2021 年 5 月 23 日

・説教 ローマ人への手紙1章1-7節「福音」

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2021.05.23

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日は先週と同じ聖書のみ言葉が与えられています。同じ箇所を司式者が朗読されるのを聞かれて、牧師はついに、先週どこまで説教したか分からなくなってしまったのかと思われる方もあるかもしれませんが、この箇所はとても豊かな内容なので、二度に分けて、この聖書からみ言葉を聞いていきたいと願っているのです。

 パウロはローマの教会に手紙を書き送ります。パウロは、自分のことを「福音のために選び出され、使徒として召されたパウロ」と言いました。

 私は福音のために召されたと言ったのです。

「福音」― それは、この聖書の時代の人たちには特別な響きを持つ言葉だったはずです。紀元前490年の話ですが、ペルシア戦争という戦いで、ギリシャのマラトンという町に、ペルシアの大軍が攻めて来たのです。その戦いの勝利を知らせる使者が、マラトンからアテナイまで走ったことが、マラソンの起源になっていることは有名です。この戦いの勝利を伝えた時に、その使者は「ユーアンゲリオン」、つまり「良い知らせ」をもたらしました。この「ユーアンゲリオン」という言葉が、「福音」と訳されるようになった言葉です。

 パウロは、この「福音」を知らせるマラソンのランナーとなるべく、神に選ばれて、使徒となったのだとまず伝えているのです。それは、その福音を聞いた人が嬉しくなるような良い知らせなのです。

 そして、パウロは、この手紙で「福音」という言葉を出したかと思うと、すぐさま、この福音とは何かということを、2節から語り始めて6節まで続けています。

――この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、
御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました――

 この部分を読むと、沢山のことが語られていて、なかなか大切なことが理解しにくい文章になっていますが、大事なことを少し整理して理解してみたいと思います。ここで四つのことが説明されています。

 まず、第一にここでパウロが福音と語っているのは、旧約聖書から約束されたことで、御子はダビデの子孫から生まれた者であるということです。イスラエルの民が捕囚を経験し、やがてメシヤが来ると約束されていた、あのダビデの子孫として生まれる神の御子が、主イエス・キリストなのだとまず伝えているのです。

 ところが、この知らせはユダヤ人たちにとっては確かに福音ですが、異邦人にはあまりピンとこない内容だと言えます。ダビデの子孫ということに、それほどの意味を感じないのです。

 それで、パウロは続けて第二にこう言いました。「聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方」

 ここで、パウロはこの主イエス・キリストというお方は、死者からの復活によって、神の子であることがみんなに示されたのだと言うのです。そして、この説明をするために、「肉によればダビデの子孫」「聖なる霊によれば復活によって神の子として示された」と言っています。

 「肉によれば」というのは、人間的に見ればということです。そして、「聖なる霊によれば」というのは、「霊として見ると」という意味になります。つまり、神の霊によって、この主イエスは復活されたお方だというわけです。ということは、この「聖なる霊によれば」復活の力にあずかることが出来るということです。

 パウロがここで告げている二番目のことは、神の霊によって、主イエスは復活されて神の子として示されたお方だということです。この神の霊の働きは、ダビデとは何の関係もない異邦人であっても、神の子とされるという可能性を秘めているのだということです。

 それで、三番目にパウロが語ったのは、福音というのは、「すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらす」ことができるのだということです。

 この福音は、異邦人であるとされるローマの人々にも信仰の従順をもたらすと言っています。この「従順」という言葉は、「下で」という言葉と「聞く」という言葉からできています。誰かの下で、その人に聞くという、まさに主従関係を表す言葉が「従順」という言葉なのです。上に主がいてくださって、その主に聞き従うということが従順なのです。主に従順になる時に、この復活の力にあずかる信仰が与えられると言っているのです。

 そして、最後の四番目に語られているのが6節です。「その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました――」

 異邦人であるあなたがたも、この福音の主である主イエスに招かれて、キリストのものとなったのですと言うのです。 あなたがたは今、使徒となった私パウロと同じように、キリストの僕とされているのだと宣言しているのです。

 パウロは、ローマに宛てた手紙の冒頭から、福音とは何かという、その中心点から記し始めているのです。福音とは、ユダヤ人だけでなく、異邦人であるあなたがたも、主イエスに召されて、イエス・キリストのものとなるということなのだと言っているのです。イエス・キリストのものとなる。この知らせこそが福音、良い知らせなのです。

 先週、教団のある教会から、コロナウィルスでなかなか教会に集えない、この時に教会の人たちに、教会の図書をもっと積極的に利用してもらいたいと考えているので、各牧師たちに、何かおすすめの本はありませんかというメールが届きました。

 それで、私はすぐに、何冊かの本を紹介させていただいたのですが、よく考えてみたら、そこで推薦した本は、私たちの教会の図書にも入っていないので、是非、この機会に教会図書に何冊かの本を入れたいなと思っています。

 その中で、私がおすすめした一冊の本は、塩谷直也先生の書いた、『視点を変えて見てみれば―19歳からのキリスト教』という本です。これは、著者が、大学の入試に失敗したところから始まりまして、この世代の人たちがどうやって福音を知ることが出来るかということを記した信仰入門のメッセージ集です。

 この本の中に、塩谷先生が動物愛護センターからひきとったマルというネコの話が書かれています。生後一年で捨てられて、処分されるところを、引き取ったネコなのだそうです。

 このネコが家に来たばかりの当初、すごい食欲だったのだそうです。
「マル、そんなにガツガツ食べなくてもいいよ。明日の分は明日あげるから。そんなに食いだめしなくてもいいよ!」と言うのですがマルは信じません。彼女は必死で食べ続けるのです。
「フン!どうせお前も私を捨てるんだろう。明日どうなるかわからない。確実な今日のうちに、おなかに貯めるだけ貯め込んでやろう! ガツガツ!」と言い返されている気がしたんだそうです。それで、いつもマルのおなかはパンパンに膨れ上がり、うんこも特大の大きさで、それで肛門が切れてしまって、しょっちゅうお尻から血を流していたんだそうです。
「そんなに食べなくていいよ!明日も餌をあげるから!」
「うるさい!私は誰も信じない!」

 そんなマルとの関係が続いたのだそうです。ところがしばらくすると、マルは餌を少し残すようになってきました。なぜかというと、想像ですが、「私」の存在に目を注ぐようになってきたのだと書いています。「私」への信頼が、それまでのマルの不安を打ち消した気がするというのです。

 そこで、塩谷先生が書いているのは、「信頼」というのは、見える餌だけを信じることではなくて、その背後にある見えない「神」を信じて信頼する。明日も神は与えてくださると信じて、今日必要な分だけをいただきながら、落ち着いた日々を暮らすこと、これが信頼だと言っています。

 この本の中で塩谷先生は信仰に導かれるには三つの段階があると書いています。信仰というのは、まず(1)知識を持つこと。その次に(2)同意すること、そして(3)信頼することだとし、この三つの視点を説明するために、この話をイスにたとえているのですが、その説明によればこういうことになります。

 (1)その奇妙なものがイスだと認識される (2)そのイスは役に立つものであり、それは否定できないものであると認める (3)そのイスに深々と体重をかけて座ってみる

 となり、これが、認識し、同意し、信頼することだというわけです。

 これは主イエス・キリストの福音も同じです。まず、(1)福音の内容を知ること、認識すること。そして、(2)その福音の内容、主イエス・キリストのもたらすものは、自分にとって必要なもの、私に喜びを与え、私の悩みの解決となり、平安をもたらすものだと同意すること。そして、(3)信頼、その主イエスに、自分をゆだねることなのです。

 このことは、聖霊の働きによって私たちに起こることです。今日はペンテコステです。聖霊が私たちに与えられることを通して、私たちは、この主の福音が私たちにとって必要不可欠だと知り、この主に自分をゆだねようと思うことができるようにされるのです。

 パウロがここで福音の最後に語っているのは「イエス・キリストのものとなる」というのは、この主イエスに信頼して、自分のすべてを任せることができるということです。

 ネコのマルが飼い主を信頼することができるようになるには、少し時間がかかります。初めは疑うこともあるし、飼い主は自分には関係ないと思ったこともあるのです。それでも、毎日毎日、共に歩んでいく中で、その信頼が深まっていくのです。

 パウロは、まだ信頼関係の出来上がっていないローマの教会の人々に、まずこの手紙を通して、この(1)認識すること、(2)同意すること、(3)信頼すること、この三つの段階を通して信仰に導かれることを願って書いているのです。

 パウロの手紙を読むことを通して、ネコのマルのように初めは疑いを持っていたとしても、あれ、これは自分と関係あるかもしれない話だとまず、目を上げること。そして、その次に、その福音の知らせを聞いていくうちに、ああこれは私のために語られているのだと分かっていくこと。そして、ついには、このお方に自分のことを全部任せてみようと思えるようになる。そんな出来事が起こることを期待して、パウロはこの手紙を書いているのです。

 もちろん、そのことが起こるのは、聖霊なる神の御業です。聖霊が私たちに与えられることを通して、私たちは信仰に至ることが出来るのです。

 パウロのこの手紙は7節を読むと、「ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。」と書かれています。ローマの教会宛てに書かれていました。しかし、とても興味深いことなのですが、聖書には多くの写本という、書き写されたものが残っているのですが、ローマ人への手紙のこの7節にある「ローマにいる」という言葉が書かれていない写本がいくつも存在しています。この「ローマにいる」という言葉を取ってしまうと、どうなるかというと、自分たちの教会に宛て書かれた手紙のように読めるわけです。15節にも「ローマにいる」と書かれていますが、それらの写本はこの15節の「ローマにいる」という部分も消してしまっているのです。

 そうすることで、このパウロの手紙を、ローマの人たちだけではなくて、自分たちのために書かれた手紙として読みたいと願った人たちがいたのです。

 この「ローマにいる」という部分が無いだけで、この手紙を読む人たちはほとんど問題なく、自分たちに書かれた手紙だと思って読めるほど、パウロがこの福音を丁寧に語ろうとしていることが分かるのです。

 それは、今に生きる私たちも同様です。この手紙を通して、私たちは福音そのものを知り、この福音の内容に同意して、この主イエス・キリストのものとなる、主に所有された僕として生きる喜びがあるという信頼を、私たちもまた知っていきたいのです。そして、この主に信頼し、私は主のものとされているのだということを、パウロと同じように、私たちの誇りとしたいのです。

 お祈りをいたします。

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