2021 年 7 月 11 日

・説教 ローマ人への手紙2章1-11節「神の慈しみ深さ」

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2021.07.11

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今、私たちはパウロの記したローマ人への手紙のみ言葉を聞き続けています。今日から第2章に入ります。パウロは、この手紙の第1章で、罪の闇の濃さと言いましょうか、その闇の深さを語っています。神の義、神の正しさから離れたところにある、私たちの生活の在り方を正しいとする世界が、どれほど闇に覆われているか。それがどれほど醜いか。そして、どれほど神を悲しませているかを語りました。

 そして、今日の第2章の冒頭で、パウロは畳みかけるようにこう述べています。

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。

 ここまでのパウロは、ギリシア人たちの日常生活の悲惨さ、罪の醜さというものを語ってきました。それを聞いた教会の人たちは、「そうだそうだ、こういう罪はよくない」とパウロに同調して聴いていたと思います。ところが、この教会の人たちに対して、パウロは急に向きなおり、「あなたがたも全く同じなんですよ!」と言い出したのです。

 パウロがここで語っているのは、人をさばくということについてです。

 この人はどうしようもない罪人なのだと人のことを断罪することの恐ろしさを語っています。

 先週も私たちは、ある大臣がコロナ対策の休業要請に協力しない飲食店に金融機関から圧力をかけさせるという発言をしたというニュースを耳にしました。そして、その大臣の発言をめぐって、色んなところで叩かれています。

 もちろん、かなり問題の発言ですが、そうしますと、今度は寄って集って、みんなで猛バッシングを行うわけです。

 こんなニュースは毎週、色んな所で起こりますから、すでに慣れっこになっているところもあります。
 一度、この人は悪いと決めつけられると、鬼の首でも取ったかのようにして追いつめていくのです。それが、人を裁く者の姿です。

 これは、もちろん、私たちの日常生活の中でもごく当たり前に繰り返されます。教会の中でも同様ということになると、これはかなり問題で、もはやキリスト教会ではなくて、「キリステ教会」になってしまいます。

 パウロがここで語っているのは、神の慈しみ深さです。
4節

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。

 悪の出来事、というか悪いことが私たちの目の前で起こりますと、私たちの目が、どこに向けられるかというと、その人の犯した過ちです。その人の罪の大きさです。これは、とんでもないことをしているぞ!と大騒ぎしてしまいます。

 けれども、パウロが言っているのは、ここで見なければならないのは、その時、神の心はどうだと思うのかということに目を向けるようにということです。

 そして、パウロはここで、神は慈しみ深いお方なのだと言っているのです。

 神の慈しみとはどういうことでしょうか。この言葉は、ギリシャ語で「クレストテース」という言葉です。「クレストス」という言葉があります。これは「善」とか「良い」と訳されることのある言葉です。そして、この「クレストテース」は「慈しみ」というだけでなくて、「善意」という意味にもなります。神が人に示される善意というのは、その人の罪を罰しないというところに現れるのです。

 皆さんの中にはこの「クレストテース」という言葉を聞いた時に、「クリストス」という言葉をイメージした方もあるかもしれません。神がこの世に送られた「キリスト」という言葉を連想させる言葉でもあるわけです。

 「クリストスはクレストテース」、「キリストは慈しみ深い方」というイメージに深く結びついているのです。この世界に神から遣わされたキリストは、私たちの罪を赦すために来られた、まさに神の慈しみ、神の善意の現れであられるお方なのです。

 ある人はこの言葉は「親が子どもの心を何とか目覚めさせようとする心」と説明しました。とても、分かりやすい説明です。ただ、罪に目をつぶって、そのことを問わないのではないのです。親が子どもを信じて目覚めるまで忍耐する。そういう意味があるのだというのです。この言葉は、だから、忍耐と言う言葉とセットになって使われることが多いのです。そして、パウロはその後に寛容という言葉を補っています。

 神の慈しみというのは、人間が罪から、その過ちから回心することを期待しつつ、忍耐と寛容をもって見ていてくださるということです。すぐに、ジャッジするわけではないのです。慈しみというのは、そういう言葉です。まさに、「親である神が、子どもである私たちの心を何とか目覚めさせようとする心を持って見つめてくださる」ということなのです。

 すぐに、この人はどうしようもない人だと判断することは簡単にできます。けれども、それだと、人を白と黒に分けてしまうだけのことです。そして、ダメだと言われた人は、行き場を失ってしまいます。

 けれども、神はそういう裁き主ではないというのです。私たちの主は、心の大きなお方です。じっと、私たちを見つめながら、私たちが転んだ時に、すぐに手を差し伸べるのでもなく、すぐに立ちなさいと命じるのでもなく、その人が、その人として立ち上がってくるのを、信じて、期待して、見守ってくださるお方なのです。

 パウロは、1章までのところでは「彼ら」と言っていたのですが、この2章から「あなた」と語りかけています。これには、当時のローマの教会の人々も驚いたに違いないのです。ここで、人をさばくと言われるのは、ローマの教会の人々だったのです。そして、その多くは、ローマの教会に集っているユダヤ人たちを指していました。

 ユダヤ人のキリスト者たちは、罪深いのはこのローマに住むギリシア人たちで、自分たちは正しい者の側にいると思っていました。けれども、そうやって、人を裁いていく、人を断罪していくということは、慈しみ深い神の御心とは、正反対のことをしているのです。そういうことをすることで、神のさばきを自分の方に、引き込んでいる、自分の上にどんどん積み上げることになっているのだとパウロはここで、警告しているのです。

 9節にこうあります。

悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、

 この前の8節に書かれている、神の怒りと憤りが、ユダヤ人をはじめとして、ギリシア人にも下るのだと言っているのです。

 これは、ユダヤ人たちからすれば、かなりショックな発言だったに違いないのです。というのは、自分たちは神の民、神の側にいるので、神の怒りは自分たちには下らないと考えていたのです。

 けれども、この大きな思い違いに気づかなければならないと、パウロは言っています。

 神は、慈しみ深いお方です。すぐにブチ切れてしまって、いつもプンプン怒ってばかりおられるお方ではないのです。それなのに、神を、いつも怒ってばかりいて、人の小さな罪をこまごまと断罪し続けるような方と考えているなら、その考え方で、自分が裁かれることになってしまうのですよと、言っているのです。

 そして、11節にこうあるのです。

神にはえこひいきがないからです。

 こういう言葉は、この文脈の中で読まなければなりません。これは、自分たちは安全パイだと思っているユダヤ人キリスト者に語り掛けているのです。

 つまり、今日で言うと、今ここにいる、私たちキリスト者に語り掛けられている言葉だということです。

 自分は大丈夫だと安心して、人を裁いてしまうような、「キリステ教信者」の人はいませんか?ということです。

 「そんなことばかりしていると、地獄に行ってしまうぞ!」というような脅しをしてしまうようなことを、神は喜んではおられないのです。

 「神様はそういう人をえこひいきしない方だから、気を付けた方がいいよ」という文脈です。

 そんなに露骨な脅迫めいたことはしないのかもしれません。

 けれども、教会の中で、たびたび起こるのは、キリスト者の非寛容な姿です。人の罪を見逃すことのできない、絶対正義の所に、私たちは立ちたがるのです。

 時折お話しすることですが、私がまだ神学生だった時に、つけられたあだ名があります。

 それは、「裁き主直樹」というあだ名です。

 こんな不名誉なことはないのですが、そう言われてもしかたがないくらい、当時、神学校で多少の知識を身に付けて、それで、色んな人たちを裁いていたんだと思うのです。

 言う方は、自分は絶対正しいつもりになっているわけですから、人を裁くことの高揚感みたいなものを感じているのです。

 前回の「ざっくり学ぶ聖書入門」でお話した、ヨナ書のヨナのような気持ちでしょうか。

 「もう何日したら神がこのニネベを裁かれる!」とヨナはそれだけを語りました。そして、その後で、神様が裁いて下さるのを、高みの見物を決め込もうとしたわけです。しかも、神さまは、そのヨナに特別席を準備してくださって、一本のとうごまを生えさせて、日陰を作り、観戦席まで作ってあげたのですから、ヨナはいよいよ喜んだわけです。

 ところが結果は、神はそのアッシリアの首都であったニネベの人たちが悔い改めたのをご覧になられて、その人々をお赦しになられたのでした。

 ヨナは神の裁きの面しか知らなかった。いや、人の罪を赦されるお方だと知っていたけれども、敵国の人々が赦される姿なんか見たくなかったのです。けれども、神はニネベの人々をお赦しになられたのでした。

 正義感というものは、とても厄介なもののようです。

 その正しさが、神にある時、そして、神の思いに私たちが寄り添っているならば、それは振りかざされたりはしないものとして、健全に作用します。

 けれども、ひとたび、それを自分が正義、自分の方が正しいという思いになる時、それは神の意志を離れてしまい、自らを滅ぼすものとなってしまうのです。

 私自身、いまだに、「裁き主」というあだ名がつけられてしまう部分がなくなったとは言えないところがあります。けれども、それは、身を滅ぼしかねないということを、自分自身でも知らなければならないのです。

 神にはえこひいきはないのです。私たちはもう救われているから大丈夫と、神の心を忘れて、人を次々に裁くようなことにならないように、見るべきところを見続けていなければならないのです。

 この「神にはえこひいきがないからです」という翻訳は少し訳しすぎな感があります。もともとのニュアンスは「神は人を分けへだてされることはない」という意味です。

 宗教改革者ルターは、この11節の解説として「神は誰ひとりとして軽蔑され、非難され、捨てられることを望まない」と語りました。

 ルターはパウロの文章をそう読み取りました。「誰ひとり」なのです。ここに神の心があるのです。

 慈しみ深い神は、誰ひとりとして、軽んじられ、非難されることを望んではおられないのです。主は人の非難をご自分の身にお受けになられるために、この世界に来られたお方なのです。

 慈しみ深い主は、私たち弱さのある人間を、何とか目覚めさせようと、忍耐し、寛容深くあられて、私たちが、この神の御思いに気づいて、変えられることをいつも願っておられるのです。

 私たちは、この慈しみ深いお方を仰ぎ見つつ、私たちもまた慈しみ深い者でありたいのです。

 お祈りをいたします。

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