2009 年 12 月 20 日

・説教 「クリスマスの大冒険」 ルカの福音書2章1節-20節

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — miki @ 14:11

– クリスマス・ファミリー礼拝 –

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鴨下直樹

 今日はクリスマス・ファミリー礼拝ということで、子どもと大人とが一緒にクリスマスのお祝いをしています。先程、エプロンシアターで、クリスマスの物語りを聞きました。クリスマスには、今エプロンシアターで見たように、羊飼いたちや東の国の博士たちといった色々な人たちが、生まれたばかりのイエス様のところにお祝いをするために尋ねてきたのです。こうして、クリスマスには色々な人たちが、特に家族が集まって来て、一緒にお祝いするという習慣がうまれました。

 先日、ある方とお話をしていて、面白い話を聞かせてくれました。クリスマスになると、家に親戚の子どもたちがみんな集まって来るんだそうです。おじいちゃんにクリスマスプレゼントを買ってもらおうという子どもたちの考えがあるのです。そして、それから一週間もしないうちに、今度はお正月だといって、今度はお年玉目当てに親戚の子どもたちが集まってくる。おじいちゃんは考えたのです。それで、おじいちゃんは子どもたちに聞きました。「クリスマスに大きなプレゼントをもらうのと、お正月にお年玉をもらうのとどっちがいい?」と言うのです。両方はだめだということのようです。

 私たちはこの季節になると、嬉しくなります。プレゼントを貰うこともそうですが、そうやって家族が集まることも嬉しいことです。そういう習慣は、実はこのクリスマスの物語りから来ているのです。もちろん、そうして家族が集まって何かを貰うというのは楽しいことでしょう。けれども、「自分は今年は何が貰えるか」、ということばかりをついつい考えてしまいます。それが、この世の中のクリスマスというものですけれども、クリスマスの贈物の意味を私たちはよく考えてみたいと思うのです。

 

 今日、前のテーブルに4つの紫色の蝋燭に火が灯っています。見て頂いて分かるように、長さが違います。この芥見教会では、クリスマスの4週間前から蝋燭に一本づつ明りを灯してきました。だから長さが違うのです。こうやってクリスマスが来るのを数えながら、喜びを持って待っているのです。そして、24日の夜には、礼拝堂一杯に蝋燭を灯してお祝いをします。それまでのこの4週間のことをアドヴェントと言います。クリスマスを待ち望む期間のことを言います。この言葉はラテン語のアドヴェントゥスと言う「到来」とか「到着」という言葉から来ています。イエス様が到着されるのを待っているのです。このアドヴェントという言葉に似た言葉で、みんなが良く知っている英語でアドヴェンチャーという言葉があります。「冒険」という意味です。

 「冒険」と聞くと、不思議に何だかわくわくしてくる期待感を感じます。アドヴェンチャーというと、ハラハラ・ワクワクするようなスリル満点の経験をすることと今の私たちなら思うかもしれません。この言葉は漢字で見てみると「危険を冒す」と書きます。危険を冒すから、ドキドキ・ハラハラするというのは確かにそうですけれども、実際に危険を冒すというのは大変なことです。

 今日は、私が昔した一つの冒険の話をしたいと思います。私が、高校生の時のことです。この近くに根尾村というのがあります。ここから車で一時間くらい山の方に行くと、山の中に、私たち同盟福音教会の持っているキャンプ場があります。この山の中も今では市町村合併で穂積市になっているので、私としてはこんな山の中でも「市」と呼ぶのかと変な気がしますが、今も相変わらずの山です。毎年夏になると、そこでキャンプが行われます。子どものキャンプ、学生のキャンプ、大人のキャンプなど色々です。

私は高校生の時に、そのキャンプ場で毎年働いていました。グランドワーカーという仕事で、キャンプファイヤーの準備をしたり、キャンプの色々な準備をします。高校生には大変な仕事でしたが、毎日お昼の御飯を食べてから3時くらいまでの間、休憩の時間があります。私は遊ぶのが大好きでしたので、その時に色々な遊びをしました。その日、一緒に働いていた友達と川下りという遊びをしたのです。キャンプ場には、そのとき、トラックのタイヤのチューブが浮き輪の代わりとして置いてありました。とっても大きなものです。そのタイヤのチューブを持って30分ほど山道を転がしながら歩いて行きますと、赤い橋があります。その橋の下の方に川が流れているので、大きなタイヤを持って崖の上から沢まで降りていくのです。それだけでも大冒険ですけれども、ホントの冒険はそこから始まります。橋の下の川はまだ沢ですから、水がそれほど流れていません。そこで、その浮き輪にお尻をすっぽりと入れて、まるで桃太郎のモモのように、川から流れていくのです。もちろん、大変流れの速いところもありますから、とても危険です。そして、私はあまり泳ぐのが得意ではないのです。もし、川に流されている途中でひっくり返ってしまうと大変なので、友達の浮き輪と私の浮き輪をロープで結びました。これで安心、と川を二人で楽しく流されていくのですけれども、初めは流れがゆっくりなので楽しんでいられるのですが、山の谷の間の川というのは、色々な谷からいくつもの小さな沢が合流して太くなっていきます。山と山の間が狭くなると、当然流れも速くなります。その大変早い流れの中を、それこそ、ドキドキ・ワクワクしながら流されていくんですが、2メートルくらいの滝のようになっているところがあったのです。案の定、私はひっくり返ってしまいます。ところが、うまく起き上がろうとしても、ロープが絡まってうまく起き上がれないで、水の中から浮かんで来れないのです。心配した私の友達が私の浮き輪を元に戻してくれたおかげで、私は死なずに済みました。時間にしたらたぶん1時間くらいのことですけれども、本当に色々な危険を冒しました。文字通り冒険だったのです。

 

 実はこのクリスマスにも、これよりももっともっと大きな大冒険がありました。それは、イエス様がこの世界に生まれたという大冒険です。イエス様は、天国で父なる神さまと一緒におられた神様でした。ところが、誰も神様だと分かってもらえないこの世界に、しかも、初めは泣くことしかできない赤ちゃんとしてお生まれになったのです。イエス様はそのような「大冒険」をして、私たちのところに「到着」してくださった。これがクリスマスです。

 イエス様の冒険はこのクリスマスから始まって、十字架にかかるまで続いていきます。けれども、その十字架への道、冒険の旅を見守る人は多くありませんでした。誕生日を祝いに来た、羊飼い達も帰って行きます。後で、祝いに駆けつけた東の国の博士たちも帰って行きます。羊飼い達がいた夜の野原が突然明るくなって、天使たちの歌声と共に、天国の輝きがこの世界にこぼれ出てきたかのような素晴らしさも、やがては見えなくなってしまいます。

 そして、誰もが忘れてしまうような生活の中で、主イエス・キリストの冒険は続いていくのです。実は、クリスマスの大切さはここに隠されています。私たちは、自分の人生の中で、様々な冒険を経験します。危険を冒しながら生きていくということがあるのです。それは、アドベンチャーと言ってイメージできるような楽しいものではありません。けれども、知って下さい。もし、私たちが、そのような命の危険を感じるような経験をする時、誰も私なんか見ていてくれないのではないかというような気持ちでいるとき、イエス様は、まさにそこにいてくださるということを知ってほしいのです。

 イエス様は、天国で持っておられたすべてのものを捨てて、私たちのところに生まれて下さいました。イエス様は、自分自身を私たちへの贈り物としてこの世界に下さったのです。それは、私たちと共に生きるためです。私たちが孤独でなくなるためです。私たちが、自分の本当の生き方を取り戻すためです。ここに、クリスマスの贈物の意味が込められています。もし、私たちが、このクリスマスにお生まれになったイエス様をずっと見続けていくなら、本当に生きるということがどういうことなのかが分かるのです。そして、それが、私たちがこのプレゼントを頂いたということにもなります。なぜなら、イエス様は私たちに、生きる見本を見せるために来て下さったからです。

 クリスマスの夜、羊飼いたちは「飼い葉おけに寝ておられるみどりご」を見つけました。それは、誰でも近づくことができるところでした。そこにあるのは、牛やロバの臭い匂いと、藁の匂い。寒さを温めるものも藁しかない。本当に、この日生まれた神の御子、イエス様は何にも持たないで、この世界に来られました。あるのは家畜の匂いと、藁だけです。それが、クリスマスになさった、神様の冒険の始まりです。何のために、こんなことをなさるのか。それは、私たち誰もが、近づくことができるためです。

 そうです。イエス様はあなたへの贈り物となるために、大冒険をする覚悟で、この日、この世界に生まれてくださったのです。

 

 お祈りをいたします。

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