2021 年 3 月 21 日

・説教 詩篇119篇65-80節「苦しみにあったことは私の幸せ」

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2021.03.21

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 詩篇119篇の71節にこういう言葉がありました。

苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました。

 苦しみの経験というのはできればしない方がいいに決まっています。しかし、この詩篇の祈り手は、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」と言えることを経験したのでした。苦しみによって、神のおきてを学ぶことができたのだと言っているのです。神のおきて、神のお考えを学ぶということは、それほどに重要な意味を持っているというのです。

 ただ、私たちにとって、何か悪いことが身に降りかかると、それにはどんな意味があるのだろうかと、その意味を何かしら信仰にからめて読み取ろうという気持ちというのは、私たちに少なからずあると思います。けれども、多くの場合、そこに意味を見つけ出すことはできないという事がほとんどです。すべてのことに、何か意味を見つけようとしたり、どれもこれも、神さまのせいだと考え始めると、きっと私たちは信仰の歩みをすることが困難になってしまうのではないでしょうか。

 今日の詩篇は、そのことを考えるきっかけにもなりそうな箇所だと言えるかもしれません。

先週の〈ざっくり学ぶ聖書入門〉で「エステル記」を学びました。このエステル記に記されているエステルがした経験というのは、まさに、このみ言葉に記されているような経験だったということができるのかもしれません。

 ペルシャのクセルクセス王の時代の出来事です。王妃ワシュティがクセルクセスの宴席に呼ばれたのですが、自分は見世物ではないと出席を拒みます。それでこの王妃は退けられてしまい、新しい王妃が選ばれることになります。そこで王妃に選ばれたのがエステルでした。エステルはユダヤ人でしたが、そのことを隠していました。ある時、新しく大臣に就任したハマンは、門番でエステルの育ての親であるモルデカイが自分を敬わないことに腹を立て、ユダヤ人虐殺の命令を、クセルクセス王に出させてしまいます。その命令のためにユダヤ人は、断食をして悲しみます。その時に、エステルの育ての親であるモルデカイは、エステルに、自分は王妃だから助かると考えるのではなくて、この時のために王妃に選ばれたのかもしれない。だから、王にこの計画を中止するように頼みなさいと告げます。しかし、この時代の王妃というのは、勝手に王の所に近づくことはできませんでした。許可なく近づくと、殺されてしまうこともあり得たのです。それで、ユダヤ人たちに、三日間断食して、自分のために祈ってほしいとエステルはみんなにお願いします。そして、その結果、ユダヤ人たちもエステルも助かるという経験をするのです。

苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました。

 エステルは同胞のユダヤ人たちが、皆殺しにあうかもしれないという危険を経験し、自分がそれを取りやめるよう王に求めたら自分が殺されるかもしれないという危険の中で、その計画を取りやめるよう王に求めます。そういう経験が、「私にとって幸せ」とは、なかなか言えるものではありません。しかし、すべてが終わってみると、まさにそのことのゆえに神のおきてが明らかになるということがあるのです。

 ただ、多くの場合、苦しみの意味という事を考えると、そんなに簡単にはいきません。聖書の出来事になるようなことと、自分の日常のこととは同じだとは考えにくいのです。

 たとえばですが、先日の祈祷会でもこんなお話をしました。

 昔、私がまだ小学生だった頃、よく授業の邪魔をするような騒がしいことをする生徒が、廊下に立たされるということがありました。あるいは、反省をうながすために、正座をさせられるということがありました。昔はアニメのドラえもんでも、そんな場面がありましたから、別に珍しいことではなかったと思います。今は、そんなことしたら親に訴えられてしまうので、そういうこともなくなりました。

 そういう子どもが正座をさせられる、廊下に立たされるというような場面で、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました」となるかどうかというと、なかなかそうはなりません。

 そうなったら、それは素晴らしいのですが、反省するどころか、「くそー〇〇先生め!」となるのがほとんどです。

 先生とすれば、それで授業ではしずかにするというおきてを子供が学んでくれれば、それにこしたことはありません。ただ、多くの場合はそこにまで思いがいかないわけです。

 私たちは苦しみの経験をするとき、その苦しみにしか、なかなか目を留めることができません。せいぜい、そこで考えるのは、「これはいったい何の罰(バチ)が当たったのだろう」と考える程度です。しかし、その背後にある神の大きなご計画があること、そのことを通して神を知ることができるのだとすれば、その苦しみの経験は、それ以上の祝福の源となることがわかるのです。

 ところがです。現代では子どもが授業中に騒がしくしていたとしても、その子どもを懲らしめるなんてことができませんので、ほとんどの場合、放置されているのだそうです。その子どもの個性の問題と、家庭の問題なのであって、学校でその責任まで持てませんということなのでしょうか。

 こういう社会に生きていると、個人はどうしても無視され大切なことをなかなか知ることができないままに、未成熟であるにも関わらず、その責任をすべて自分で背負わなければならなくなってしまいます。

 起こる出来事にはかならず原因があって、結果があります。その原因を問うこともせず、改善する手助けもできない社会というのは、どんどん未成熟な社会になってしまっていくのだと思うのです。

 イスラエルの人々は、はじめ主が立てたモーセからはじまって、さまざまな指導者が与えられて、祝福された歩みをしてきました。しかし、だんだんと神のみことばを軽んじる王たちによって、国はどんどんと荒れていってしまいました。そして、ついには外国に支配され、多くの民がバビロンに連れていかれてしまうという経験をします。

 神は何度も何度も預言者たちを起こして、民を導こうとされましたが、人々の心は頑なで、どんどん未熟な社会になっていってしまいます。そしてとうとう、どうすることもできないほどにその国は崩壊してしまうのです。しかし、そんな中で、もう一度神のみことばを求めることがどれだけ大切なことなのかということに心が動くようになっていきました。

 65節と66節にはこうあります。

よ あなたはみことばのとおりに
あなたのしもべに良くしてくださいました。
良い判断と知識を私に教えてください。
私はあなたの仰せを信じています。

 ようやくここまで言えるようになったのです。

 この詩篇のこの部分は、そのまま祈り手の心情が見えるように描き出されています。
67節

苦しみにあう前には 私は迷い出ていました。
しかし今は あなたのみことばを守ります。

 神の御言葉と出会う前の自分は「迷い出る者」であったと言っています。廊下で正座させられるような状況の中で、どうしていいか分からなかったのです。ところが、神の言葉と出会ったのです。昔から先祖たちが大切にしてきた、教えの中にこそ、先祖たちが味わうことができた祝福の源があったのだと言うことを経験したのです。だから、「苦しみにあったことは私にとって幸せ」と言えるようになったのです。

 ずいぶんと遠回りして来たのです。けれども、遠回りしても、知らないままでいる方が悲惨なのだということも、また分かったのです。

73節から80節のところにはこういうことが記されています。
73節。

あなたの御手が私を造り
私を整えてくださいました。
どうか 私に悟らせ
私があなたの仰せを学ぶようにしてください。

 これは、神が私を創造して下さり、私を生きるものとしてくださったので、その私の外側だけではなくて、中身もちゃんと入れてくださいという意味です。

 ハードだけあってもダメなのです。その中にちゃんとソフトがはいっていないと機能しません。いくら、高価なパソコンを買っても、その中にどんなソフトがインストールされているかで、そのパソコンの使い心地は変わってきます。中身がスカスカで、使えないようなソフトばかりはいっていても仕方がないのです。

 最後の80節にこうあります。

どうか あなたのおきてのうちに
私の心が全きものとなりますように。
私が恥を見ることのないためです。

 見てくれだけ立派そうでも、中身がスカスカだと恥をかくことになります。その私の中身、私の心が完全なものとなるようにしてくださいと、ここで祈っています。その私たちの心が完全なものになるかどうかは、私たちの心の中に、神の御言葉が、神の教えがちゃんとインストールされているか…インストールなんて今どきの言葉を使わなくても良いのかもしれません。私の心の中に、神の御言葉が書き込まれているか、そのことがとても重要なのです。

 この苦しみはなぜ、と問うた時に、自分は知るべきことを知らなかったために、今こういうことになっていると気づくことができるなら、それは幸いな経験です。自分に欠けているものが分かれば、対処の仕方が分かるからです。けれども、多くの場合、周りに当たり散らすなどして、周りの人の責任にするか、あるいは自分はダメだと落ち込んでしまって、自責の念にかられるかということが多いのだと思うのです。

 昨年、よく耳にした言葉があります。
「ピンチはチャンス」という言葉です。

 教団の代表役員も、ある時の牧師会で語っていましたし、テレビでも時々耳にしました。ピンチの今こそ、考える時だということです。

 人が生きるために本当に必要なものは何かと問う。そのことを知ることなしに、幸せに生きることなどできません。幸せはどこかから飛んでくるものではないし、白馬の王子様がもたらしてくれるのでもありません。

 しかし、私たちに本当に必要なものは、私たちの中にはないわけですから、外からそれがもたらされなければなりません。大事なソフトをインストールしないといけないわけです。もし、必要なものがあるのだとするなら、それは本質的なものであり、人を生かすものであるべきです。

 そして、それは、この詩篇によれば、「あなたのおきて、あなたのみおしえ、あなたのみことば、仰せ、さばき、しもべへの約束」そういう言葉で表現されていますが、それはすべて一つのことを指しています。つまり、それは神の言葉なのです。

 この神の言葉の中には、私たちが生きるために、「良い判断をすることができる知識」に満ちているのです。

 私たちの心のうちに、神の御言葉が刻まれるならば、私たちは苦しみを経験することがあったとしても、その経験さえも、幸せであると告白することができる者とされるのです。自分は外側だけに目が向いて、人からどう見られるかばかりを気にしていたのだとすれば、それは中身のない人生になってしまいます。しかし、私たちのうちに、私たちを生かす、本当に大切なものが、刻み込まれるなら、その時、私たちはよりよく生きる者となることができるのです。そして、それこそが、神の言葉なのです。聖書に耳を傾ける時、私たちは、この世界で、良い判断をする知識によって、決断することができるようになるのです。

お祈りをいたします。

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