2021 年 7 月 18 日

・説教 ローマ人への手紙2章12-16節「律法と福音」

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2021.07.18

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 我が家には犬がいます。もうすぐ2歳になります。なかなかやんちゃな犬で、躾が思うように入らなくて悩んでおります。一番困っているのは、留守番をさせる時です。

 少し前までは小さかったこともあって、留守の間はケージの中に入れて、外に出かけるのですが、そろそろもう大丈夫かなと思って、ケージに入れないで、そのまま出しておくことがあります。

 午前中くらいの時間であれば、さほど問題はないのですが、少し長い時間家を空けますと、まず間違いなく事件が起こっています。

 夕方に家に帰りますと、犬は私が戻ってきたことが嬉しくて近寄って来るのですが、その日は出てきません。この時点で何かあったのだということが分かるのですが、部屋に入るととんでもないことになっています。

 テーブルの上に置かれていた、薬の入れ物が散乱していて、娘の机の上にある鉛筆やらボールペンは跡形もないくらいバキバキに壊されています。テーブルのものが全て床に落ちているので、テーブルの上に上がったんだということも分かります。

 私が「何やった!」と少し大きな声をあげます。そうすると、犬はおこられることを察知して、ハウスの中に隠れるわけです。

 聖書はこう言っています。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。

12節です。

 律法のない我が家の「さくら」は、「さくら」というのは犬の名前ですが、律法なしで滅びることになります。まず、私の怒りの叫びから始まります。そして、そのまま撫でられることもなく、ハウスの中に入れられてしばらく口もきいてもらえなくなります。部屋をかたづけないといけないので仕方がないのですが、私としてはあれほどむなしい時間はありません。

 こんな犬のしつけの話と同じになるかどうか、疑問があるかもしれません。
 
 パウロがここで言おうとしているのは、異邦人であろうとユダヤ人であろうと弁解の余地なしに、裁かれるのだと言っています。
13節

なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。

 「律法」というのは、神の心です。神の願いです。言いつけを知っているということよりも、その心を理解してそれをするかどうかが大事だというのです。

 ここで、パウロが言いたいのは二つの事です。一つは、律法を守っていれば神の心を理解していることにはならないということです。二つ目は、神の心を行うことが大事だということです。

 我が家の犬は、ご主人の気持ちがよく分かりません。家を綺麗な状態しておいて欲しいという我が家の律法ともいえる、主人である飼い主の心が理解できません。だから、我が家の「さくら」は、直感的に自分が楽しいと思ったことをしてしまって、結果的に弁解の余地なしに叱られることになるわけです。

 実はここに書かれている聖書の話は、これとほとんど同じです。律法が分かっていようが、いなかろうが、そこで尊重されるのは、神の思いです。知らなかったでは通用しないのです。

 その後に書かれているのは、15節で「律法の命じる行いが自分の心に記されている」と書かれていて、そのことを「彼らの良心も証ししていて、」と言われています。

 実は、この言葉のニュアンスは、日本語の「良心」というニュアンスと少し異なります。「良心」というのは「良い心」と書きます。けれども、聖書は人間には良い心は無いという理解です。人間は堕落し、全てにおいて神の思いから離れてしまっているというのが、聖書の理解です。ここでの「良心」というのは、ギリシャ語でもラテン語でも、英語でもみな「一緒に知る、共に知る」という言葉から生まれています。この共に知るというのは、自分のしていることを自分で見ている、知っているということです。善悪の自己判断能力があるという意味です。それは、自分の外から自分を客観的に見ることができるということです。そういう能力が人には最初からあるのだというのです。

 犬にも善悪の判断能力があるのか、そこは多少怪しいところではあります。以前飼っていた犬は、善悪を判断できる心があった気がするんですが、今の犬は、まったくそのそぶりも見せてくれません。一般的に動物には「良心」はないと考えられています。

 ただ、パウロはここで少なくとも人間には生まれつき、そういう判断能力があると言っているわけです。そして、そういう能力があるので、この世界の主人である神の思いに対して、それぞれが、神の心を知っていようが、いなかろうが、自分の心の中にある判断能力を駆使して、決断する必要があるのだと言っているわけです。

 パウロは16節でこう言っています。

私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。

16節です。

 「私の福音」というのは何でしょうか。それは、この後の文章に出てきます「人々の隠れた事柄を裁かれる」ということにかかってきます。

 その人の心の中にある思いを、神は知っておられて、それに応じて裁かれるのだというのです。神はそういう視点なので、神のまえにはユダヤ人とか、異邦人という枠は関係ないのです。「神にはえこひいきがないからです。」とこの前の11節に言われているとおりです。

 大木英夫という牧師の書いたローマ書の説教の中にこんなエピソードが書かれていました。それはある沖縄の牧師に聞いた戦争中の話です。

 「敗戦の色濃くなったころ、アメリカ軍の上陸に備えて沖縄の村人たちは防空壕を造り、その中に避難していました。壕の中は悪臭と飢えと恐怖で、絶望の闇が刻々深まっていくような凄惨な日々でありました。
 この牧師から二つの防空壕に廻った運命を聞いたのであります。ひとつの壕は、最後に自分たちが持っていた手榴弾で全滅し、そこで死ねなかった者たちは肉親が殺し、そして残った者は自決したそうです。ところがもうひとつの壕には、ハワイから戻った老人がいて、アメリカ人は決して鬼ではない、降服して壕から出て行こうと教え、それに従って出て行き、みな助かったというのです。この老人は、ハワイでの経験をもっていたので、戦争中日本の軍隊の宣伝を信じなかったのであります。その生き残った人たちがいま教会にいるということであります」

 このハワイ帰りの老人の言葉が、この人たちを生かしたのだというのです。別の壕にはそのような言葉がなかったのです。ある言葉は人を死に導き、ある言葉は人をいのちに導いたのです。

 律法の言葉はこれと似ています。神のことばを知っているか、知らないか、それによって、その後のいのちが大きく変わってくるのです。知らないということは、それが、自分たちの身に、間違った選択をさせてしまうのです。

 パウロは、私の福音は、その人の心の中に、どういう言葉が支配しているか、その人の心の中にあるもので、人の生き死にが変わってくる。パウロはそう言っているのです。

 その人の中に隠れたものがある。それは、なかなか目に見えないのです。どんな考えがあるのか、どういう行動原理を持っているのか。人の前ではうまく演じることができたとしても、その人の心の中を支配しているものが、その人を生かしています。そして、この世界を創造された神は、人の心の中に、善悪を判断する心をも創造されたお方です。

 だから、知らないでやりました、ということはないとここで言っているのです。少なくとも、何が正しいことなのかを知って、その判断の中で行うのです。それが、人と犬の決定的な違いです。

 私たちは、私たちの価値観で、人の善悪を判断します。そして、神は、神の律法によって、善悪を判断します。神は、人にそれを教えられました。特に、この聖書の中に、神はその神の心を書き記されたのです。
 神は、私たちに必要なものをすべて備えてくださったお方です。そして、その神は、律法を与え、福音を与えてくださったのです。

 神の御心は何か、神の思いは何か、神はその神の思いを、律法に記して、私たちに伝えました。けれども、そこで明らかになるのは、人間は神の思い通りに生きることのできるほど、完ぺきではないということです。そこで、神は律法だけでなく、福音をも与えてくださいました。神は言われるのです。だから、私はあなたを救いたいと思っている。あなたが心の中で良心の呵責を感じ、いつも正しいことが出来ない、自分はダメな人間なのだと、自分に絶望することのないように、神の救済の方法を示してくださったのです。

 それこそが福音なのです。「神が、キリスト・イエスによって、人々の隠された事柄を裁かれるその日に行われる」

 キリスト・イエスはその日、何を行われるのか。その日、主イエスはキリストにより頼んだものを救われるのです。主イエスは、その御業を行われるために、この世界に来られたお方なのです。

 お祈りをいたします。
 

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