2021 年 9 月 26 日

・説教 ローマ人への手紙4章9-25節(2)「弱まらない信仰」

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2021.09.26

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 「JCE7」と言いますが「第7回日本伝道会議」が2023年に、この岐阜の長良川国際会議場を会場にして行われます。それで、この伝道会議の2年前大会が、オンラインですが、先週24日の金曜日、夜7時から行われました。テーマは「東海の宣教の歴史」です。

 私はその講師をする機会が与えられました。実は、私は講師の交渉係だったのです。そのため4人の先生方に講演を依頼したのですが、見事全員に断られてしまいまして、ほぼ一か月前にこの集まりが決まったということもあって、その時間の無さから、先生方も断られたと思うのですが、私は講師を見つけられなかった責任を取ることになりまして、仕方なく講演をすることになりました。ですから、この一か月の間にいろんな先生のところに資料を借りに行ったりしながら、この尾張と美濃のこれまでの宣教の歴史を学ぶこととなりました。幸いなことに、何とかギリギリで準備を終えることができまして、先日この講演も無事に終わることができました。

 なぜ、そんな話から始めるのかといいますと、今日のテーマは「弱まらない信仰」です。この東海の宣教の歴史がもたらしたものもまた、「弱まらない信仰」だったと思うのです。この「弱まらない信仰」というのは、今日の19節に出てきます。

彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。

 ここでパウロはアブラハムの信仰は弱まらなかったと言うのです。百歳になってもなお、子どもが与えられると信じた。17節に「彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ」とあります。

 この「死者を生かし」というのは、百歳になって、死んだような状態とも言える自分や、妻のサラのような者に子どもが与えられること、あるいは、その後のイサクをささげたということも含まれているのかもしれません。その次の「無いものを有るものとして召される神を信じ」というのは、無いもの、存在しないもの、つまり、今はまだ与えられていない子どもが、やがて与えられること、あるいは未だ手にしていない土地も、やがては与えられると信じることです。

 もはや信じられないという状況になっていても、アブラハムの信仰は弱まらなかったのだと、パウロはここで語っているのです。

 先日の、「東海の宣教の歴史」の講演の中で、私はこの地域に三度、福音が語られてきたけれども、教会が無くなってしまう、信仰が切れてしまうということを経験してきたという話をしました。

 この東海地区というのは、昔の言い方をすれば尾張と美濃という地域ですが、織田信長がキリシタンに対して寛容だった影響もあり、信長の子、信忠はキリシタンとして受洗しています。その後、秀吉によって伴天連追放令が出されます。けれども、この地域は、信忠の子である秀信が家臣と共に受洗します。信長の家族がキリシタンであったということで、秀吉のキリシタン禁制の時代であっても、この尾張、美濃という地域は布教が認められた、いわば特別な地域だったわけです。その後は、松平忠吉が1606年から尾張と美濃をおさめますが、この忠吉もキリシタンに庇護を加えています。ですから、この尾張、美濃という地域は伴天連追放が叫ばれる中でも、布教することが暗黙の了解として受け入れられてきた珍しい地域だったと言えるわけです。

 ところが、その後1661年から、「尾濃崩れ」と呼ばれる出来事を通してキリシタンの大迫害が始まり、この地域のキリシタンは根絶されてしまうのです。これが、一度目の教会が無くなってしまった経験です。

 ところが、約100年後の「宝暦治水」で、幕府が力のある藩の力を奪うために木曽三川の治水工事をさせるのですが、これを担当したのが薩摩藩でした。こうして、この時代に鹿児島の隠れキリシタンによって、この土地にもう一度福音が伝えられます。けれども、この時代は長い鎖国時代ですから、指導する人もいないわけで、だんだんと信仰そのものが姿を変えていってしまいます。

 その後、明治になって、鎖国が解かれると、形の上ではキリシタン禁令の高札が取り除かれ、プロテスタントの宣教が始まります。この岐阜では聖公会が精力的に伝道を行います。明治時代には、南濃地区を中心に一時期19か所の聖公会の講義所ができるわけです。ところが、この聖公会の伝道も結局はそれほど実を結ぶこともないままに、最終的には会堂が一つだけになってしまうのです。

 その後、この地に伝道していったのが同盟福音の宣教師たちでした。これは戦後になってからのことです。この頃になって、ようやくキリスト教の宣教が公に認められるようになります。今年で65年の宣教の歴史ですが、まさに今日の午後は、これを記念する「教団の日」の集いが行われようとしています。同盟福音というのは、岐阜でも、誰も教会を建てないような田舎の地域ばかりで宣教していったのですが、これが奇しくも明治に伝道した聖公会の場所をなぞるようにして、教会が作られていっているのです。

 アブラハムのように、この地域の教会の「その信仰は弱まりませんでした」と言えるかどうかは、私たちにかかっている気がします。

 この地に今四度目の宣教の機会が与えられていることは、この歴史から見ても間違いありません。そして、アブラハムを導かれた主は、この岐阜の土地のことも特別に思っておられて、何度も何度も宣教師を送られてきているのだということが分かります。

 大切なことは、20節と21節に記されています。

不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。

 この信仰に生きることが、やはり私たちにも期待されているのだということです。この500年の間に三度も福音が語られて、信仰者が生まれては、消えていってしまうということを経験してきたのが、この美濃と言われる土地です。不信仰になりそうになる、そういう経験は、アブラハムに限らず、私たちの身にも起こることです。
けれども、「神には約束したことを実行する力がある」このことを、信じるのかということが、今、私たちには問われているのです。

我らが信仰の父、アブラハムは信じたのです。アブラハム自身、何度も失敗を繰り返してきました。決して、完璧な信仰であったとは言えませんでした。約束を待ちきれず、サラからではなく、女奴隷ハガルから子をもうけようとしたこともありました。また、それでも駄目ならと、ダマスコのエリエゼルという僕に財産を受け継がせようともしました。何度も失敗はあるのです。けれども、ここで主が問うているのは一つのことだけです。「信じたのかどうか」

 「神には約束したことを実行する力がある」という、このことを信じたかどうかが、問われているのです。そして、アブラハムは、まぎれもなくこの神を信じたのでした。

 だから22節ではこう記されています。

だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。

 大切なことは、「神は約束を守るお方だ」ということと、「それを実行されるお方だ」ということを信じるということです。

 そして、パウロはこの信仰はアブラハムだけのものではない、私たちのためのものでもあるということを、23節と24節で語っています。

 24節と25節にはこう記されています。

私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。
主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。

 お分かりでしょうか。パウロはこの手紙の中で少しずつ、言い方を変えながらパウロの理屈を丁寧に解いています。パウロはアブラハムの信仰について、「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ」と17節では言っていたのが、この24節では「イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる」というように、話を進めているわけです。

 つまり、私たちが信じるべき「約束したことを実行される方」は、「主イエスを死者からよみがえらせた方」なのだと言っているのです。私たちは、主イエスのよみがえりを信じるのです。

 25節をもう一度見て見ましょう。

主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。

 私たちの主は、私たちの背きの罪を赦すために、主イエスを死に渡され、これを信じる者が、義と認められるために主イエスをよみがえらせらたのだと、宣言しているのです。

 アブラハムの信仰の根底に有ったものは、これなのだとパウロは言いたいのです。「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神」は、主イエスの贖いの死の御業を通して、神の前に死んだも同様の、無いはずのものを、あるものとして、神の前に価値ある者、義なる者として召してくださるのだと言うのです。

 これが、神の恵みの御業なのです。神は、無価値なもの、死んだものに命を与えることがお出来になるのです。だから、私たちの信仰は、弱くならないのです。それは、私たちの側の信仰の大小の問題ではないからです。

 私たちの信仰は、時々大きくなったり、ときどき無くなりそうになったり、そんな感覚が有るかもしれません。強い信仰を持ちたい。もっと深く、もっと力強く信じられるようになりたい。そんな思いを持つかもしれません。

 しかし、私たちの神は「死を命に移されるお方」です。「無から有を生じさせるお方」です。このお方は、「約束したことを実行する力があるお方」です。そして、私たちは、このお方を、私たちの状況に変わりなく、信じることができるのです。

 私たちの状況は次々に変わっていきます。この地域に増え広がったキリスト者たちですが、時には教会がなくなり、人もいなくなることもある。それが私たちの側では起こるのですが、神の側では、その力も働きも何ら変わることはないのです。私たちは、ただ、このお方のことをより深く知り、より確かに知っていくことが大切で、そうすることによって、私たちの側の問題は、それほど大きなものではないのだということが分かるようになっていくわけです。

 主は、500年前のキリシタンの時代も、2000年前のパウロの時代も、変わることはありません。今から4000年前でしょうか、正確には分かりませんが、アブラハムの時代も神は変わらないのです。そのお方が、今も変わることなく、私たちに対して恵み豊かな方であられ、この神は約束をしたことを実現される力あるお方であると、私たちは信じることができるのです。

 この変わることのない主を、見上げながら、弱まることのない信仰に私たちも歩んで行きたいのです。

 お祈りをいたします。

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