2021 年 6 月 6 日

・説教 ローマ人への手紙1章8-15節「信仰に励ましを受けて」

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2021.06.06

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 皆さんは、富士山をご覧になったことがあるでしょう。先日、関東に車で行った際に、富士山を見ながら走るのをささやかな楽しみにしていたのですが、残念ながら天気が悪くて全く見ることができませんでした。

 「表富士」とか「裏富士」という言葉があります。山梨県側から見る富士山は裏富士なんだそうですけれども、山梨県の方々からすれば、こっちが表だと思っておられるようです。考えてみたら当たり前のことですけれども、表とか裏というのは、誰が決めるのかということになります。みんな自分を基準で考えるわけで、いわゆる表側の、高速道路や新幹線が通っている静岡県側から見る人が多いので、なんとなく、表富士という言い方が、多くの人に支持されているようです。

 私は東海聖書神学塾で、聖書解釈学という講義をしているのですが、先日そこで、この富士山の見方という話をしました。それは、別に何か特別なことなのではなくて、まず富士山の見方には三種類あるという話をしました。まず一番目は、富士山の全体像を眺めるということです。この見方が、富士山のもっともポピュラーな見方です。けれども、二番目の見方としては、実際にその山道を上ってみるという見方があります。そうすると、ひたすらごつごつした岩場を何時間もかけて登らなければならないわけです。そこからは、山から周りの景色は見えても、富士山自体はそれほど綺麗ではなくて、富士山の厳しい現実を知ることになるわけです。そして、三番目の見方としては、さらに詳しく観察してみるということもできると思います。富士山の石はどういう石なのかとか、酸素の濃度はどうだとか、標高何メートルかを超えると木が生えなくなるとか、詳しく見るとさらにそこで見えてくる世界があります。

 ちょうど、この三つの富士山の見方があるように、聖書を読む時にも、それぞれ見方が違うのだという話をしたのです。

 パウロは、ローマの教会に手紙を書き送っています。なぜ、手紙を書くのかというその目的をここで記しています。11節ではこう言っています。

私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。

 パウロもローマの信徒たちも、共に主にある信仰に生きている人たちです。それは、言ってみれば一緒に富士山に登頂する仲間のようなものです。その仲間たちが、力強く山を登り続けることができるように、「あなたがたを強くしたいから」とパウロはここで言っているのです。

 それは、ある程度、その道を歩んできた先輩だからこそ、教えられるさまざまなノウハウがあるということです。その自分のノウハウ、この聖書の言葉でいえば「御霊の賜物」を分け与えたいのだというわけです。

 けれども、それだけではないとパウロはここで語っています。それが、続く12節です。

というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

 このパウロの言葉に、私は驚きを覚えます。パウロは異邦人伝道の先駆者です。しかも使徒として主に召されているという、自覚もあるのです。そのパウロがここで、私は、これからあなたがたにいろんなことを教えてあげるからねという、言ってみれば「上から目線」で語ることも出来るわけですけれども、パウロはここで、私も同じ山を登っているので、あなたがたと一緒に上りながら、励まし合っていきたいのだと言っているのです。

 ここで使われている「共に励ましを受けたい」という言葉は、ちょっと変わったギリシャ語で書かれています。「スンパラカレイスタイ」と書かれているのですが、これは聖書の中でここにしか出てこない珍しい言葉で「スンパラカレオー」という動詞からきています。「スン」というのは「共に」という意味です。「パラ」は「傍らに」と、そして「カレオー」というのは「呼ぶ」という言葉です。

 「一緒に傍らにいて、呼びかけ合う」。もうすぐ、オリンピックが行われます。このコロナ禍で、やめた方がいいとか、いろんな意見がありますが、そういう選手たちの傍らで、いつも声を出して呼びかけている監督や、コーチたちの姿を私たちは目にします。

 一緒にその競技を戦い抜く仲間です。ただ、このスポーツのイメージだと、選手がメインで、声をかけるのはもっぱらコーチや監督というイメージになりますが、この聖書の言葉は、どちらも声をかけあうわけです。一方的に声を出すのではないので、選手のように考えると少しイメージが変わるかもしれません。

 ですから、一緒に山登りをする仲間という方が、このイメージには近いのかもしれません。途中で疲れてしまう。足をくじいてしまう。空気が薄くなってきて苦しくなる。体が冷えて動けなくなる。山を登る時にはいろんな事が起こるのですが、一緒に声をかけて励まし合って、山頂を目指して一緒に進んで行くのです。

 パウロは、私も登頂者の一人だとここで言っているわけです。自分はもう一回登り切っているので、自分はもう大丈夫などとは言わないのです。

 山に登るためにどうしても必要なのは、地図とコンパスです。まず、ゴールまでの全体像を示す必要があります。これが、聖書を読む時にどうしても必要な最初の視点です。だから、パウロはこの手紙を通して、福音の全体像を示そうとしているのです。

 そのように、聖書を読む時には、その書物の全体像をつかんでおく必要があるわけです。私が時々皆さんに勧めている「まず聖書を一回読んでみてください」というのは、そのためです。分からなくてもいいから読み進める。そうすることで、聖書の全体像をつかむことができるようになるからです。

 今、水曜日の学び会で「ざっくり学ぶ聖書入門」をしています。予定ではあと3回ほどで、旧約聖書を終える予定です。HPからご覧いただくことができますので、ぜひ、用いていただきたいのですが、こういう学びも、聖書の全体像をまずつかむために必要なことです。

 なかなか教えるほうも大変なので、そういうことをする教会が少ないのかもしれませんが、せっかくオンラインでいろんなことができるようになりましたので、この機会に、自宅にいながら聖書を学ぶことができますので、ぜひ、用いてみてください。

 けれども、このように聖書の全体像が見えてきたとしても、それだけでは十分ではありません。自分の肌でそれを感じることが必要です。それが、実際にその御言葉に生きてみるということです。富士山の全体像を見て、これはすばらしい、美しいということが分かるのと同じように、聖書が語る信仰の世界が素晴らしいものだと分かっても、実際にこの聖書のように生きてみると、分からないことが沢山あります。全体像をつかんだだけでは見えてこないことが沢山あるのです。

 昨年洗礼を受けたAさんは先日94歳になられました。体の節々が痛くて、なかなか治らないのです。よく電話を頂いては、その苦しさを訴えられます。昨日のことです。また、そのことを電話で話していました。「何度も何度も聖書を読んでも、ちっとも痛みがなくならない。お祈りしても、直らない。辛くて辛くて仕方がない」と訴えられます。「薬を飲めば少しは楽になるけれども、薬には頼りたくないし」と言われたのです。それで、私が「私もヘルニアがあって、毎日6時間おきに痛み止めを飲んで、もう2年になりますよ」と話しました。

 そうしたら、突然、びっくりされて「長年の悩みが今解決しました」と言い出したのです。
「どうしたんですか?」と聞きますと、「私は牧師さんみたいな人はもう痛みとかそういうものは全然ないんだと思っていた」と言うのです。でも、牧師さんでも痛みに苦しみながらお薬をのんでいるんなら、私もこれから安心して薬を飲めます」と言われて、喜んで電話をお切りになられました。私も、まさか、こんな「私も薬飲んでて」という話で、そんなに感動されると思っていなかったので、驚いたのですが、とても嬉しく思いました。

 「共に励ましを受ける」ことが出来たのです。

 信仰の歩みというのはそういうことです。お互いに傍らにいて一緒に声をかけあう。この姿勢が、どうしても必要なのです。パウロ先生だから、高みにいるとか、牧師だから痛みがないとか、そんなことはないのです。お互いに弱さがあります。お互いに励まし合いが必要です。そうやって、お互いに声をかけあいながら、励ましを受ける時に、私たちは、その信仰の道を諦めることなく進み続けていくことができるのです。

 そして、パウロはこう述べたのです。13節です。

兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。

 パウロは、ここで、私は本当にあなたがたのところに行きたかったのだと、書いています。やはり、一緒に歩みをともにしながら、その傍らで励まし合うことが出来れば一番良いのです。そして、実際に、パウロは第三次伝道旅行で、各地の教会を訪ねて献金を集めてエルサレム教会を訪ねたように、このためにもローマに行きたかったのだといいます。ちゃんと、行く理由もあるのだというのです。

 そして、前回お話したように、自分は主に負い目もあるというのです。つまり、ローマを訪ねる理由をパウロはここで四つあげているわけです。

 ローマの教会を強くしたい。そして、ともに励ましをうけたい。献金を集めるという役割もあるし、なによりも、主の僕としての責任感もあるというわけです。このために、いつも、ローマのことを覚えて祈り、何とかしてローマの教会に行きたいと祈り続けて来たのだというのです。
 ここに、パウロの人となりが良く表されています。教会の人たちと共に生きようとしている、一人のキリスト者の姿があります。

 共に信仰の励ましを受ける。この姿勢が、私たちにはどうしても必要です。それは、私たちの主もそのように歩まれたのです。弟子たちと寝食を共にし、ともに旅をなさったのは主イエスご自身でした。私達も主の弟子です。私達も、キリスト者です。キリストの者とされた私たちも共に、励まし合いつつ、信仰の歩みをともに歩んでいきたいのです。

お祈りをいたします。

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