の「アーレフ」というヘブル語のアルファベットで始まっています。最初の部分は、この詩篇の導入部分にあたります。次の「ベート」の部分は「若者への呼びかけ」となっていました。そして、今日の三番目の部分「ギーメル」で始まる部分ですが、ここからが詩篇の本論と言える内容になっています。

 この詩篇119篇は「神の言葉への愛」がテーマです。ここでいう、「神の言葉」というのは、「律法」のことを意味しています。イスラエルの人々への主が定めた法律です。

 主は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出し、40年にわたる荒野の旅の後で、約束の地、カナンの地にイスラエルの人々を招き入れられました。こうして、主は、この世界の人々に、神の思いはどこにあるのかということを明らかにされました。そこで、語られているのが、律法です。イスラエルの人々が喜んで生きていくことができることを願って、生きていく上で大切なことを、神はこの律法の中に込められたのです。ですから、この律法の中には、主の愛と恵みが満ち溢れた内容となっています。

 どの国でもそうですが、その国の法律というのは、その国民を守るために作られます。民から搾取するためではなくて、安心して生きることが出来るようにするためです。そういう法律の、基になったのがこの神の律法と言えるわけです。

あなたのしもべに豊かに報い 私を生かし
私があなたのみことばを守るようにしてください

と17節にあります。

 み言葉を与えてくださる主は、私たちが豊かに生きることができるようにしてくださるお方なのだとここで告白しているのです。主は私たちを豊かに報いて、生かしてくださる。そのために、み言葉を大切に守って生きることができますようにと祈っているのです。

 神のみ言葉は、私たちの豊かな人生にとって必要不可欠なものなのです。

 そのために必要なことは何か。続く18節でこう言っています。

私の目を開いてください。
私が目を留めるようにしてください。
あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。

 今回、改めて気づいたのですが、この「奇しい」という言葉はパソコンの変換ではもう出てこない文字です。今は使わない言葉ということなのでしょう。奇跡の奇という字を書きます。他の翻訳を見ると、「不思議な」とか、「すばらしさ」と訳されています。神のみ言葉の不思議さ、すばらしさ、くすしさといったものに目が開かれるようにと祈っています。この神のことば、神の戒めの背後にある神のみ思いが見えるようになるようにと言うのです。

 もう、ずいぶん古い本なのですが、ヴェスターマンというドイツの聖書学者が、自分の娘に聖書を読むことを勧めている本があります。「若人と学ぶルカ福音書」という小さな本です。その時、ヴェスターマンの娘は5歳だったそうですが、10年後に読んでくれたらという思いで書いたものだと書かれています。これを読むと、ヴェスターマンは子どもが生まれてすぐに、妻と子どもと別れて生活しなければならなかったようです。その娘にあてた手紙という形で書かれているのです。

 その本の中で、ヴェスターマンは自分の娘に「聖書から喜びを汲み出してほしい。それ以外のことは求めません」と言っています。そしてこんなことを書いています。

 聖書は、水道のようにひねれば水が出るというのではなくて、古い井戸から水を汲み出すように、体を使って汲み出す必要がある。体を使って汲み出すというのは、どういうことかというと、聖書の中に入っていく自分の道を見つけ出すこと。つまり、大きな喜びをもって自分の問いに対する答えと自分の心の充実を見つけることと言っています。

 そうやって聖書を読むようになると、いのちそのものが私に触れて、私の心を揺り動かし始めるようになると言うのです。大切なのは、聖書とはもともと何なのか、何を私に伝えようとするのかという問いを持って読むときに、聖書を読む人に対して自分を開き始めるのだと書いています。

 神のみ言葉、その背後にある神のみ思いというのは、見えるようでなかなか見えません。井戸の水を汲み出すようにして、その井戸の底にある水を求めるようにして、ようやくその水をいただくことができるのです。この聖書の言葉は私に何を語るのか。そう問いかけて聖書を読むときに、聖書の世界が見えるようになっていくのです。そのためには、聖書を学ぶ必要があります。聖書の中に自分を生かす何かがあると信じ、そこにある大切なものを見つけるように努力する必要があります。

 それで、この言葉が出てくるのです。

私は地では旅人です。
あなたの仰せを私に隠さないでください。

 旅人、寄留者という人たちは、肩身の狭い思いで生きて来た人たちです。けれども、その人たちは神の仰せの重要さを知っている人達でした。神の言葉の味わい深さが隠されていることを知っていたのです。だから、それが明らかにされることを祈り求めたのです。

 あなたの仰せが明らかになれば、この地で寄留者であったとしても生きていくことができる。この言葉を与えてくださる主は、人をのけ者扱いしないで、豊かに報いてくださるお方だという事をよく知ることができたのです。

 「地では旅人」というこの詩篇の言葉を私たちは新約聖書の中で見つけたことがあると思います。ヘブル人への手紙11章では、信仰に生きた旧約の人物たちを紹介しながら、この詩篇を引用し「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」と記されています。

 新約聖書にあって、この旅人は、本拠地を天の御国に持っていて、この世でのつかの間、まさに旅人のように、この地に生きたのだという理解に結びついていったのでした。

 これは、この詩篇の言葉が時代と共に新しい意味を持つようになったからです。旅人、寄留者という言葉の中に積極的な意味を見出していったのです。

 ただ、この詩篇が書かれた時代には、まだこの新約的な理解はないのです。しかし、この地では旅人と言いながら、まさに、寄る辺のない寄留者のような者であっても、異邦人であったとしても、主の言葉の味わい深さを見ることができるようにしてくださるのです。

 それで、こんなことも言えるようになっているのです。20節です。

いつのときも あなたのさばきを慕い求めて
私のたましいは押しつぶされるほどです。

 「さばきを慕い求める」と耳を疑いたくなるような言葉がここには記されています。さばきというのは、できたら受けない方がいいに決まっていると私たちは感じます。子どもの時から、テストで悪い点をとってしまったら、親に見せないようにしたいと思うものです。その後のさばきが怖いからです。

 わたしたちにとってさばきとは、ペナルティーです。悪いことをした罰というイメージです。それは、慕い求めるどころか、少しも欲しくはないものです。

 この「さばき」という言葉も、意味しているのは律法のことです。神の言葉の言い換えです。もともとの言葉は「ミツウォート」という言葉ですが、「命じる」という言葉の派生語です。「命令」という意味の言葉です。ですから、この言葉には「ペナルティー」という意味はありません。もともと、この「さばき」という言葉も、ペナルティーという意味ではないのです。ペナルティー、罰があるとすれば、それはあくまでも、さばきの結果です。

 では「さばきを慕い求める」「命令を慕い求める」というのはどういう意味なのでしょうか。それは、神の真実を切に求めるという意味です。

 最初にも話しましたが、神の命令である法律がちゃんと機能しているということは、その民が守られているということのしるしです。

 「たましいは押しつぶされるほど」というのはよっぽどの表現ですが、自分の存在そのものが、神の法律をどうしても必要としているということです。神のまなざしの中で生活することができる。それがどれほどの平安を与えるのかを、旅人はよく知っているのです。神の戒めである律法がきちんと機能していれば、自分のいのちが脅かされることなく、安心して生きていくことが出来るのです。神の言葉には、そのように私たちの毎日の生活を確実に支えてくれる神の真実が示されているのです。

 最後の24節にはこういう表現があります。

あなたのさとしこそ 私の喜び
私の助言者です。

 この助言者という言葉は、英語の聖書では「カウンセラー」と訳されている言葉です。神のみことばは、カウンセラーのように、わたしに寄り添って、わたしに今必要なことを的確な言葉でアドバイスしてくれるのです。

 神の言葉である聖書は私たちにとって必要不可欠なものです。聖書から神の言葉をくみ出すとき、まるで私たちのカウンセラーのように的確な序言がもたらされるのです。そして、そこには、私たちがなかなか見えていない、奇しいとしか言えないような、不思議なすばらしい神の御業が見えてくるのです。旅人、寄留者であっても豊かに報いられるような、生き生きとした暮らしを約束してくれるのです。

 どこかに旅行に行かないとリラックスできないというのではなくて、神の言葉が与えられるなら、私たちはどこにいても平安を得ることができるのです。

 旅人をも豊かにもてなしてくださる私たちの主は、私たちが置かれている場所にあってしっかりとした歩みを約束してくださるお方なのです。

お祈りをいたします。

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