2021 年 4 月 2 日

・受難日礼拝説教「わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」マタイの福音書27章32-50節/詩篇22篇1節

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2021.04.02

鴨下 直樹

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 十字架の上で主イエスが語られた、「十字架の七つの言葉」と言われるものがあります。

 最初の言葉は主イエスが十字架につけられた時に兵士たちに言われた言葉です。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

ルカの福音書23章34節です。

 二番目の言葉は、一緒に十字架につけられて悔い改めた強盗に言われた言葉、

「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

ルカの福音書23章43節です。

 三番目は、弟子のヨハネに母マリヤの事を頼んだところです。

「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」

そして、ヨハネに対しては

「ご覧なさい。あなたの母です」

と言われました。ヨハネの福音書19章の26節と27節です。

 そして、四番目が今日の個所です。それが

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

です。

 その後の五番目は死の直前に言われた言葉で

「わたしは渇く」

というヨハネの福音書19章28節のみことばです。

 そして、六番目が、その後の言葉で

「完了した」

と続く30節のみことばです。

 最後の言葉は、ルカの福音書23章46節にある

「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」

という言葉です。

 こうして見ると、マタイは、主イエスの十字架の七つの言葉の中でも、この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」という言葉だけを選んでいるということに気づかされます。

 少しマタイの福音書で、この場面がどのように記されているか見てみたいと思います。
まず、45節にこう記されています。

さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。

 三時間に及ぶ闇です。先週、黄砂が中国から飛んできて、なんとなくですが、空が白くなっていたことに気づいた方も少なくないかもしれません。けれども、自然現象で視界が悪くなったとしても、遠くの山が見えなくなるというようなくらいで、闇とまではいきません。以前、金環日食というのがありましたけれども、あの時、この地域は天気が悪くてあまり見えませんでしたが、綺麗に指輪のように太陽の光を月が隠してしまったことがありましたが、その時に、それほど印象に残る出来事とはなりませんでした。それでは太陽が完全に月に隠れる皆既日食というのは、どんなくらいなのかと思ってネットで見てみたのですが、空全体はほとんど変わらないようです。特別なグラスをかざして、太陽を直接見ると分かるという程度です。

 何も、別にここでこの時の闇を科学的に解説したいわけではないのですが、マタイがここで伝えようとしているのは、主イエスが十字架にかけられた時、闇が支配していたということです。

 光がなくなってしまったのです。一切の希望が見出せなくなった。そして、その時に、主イエスはこの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれたのです。「わが神 わが神 どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という詩篇22篇の一節の言葉を、自分の叫びの言葉として語られたのでした。

 十字架の七つの言葉の中でも、この言葉は四番目、つまり一番中心にくる言葉です。この言葉の中に、主イエスの十字架の意味が詰まっていると言えます。

 私たちの人生の中でも、何度となく、この言葉が口から出てくることがあります。自分の祈りが無駄だと思えるほどに、絶望を突き付けられる時、私たちはこう叫ばざるを得ないのです。

 それは、まさに闇が支配している、神の光はもはやどこかにいってしまったというような絶望に打ちひしがれる時です。私自身の生涯のことを振り返ってみても、これまでにも何度となく、この叫びを叫んできました。

 頭では分かるのです。神の御心がなるのであって、私たちの願いをかなえるのは神の仕事ではないのだという事は。けれども、あまりにも理不尽に思える時に、私たちはこう叫ばざるを得なくなってしまうのです。

 主イエスがこの叫びを叫んでおられる時、そのお姿を見ていた人たちの反応が、この後のところに記されています。それがマタイ27章47-49節です。

そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。

 ある人は「この人はエリヤを呼んでいる」と思ったようです。ある人は、もうこれで死を迎えて終わりだと思い、死の痛みを楽にしてやるために、酸いぶどう酒を飲ませようとします。すると、別の人が、ぶどう酒を飲ませるのをやめさせて、エリヤが来るかどうか見てみようと言ったと書かれています。

 酸いぶどう酒を与えれば、痛みから解放されて、少し楽に息を引き取れるわけですが、それをやめさせたということは、もう少し生かしておこう、そうしたらエリヤが来るかもしれないと考えた人がいたということです。エリヤが来れば、主イエスは救われるんだから、ぶどう酒を与える必要はないだろうということです。

 どこかでエリヤが来ることを期待していたのかもしれませんし、あるいは半ば馬鹿にしていたのかもしれません。

 マタイの福音書は、主イエスの十字架の死の場面を、主のこの言葉と、エリヤが救いに来るのではと人々が思ったということに、焦点を当てて記しているのです。それは、主イエスのこの叫びの意味をまるで理解することのできなかった、主イエスの十字架の場に居合わせた人々の姿を描き出しているわけです。

 この十字架の主イエスの叫びは、誰もが理解できるし、誰もが口にしたくなることなのに、人はどこかから救い主がやって来るというような救いを、どこかで期待しながらも、どこかでは馬鹿にしているのだというように描き出したのです。これが、救いを期待する人の姿なのだということです。

 もし、どこかからエリヤのように救いが訪れるのだとすれば、それはそれで、見てみたいという思いがある一方で、そんなことは現実ではありはしないのだと、どこか諦めてしまっている。そこに見えてくるのは、結局のところ、人のご都合主義の救いの在り方です。そこに、神の意志を思う思いはないのです。

 主イエスは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫びながら、死を迎えていきました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びの中に見えてくるのは、ただ、神の意志が貫かれているのだという事実です。

 人の願いがかなえられるのが、十字架なのではなくて、神の意志が貫かれるのが、十字架の意味なのです。救いというのは、神の御心がなるということ以外のなにものでもないのです。

そして、主イエスがあの十字架の上で、死に際して私たちのすべての願いを代表して叫ばれたのが、あの叫びであったのだと言うことが見えてくるのです。

「わが神、わが神、どうか私を救ってください。」「私の願いをどうか聞き届けてください」という私たちの切なる心の叫びを、主イエスが代わって叫んでおられるのです。そして、その願いが神に退けられた時に、私たちはその主イエスのお姿を通して、これは、私の身代わりなのだということが明らかになるのです。

 主イエスが十字架で死ぬことを通して、自分の願い事を叶えて欲しいと願っている私たちは、十字架の上で死ぬのです。

 そして、この三日間、なぜ私は、そして主イエスは死ななければならなかったのか、なぜ、神は私の願いを退けられるのかを、胸を打ちたたきながら神に問うのです。そうすることで、私たちはその三日目の朝、神からその答えを得ることになるのです。

 つまり、それは、私たちを新しい命に生かすためであったことを、主イエスの十字架は私たちに問いかけてくるのです。

お祈りをいたします。

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