2021 年 9 月 5 日

・説教 ローマ人への手紙3章27-31節「誇りではなく、信仰によって」

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2021.09.05

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日のテーマは「誇り」です。私たちがよく耳慣れた言葉で言うと「プライド」ということです。

 今、パラリンピックが開催されております。私は残念ながら見ていないのですが、パラリンピックの男子バスケットが決勝まで進みました。これまでにないことのようです。私は試合を見ていないのですけれども、そのネットニュースを読んでいるだけで、感動して目に涙が溜まって来るのを覚えました。

 こんな文章が私の目に留まりました。「この選手たちはどれだけ練習して、これほどの力を手に入れたのだろうか。きっと本当に厳しい練習を積み重ねながら、この強さを手に入れたのだ」ということが書かれていました。そういう文章に心打たれるわけです。

 そうやって、自分たちの修練の結果として手に入れる力、それは美しいものですし、他の人を惹きつける魅力があります。それは、その人たちの自信となるし、「誇り」としてよいものです。

 「誇り」「プライド」というのは、決して悪いものではないはずです。その人が、自分として、どうありたいか、その目標を掲げて、それに取り組んで、得た力を誇るというのは、誰の心にも感動を与えます。というのは、それは簡単なことではないということが分かるからです。

 そして、宗教というものもそれに似ています。精神をある努力によって鍛えるという考え方があるのです。まさにそのような「行い」を「修める」と書いて、「修行」と言うわけですけれども、行いを徹底して自分のものとして修めていく姿が、人の精神の修練となると考えるわけです。ですから、ほとんどの宗教というのは、どれもそうですけれども、この行いを修めて、あるレベルにまで到達する。そうやって徳を積む、功徳を修める。そうして、精神的に一つ上の世界に上り詰めていくのだという考え方があるのです。

 それは、日本の宗教というだけではなくて、旧約聖書の教え、律法も同じように考えているところがあります。神の民であるイスラエルの人々は、この律法の行いを厳密に行っていくことで、神から義しい者であると認められるような生き方をするべきなのだと考えてきました。これは、人としてはごく自然な流れであったと言っていいと思います。

 ところが、パウロはこの前の21節から26節までのところで、「しかし今や、律法とは関わりなく・・・・神の義が示されました」と語り始めたのです。

 ここで語られているのは、前回話したところですが、神の恵みによってなされたキリストの贖いの業である十字架と復活の出来事、この神の救いの御業が私たちに示されたことを信じて受け入れることで、人は神から義と認められる。そういう、新しい義の道が示されたのだと、ここでパウロは語りました。

 こうすると、すぐに一つの問題が出てきます。それが「誇り」の問題です。それは3章1節ですでに語られた「それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか」という言い方と同じような言い方をしています。この27節では、「私たちの誇りはどこにあるのでしょうか」と言っています。ユダヤ人たちの持っている、あるいは私たちが持っているこの、修行をして手に入れる精神の向上というような、人としての誇りはどうなるのですかということを、パウロはここですぐに取り上げているわけです。

 私たちの教会ではコロナ感染症の緊急事態宣言を受けて、礼拝と祈祷会以外のすべての集会を休会としています。今日もそういう中での礼拝ですので、礼拝堂に集うのをやめて、自宅からオンラインで礼拝されるという方々が何人かおられます。そんな中で、先週の木曜日の聖書の学び会に、しばらく教会に来られていなかった方が、久々に集われました。その方がその集会で、今日の聖書箇所をみんなで読んだ時に、こんなことを言われました。

 「今、家を出ないような生活をしている。そういうなかで、家に閉じこもっていると本当に自分のような人間はいてもいなくてもいいような存在に思えてくる。教会の礼拝にも、集まりにも出られない。そうやって、考えていくと、どんどん自分がいやになって、自分には信仰が無くなってしまったのではないかと思える。そして自分は、『信仰者としてそれではダメですね』と言ってもらった方が、よっぽど楽になれる。そう思って、今日は教会に来た」とその方が言われました。

 それは、その集まりに出ておられた方みんなに共通する思いであり、皆さんもどこかで同じような思いを持つことがあるのだと思います。その方のその質問は、多くの方の心の言葉を代弁するような言葉だと、私も思いましたし、聞いておられた方々も同じように話しておられました。

 私たちは、教会に集うようになって、聖書の話を聞きながら、あるいは毎日自分でみ言葉を読みながら、信仰の歩みをしていく中で、やはり少しでも自分の信仰を誇ることができるような生き方をしたいと誰もが願うものです。キリスト者として恥ずかしくない立派な信仰者として歩みたい。そう願うのは自然なことだと思うのです。そうして、やはり自分の信仰の修練というか、信仰の成熟というものを誇りとしたいという願いは誰にでもあると思うのです。

 パウロ自身、そういう思いに生きて来たのです。ですから、ユダヤ人たちが、そのような誇りを持っているということはよく理解できました。けれども、パウロはここで、そのような人の持つ「誇り」というものは排除されたと言っているのです。

 ただ、ここでのパウロの言い方をよく注意してみてみる必要があります。というのは、この前のところで「義人は一人もいない」と言っています。みな罪びとだというわけです。ですから、そこを読めば当然、人には罪があるのだから、その罪ゆえに人の誇りは排除されるべきなのだということも出来るはずなのです。

 でも、パウロはここでそうは言っていないのです。

 「信仰の律法によって」私たちの誇りは取り除かれたのだと、この27節の最後に書かれています。これは、この前に書かれている24節の「神の恵みにより」ということです。

 ちょっと複雑な話にならないように気を付けたいと思います。この27節の「信仰の律法によって」というのは、今回の新改訳2017で翻訳が変えられたところです。これまでの訳では「信仰の原理によって」と書かれていました。これは新共同訳や、協会共同訳もその理解で「信仰の法則」としています。ところが、新改訳はできるだけ意訳しないで、原文の持つ意味をそのままにしました。これは、新改訳の新しい翻訳の試みでもあります。この原語は「ノモス」という言葉が使われていてこの「ノモス」という言葉は一般には「律法」と訳すのです。ここで「信仰の律法によって」と訳すのは、「主イエスを信じる」ということに集約されているという理解です。

 ただ、「信仰の律法」と訳しても、「信仰の原理」と訳しても意味していることはそれほど変わりません。パウロはここで言おうとしているのは、単純に主イエスを信じるということによってだということです。

 人には罪があるから、誇りを奪うのだというのではなくて、主イエスを信じるということによって、人は神の前に義と認められる。人の努力によってではない。だから、この神が私たちにしてくださった、まさに恵みとしか言えない神のお働きの前では、私たちの誇りというのは意味を持たないのだということです。むしろ、私たちが誇りとするべきなのは神の恵みなのだというのです。

 私たちは自分の義を、義しさを証明しようとする時には、自分の義を誇るものです。自分がどれほど努力したか、自分がどれほど人知れず修行を積んだのか。けれども、それは人に示される「愛」とは残念ながらなりません。その義は人に向かうのではなくて、自分に対する「熱心」となるのです。けれども、私たちがどれほど人に誇れるような熱心さを持って、行いを修めたとしても、修行したとしても、それを神の前で自分を誇ることは出来ません。

 神がして下さった、私たちの前に示して下さった「愛」の前では、私たちの「熱心さ」はかすんでしまうのです。義というのは、神と人の前に示されるもので、それは愛という形を取るもののはずなのです。

 28節にこうあります。

人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。

 そして、パウロはこのことばに続いて、神はユダヤ人だけの神ではないのだと語り続けていきます。ユダヤ人は特別に神に選ばれた民族で、神はユダヤ人のことを特別扱いしてくださる。そのことは、ユダヤ人たちの民族意識の中に深く刻み込まれた考え方です。けれども、パウロはここで、神の新しい義が示されているのだと語っているのです。この神の新しい義というのは、ユダヤ人たちだけではなくて、異邦の民にとっても、この神は愛を示されたのだと言っているのです。

 最後の31節では、

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。

と言っているのです。
 
 信仰によって人は神の御前で義と認められる。そのことによって、律法は、神の御心は成就するのだとパウロは言ったのです。

 私たちは、どうしても自分のしたことを誇りたいと考えてしまいます。それで、私たちの義が立つと思うからです。けれども、その考え方はもろ刃の剣で、私たちを苦しめるものともなってしまいます。というのは、ほとんどの人間は、そこまで完璧に生きることはできないからです。そして、そんな思いが自分に向けられていくときに、私は何てダメな人間なんだろう。自分はどうしてこんなに弱いのだろう。あの人みたいにできないのだろうと人知れず苦しむことになるのです。

 周りの人はみんなちゃんとしているように思えますから、どうしてもこういう苦しみは、なかなか他の人には言い出せません。どうしても、自分を責めたくなってしまうのです。

 けれども、主イエスの愛は、まさにそのような自分を責めたくなってしまう人の心に届くように、永遠の愛の計画を、神は実行に移されました。それが、まさにどん底にいる私たちのところに神ご自身が来てくださるという方法を、神は取られたのです。

 奈落の底に落ちてしまっている人に、そのはるか高みから、ここまで上がって来いと言ってもだめです。しかし、主イエスは、その奈落の底まで降りて来て下さったのです。そんなお人よしがあるか。そう言われても仕方がないのですが、神はそれをしてくださったのです。それが、神の人を救う方法だったのです。それこそが、神の恵みの業、愛の業だったのです。

 クリスチャンとしてちゃんとできない。ぜんぜんクリスチャンらしくできない。そういうジレンマを私たちはいつでも抱えています。けれども、神はそのような私たちを信仰によって義としてくださると言うのです。この信仰というのは、もちろん、私たちがこの神の恵みの知らせを信じて受け取るという意味です。けれどもそれと同時に、神の方でも私たちを信じてくださるということでもあるのです。神が、弱い罪人にすぎない私たちを信じてくださるのです。神の方で、私たちを見つけて、私たちを愛して、かけがえのない存在なのだと私たちを受け入れて下さって、その手を取って、引き上げてくださるのです。

 「もう、私なんか助かったって意味がないので放っておいてください」と言っても、この神の手は、私たちをつかんで離すことはないのです。というのは、私たちの能力にほれ込んで神が救ってくださる、私たちに何か人知れず秘めた価値があるから私を救うというのではないのです。神が私たちのことを大事に思っているという、まったく完全に神の側の思い、私たちへの愛によって、私たちは救われるのです。そして、この神に救われた者を、神は新しい存在としてくださる。新しい人間としてくださって私たちをつくり変えてくださるのです。

 私たちの「誇り」によってではなく、「信仰」によって、まさにそれは神の私たちへの信頼と言ってもいい、神の御思いによって、私たちは救われるのです。

 だから、私は手を放してしまうかもしれないとか、私のことは嫌いになったのではないかという心配を私たちは抱く必要もないのです。神が私を救ってくださる。完全に救い出してくださる。そのことを、私たちは信じるのです。この知らせを受け取るのです。この神の信仰と、私の信仰、これによって私たちは救われるのです。これこそが、神の恵みによって義と認められるということなのです。

 お祈りをいたします。

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