2021 年 10 月 3 日

・説教 ローマ人への手紙5章1-11節「恵みによって」

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2021.10.03

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 パウロはこの5章から、新しいテーマで語り始めます。それは、義とされた者、神に救われた者の新しい生活についてです。

 1節

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

 パウロはこの4章までで、主イエスを信じる時に、私たちの罪が赦されて義と認められると語ってきました。この義とされた時に、私たちは平和を持つのだとここで、はじめに語っています。「平和」とは「平安」という言葉です。「平和」がない、「平安」がない。それが、神から離れてしまった人の姿です。けれども、信仰によって私たちにこの待ち望んでいた「平和」を得ることができるようになる。それこそが、新しい生活なのだというのです。

 私たちは、この「平和」を、「争いがない状態」という意味で理解してしまいがちです。けれども、ここでは「平和を持っています」と書かれています。これは「神の前に立つことができるようになる」という意味です。最後に出てくる「神と和解する」ということです。

 そこで、私たちが考えなければならないのは、私たちは完全な正しさ、まさに義なるお方の前に立とうとすると、どうなるかということです。義なる神の御前に私たちが立つ時、私たちは自分の罪を恥じるしかなくなってしまいます。それほどに、私たちの罪と神の義しさの間には大きな淵があるのです。

 今日の1節から11節の中に何度も、義とされる前の私たちの状態のことが記されています。例えば6節「不敬虔な者」とあります。8節では「罪人」と言っています。10節では「」という言い方もあります。これが、私たちの姿だというわけです。

 そのような罪人である私たちは、どうやったら平和を持てるようになるのかと悩みながら救いを求めるわけです。そして、「宗教」に救いを見出そうとします。自分の中にある罪、醜い心、弱さ、ダメな自分をどうにかして何とかしていただきたいと願います。それは、人の持つ真剣な求めです。そのために、修行をするとか、少しでも徳を高めるような生き方をするとか、この苦しみから解放されるために一生懸命に伝道活動や奉仕活動をするとか、高い壺を買うとか、高名な名前をつけてもらうとかして、とにかくできる限りのことをして、何とか安心を得たいと考える。それが、「宗教」の一つの答えの示し方です。

 パウロはここで、「義」とされることで「平和」を得られるのだと語っています。この「平和」というのは、私たちは自分たちの努力によって何とか得られるようになりたいと願うのですが、私たちの努力で得られるものではなくて、神の側から与えられるものだと言っています。というのは、「義」というものは、私たちの努力で手に入れることができないものだからです。

 たとえば、誰かが自分の正義を主張したとします。そうすると、残念なことですがそこに「平和」が生まれることはないのです。平和の反対に争いが起こり、衝突や不和が生じたり、抑圧が起こったりしてしまいます。どこかの宗教が、「聖戦」だと言って自分たちの正義を主張しはじめると、そちら側にいない人にとっては迷惑なことでしかないのです。私たちが通そうとする正義、義では、平和は残念ながらもたらされることはないのです。

 ではどうしたら私たちに平和がもたらされるのか。それは、完全なる義である神の側から、私たちに救いを示されることによって、神の側から赦しの宣言を受けることによってはじめて平和を受け取ることができるようになるのです。

 この神との平和の関係のことを、パウロは2節でこう言っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

 パウロは神によってもたらされた平和のことを、ここで「今立っているこの恵み」と言い換えています。これは、私たちの側で何かができることではなくて、神の側からの赦しと受け入れがあってはじめて成り立つものなので、これを「恵み」という言葉で言い表すしかないわけです。

 こう考えてくださると分かりやすいかもしれません。エデンの園を追い出された人が、もう一度神の楽園に入ることができるようになったということです。「もう一度、エデンの園に入ってもいいよ」という許可は、神しか出すことができません。この新しいエデンの園、神の園のことを、新約聖書の言葉で言うと「神の国」とか「天の御国」という言葉で言い表されています。この神の国は、神さまがご支配してくださる世界ですから、その世界の中はすべて神様の栄光に満ち溢れています。だから、そんな素敵なところに招かれたことは「喜びなのだ」とパウロはここで言っているのです。

 そして、この「喜ぶ」と言う言葉は、2節にも3節にも、11節にも出てきますが、2節と11節のところには注が付けられていまして、そこを読みますと「誇りとしています」とあります。

 この「誇り」という言葉はパウロがよく用いる言葉です。パウロは、これまでの手紙の中でも、何度も自分の誇りについて語ってきました。このローマ書の3章でもこの「誇り」について語ってきました。「自分を誇る」ということの中に、人間の罪の醜さを見てきたのです。自分の栄誉を誇る、自分の業を誇る、力を誇る、知恵を誇る、家名や家柄を誇る。そういうものが、その人のプライド、自尊心となって周りの人を傷つけてしまう。そして、その自分の誇りとできるような素晴らしい美徳のつもりが、かえって神を悲しませてきた、忍耐を神に強いてきたと言っています。そして3章27節で「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました」とパウロは言い切ったのです。

 「誇り」はもはや必要ないと言ったパウロが、ここで改めて「誇り」を語っているのです。けれども、この「誇り」は今や、新しい姿を身にまとうようになりました。それは、私たち自身を誇るものとはならなくなったからです。それは「喜び」そのものなのです。神に与えられた平和が、恵みがどれほど素晴らしいものか、どんなに人間が頑張って手を伸ばそうとしてもどうにもならなかったものが、今は私たちに与えられるようになった。これこそが、「喜びなのです!」とパウロはここで宣言しているのです。

 すると、パウロは続く3節で「苦難さえも喜んでいます」と言って、「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っています」と続いていきます。

 この「苦難さえも喜んでいます」という言葉にみなさん引っかかりを覚えるようです。苦難は苦難としか感じられないからです。主の祈りでも祈るように「試みにあわせないでください」と私たちは祈ります。この「平和」というイメージと、「苦難」というイメージはなかなか一つに結びつきません。その一つの理由は神との平和の中に入れられた、神の支配の中に入れられたのですが、そこは同時に罪の支配する世界でもあるからです。まだ、神の国は完成していないので、そこに生きる者は苦難を味わうことになるのです。

 パウロはここで苦難から忍耐、忍耐から練られた品性、別の言い方では「練達」といいます。そして、そこから希望が生まれると言っています。どういうことなのでしょうか。

 この説教のために、ある方の説教を聞いておりましたらそこでこんな話がなされていました。それは聖歌の中にある賛美で「安けさは川のごとく」という新聖歌252番の賛美の作詞をされたスパフォードという方のことです。この人は1871年にシカゴで起きた大火で、財産をすべて失ってしまいました。そして、二年後、新しい人生を始めようと妻と四人の子どもたちをヨーロッパに送りました。ところがその船はニューヨークの港を出て、6日後、大西洋の真ん中で帆船と衝突してしまい、四人の子どもたちすべてを失ってしまったのです。この悲報を受けて、彼は妻の待つヨーロッパに向かいます。

 その航海中、事故のあった辺りを通過する際、愛する子どもたちを呑み込んだ海を見つめながら、彼は涙がとめどなく流れ、一晩中はりさけるような悲しみを神に訴えたそうです。絶望し、嘆き悲しむスパフォードは、突然、主イエスの臨在を感じる不思議な経験をし、大きな主の平安に包み込まれて心が満たされます。彼の子どもたちは、亡くなる前に、主イエスを信じ、神との和解を受けて、救いへと導かれていました。それゆえに、彼の心は人知では測りしえない平安に包み込まれたのだというのです。その中で、彼はこの賛美歌を作ったのです。その歌詞はこのようになっています。


「安けさは川のごとく」新聖歌252番

安けさは 川のごとく 心浸す時
悲しみは 波のごとく わが胸満たす時
すべて 安し 御神共にませば

悪しき者 迫り来とも 試みありとも
御子イエスの血のいさおし ただ頼むわが身は
すべて 安し 御神共にませば

見よ わが罪は十字架に 釘づけられたり
この安き この喜び 誰も損ない得じ
すべて 安し 御神共にませば

よし天地崩れ去り ラッパの音と共に
御子イエス現るるとも などて恐るべしや
すべて 安し 御神共にませば


 パウロがここで言う「苦難さえも喜んでいます」というのは、このような信仰のことを言い現わしているのではないでしょうか。

 「苦難さえ」とありますが、この言葉は「苦難の中にいても喜んでいます」とも訳せる言葉です。苦難の中にいても、キリストの恵みの中に入れられている。そういう信仰に生きる者とされているのです。

 その苦難の中の喜びを何が支えるのかと言うと、この5節にこう記されています。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 信仰によって与えられた平和は、苦難の中でも希望となる。それは愛が注がれているからだと言っています。信仰と希望と愛という言葉が、ここでつなげられています。

 希望を持つことが出来る。財産をすべて失って、また子どもたちもすべて失ってしまったスパフォードは、その苦難の中で、自分に与えられている信仰を、改めて受け止めなおします。子どもたちはみな、神の御もとにいるという希望を得て、言い知れない平安を経験します。パウロはその心のことを「神の愛が私たちの心に注がれている」と言いました。

 この「注がれている」という言葉は、文法的に言うと、「完了形」で記されています。つまり、もう私たちの心の中に与えられている。神の愛の影響の中にもう入れられているということです。

 神の愛とは、この恵み深い神の愛の心が、私たちの心と一つになるということです。義なる神の心が、私たちの中に注がれたのです。すでに、キリストの血潮によって、キリストの御体を私たちが口にするその聖餐において、この注がれた愛を確認することができます。この神の愛は、聖霊というお方を通して、私たちの中に注がれました。だから、聖霊が私たちの中にもういてくださるので、私たちはこの神の愛の心が、私たちの心の中に注がれて、一つとなったのだということです。

 私たちが「不敬虔な者」であったときに、「罪人」であった時に、そして、「敵」でさえあった時に、この神の愛は私たちに示されました。それが、主イエスの十字架の御業です。

 神は、その自らの義しさのゆえに、罪を、不義をそのままにしておくことができません。その結果として、人は死を刑罰として身に受けることになったのです。それが、今私たちが生かされている世界のことです。けれども、ここで私たちがどれだけ努力したところで、神の義の前に立つことはできないのです。それほどの隔てが、神と私たちとの間にはあるのです。しかし、神は、人を救うために神の方から私たちにその愛の業をはじめてくださいました。神に叱られ、捨てられた私たちを、今度は神の方から大きな犠牲を払ってまで買い戻そうとなさる。そして、もう愛の代価は支払われたのでした。

 10節にこうあります。

敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。

 主が私たちとの和解の御業を行ってくださったのです。だから、この御子の死によって和解されているというのは、確かなことなのだと言っているのです。

 そして、11節。

私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

 神と、私たちとの間にある罪による断絶が、主イエス・キリストによってもう一度結び合わされるようになったのだというのです。この人間の力では架けることのできなかった橋を、キリストがかけて下さったのです。

 想像してみてください。アダムがエデンの園から追い出された時、その後の厳しい生活はまさに、光を失った生活であったはずです。光の神の御もとで生きることを知った者にとって、この世はまさに闇そのものだったはずです。

 それから、ずっと人々は救いを待ち焦がれてきました。それはまるで光の世界から暗闇の支配する無人島に一人で島流しにあったようなものにたとえることが出来るかもしれません。

 そこには希望がないのです。光が見えないのです。そこにはいつも、絶望しかなかったのです。そこで諦めて生きるしかなかった。ひたすら死を待つばかりの生活を味わうことになったのです。

 ところがそこに、ある日、天から橋がかけられたのです。そして、神の御子が降りて来られたのです。そして、言われたのです。あなたの代わりに、わたしが死ぬことを通して、あなたは再び、天に帰ることができると。

 その時人にある思いは、そんなことをしてもらって申し訳ないという思いだけです。そこまでしていただく価値が私にはありません。私の方から神を捨て、神から離れたのですから。それなのに、キリストは言われるのです。「わたしはあなたを愛しているのだ」と。「あなたはこの愛を受け取るか」と。そして、このキリストの御業を受け取った時に、神は私たちを神の国の入り口に招き入れ、もう入ってもいいよ。あなたの死の呪いを、闇の支配をわたしは解き放ったのだと言ってくださるのです。しかも神は一方的に、この神の業を完成してくださったのです。この時から、私たちと神との和解が、仲直りが成立したのです。そして、いつでも神の国に入ることが出来るように、神の光を感じることができるように、神の愛が私たちに注がれたのです。聖霊が与えられたのです。

 この物語が、今日、私たちに示されている物語なのです。

 神の恵みが主イエスの十字架の業を通して私たちに示されたのです。この神の愛が注がれるのです。そして、私たちは神から義と認められるというのです。このことが神と私たちの間で成立するために必要なことは、ただ一つ「信仰」です。「信じて受け取ることです」

 そして、このしるしが今、私たちに示されているのです。それが聖餐です。この神との平和がどれほど大きなことなのか。どれほど確かな平和なのか。私たちがどれほど確実に救われているのか。私たちは、この平和のすばらしさを、今小さな器とパンを通しても味わうことができるようにされているのです。

 この神の恵みの御業を、心から喜んで受け取ることを、主は期待しておられるのです。

 お祈りをいたします。

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