2021 年 10 月 31 日

・説教 ローマ人への手紙6章15-23節「罪の支配と義の支配」

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2021.10.31

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 パウロの手紙は、このところで何度も何度も同じ言葉を繰り返しています。同じことを繰り返して言うというのは、そこのところがパウロの言いたいところだからです。今日の箇所で何回も出てくる言葉は何かというと「奴隷」という言葉です。そして、人はみんな何かの奴隷となっている。何かに支配されているのだということを、ここで繰り返して語っています。

 今日の箇所で、パウロが言おうとしているのは難しいことではありません。私たちは罪の奴隷なのか、神の奴隷なのか、罪に支配されているのか、神に支配されているのか、どちらかの生き方しかないのだと言っているのです。そして、神に支配されるということは、神の、あるいは義の奴隷となることだと言うのです。

 「奴隷」というのは、とても強い言葉です。「あなたは義の奴隷です」と聞いてうれしい気持ちになるという人はあまりいないと思うのです。奴隷という言葉に良いイメージがないからです。

 この奴隷というのはどういうことかというと、16節では「従順の奴隷」という表現もされていますが、この「従順」とか「服従」という言葉がここで何度も繰り返されています。繰り返されているということは、このことを、パウロはここで大事なこととして語ろうとしていることが分かります。

 私たちは誰でもそうですが、何かに支配される生活なんてまっぴらだと考えていると思うのです。自由でありたいとどこかで考えています。けれども、私たちはそうやって自由にふるまっているつもりで行動するわけですが、実際には罪に支配されていて、そういう生き方は恥ずかしくて人に見せられないような生き方になっているのだとパウロはここで語っています。そして、その義から自由に生きた結果は、死へ続く道に至るのだと言っているのです。それが、人の姿なのだというのです。

 パウロは今日の箇所で色んなことを話していますが、罪の奴隷として生きるか義の奴隷として生きるか。人にはその二つに一つの道しかないのだと言っています。これが、今日の箇所の中心的なところです。

 罪の奴隷としてではない、もう一つの生き方のことをパウロは「義の奴隷」として歩むと言っています。義の奴隷というのは、神にお従いして生きるということです。神のしもべとして生きるということです。そして、その生活は具体的にどういうことかというと、19節にあるように、「その手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい」ということです。聖なる生き方をしようと勧めているのです。

 ただそうなると、そこで問題が起こります。「聖潔に進みなさい」とか22節では「聖潔に至る実を得ています」という言い方がされているのですが、ここに来ると私たちは立ち止まってしまうのだと思うのです。いかがでしょうか。

 先日の祈祷会で、この聖書を学んだ時に、「これは努力目標でしょうか?」と質問した方がありました。うまい言い方だなと思います。ある意味で、確かにこの言葉は私たちの努力目標と言ってもいいと思います。

 ただ、「努力目標」と言った時に、どこまで目指すかは完全に私たち次第ということになります。100点を目指す聖なる生き方をすることもできれば、10点でも仕方がないよねということも可能です。そして、どこまでを目指すかは、完全に私たちに任されていると言えるわけです。

 そうなると、大きな問題が起こります。先日もある方が言われたのですが、これは律法的な響きがあるのではないかという気がしてくるのです。ちゃんとやりなさいというのは、律法主義的な勧めであるように思えるのです。その時、ちょうどその日の朝に、我が家で起こった会話の話をしました。

 4年生の娘が朝、こんな話をしました。「今日は体育があるけれども、先生がいなかったら国語のテストをすると言われた」というのです。それで、私は「それならまだ時間があるから少し漢字の復習をしておいたらどうか?」と娘に勧めました。けれども、娘はそんな勉強なんかしたくないわけで、ぐずる娘に、私が究極の言葉を口にしてしまいました。「それで、勉強しないで悪いテスト持って帰って来たらどうなるか分かっとるやろうなぁ!」と言ってしまったのです。あまりいい父親とは言えませんね。私の性格の悪さが暴露されているようなものですが、そんな話をしていたわけです。

 この聖書箇所も、この話と少しどこかで似ている気がするのです。神様は、性格の悪いお方ではありません。けれども、神様の思いとしては、私たちにキリスト者として聖潔に歩んでほしい。できたら100点を取るような者になってほしいと考えておられるように思えるのです。

 パウロはここで、そのことを言っているようにも読めるのです。「ちゃんとやらんかったらどうなるか分かっとるやろうな! お前は神様の子どもなんやから」ということです。

 言わないといけないことだからパウロはここで心を鬼にして言っている。そのように読むと、それを聞いた私たちも「えーそれは、努力目標ってことでいいですか?」と答えたくなってしまいます。

 ただ、もしこの聖書の箇所がそう語っているのだとすると、それは恵みの言葉でも何でもありません。ここで言われていることは確かに、私たち個人個人の応答にかかっているということは言えます。だから、私が、娘にちゃんとやれよと言うように、皆さんにも、「ちゃんとやらんかったらどうなるか分かっとるやろうな!」とすごんで見せることもできるのかもしれませんが、そんなことを言われてやる気になる人はあまりいないと思うのです。それは、福音としての響きが何もないからです。

 そこで、改めて15節を見てみたいと思います。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。

 ここで言われていることは言わずもがなです。そんな風に言うクリスチャンはいないと思うのです。「私たちは神様に罪を赦していただいているので本当にありがたいです。だから、もう少し好き勝手やらせてもらいます」と言うような人はあまりいないと思うのです。

 ただ、ここで言おうとしている気持ちは少なからず分かる気がするのです。もう、私たちは赦されています。私たちは神様から罪が赦されて、神さまと和解して、永遠のいのちをいただきました。この事実は変わりません。このことに間違いはないわけです。ただ、そういう中にあって、私たちは罪を積極的に犯していこうとまでは思わなくても、ほどほどにやっていけたら良いかな?くらいのことは考えるのだと思うのです。

 100点満点を取れる信仰生活ができるとまでは言えないけれども、50点くらいで許してもらえないかなとか、そんな感覚は誰にもあるのではないでしょうか。

 そこで考えるのは、それでいいのか?ということです。神様はそれでいいと思っているのだろうかということです。この私たちの、応答責任と言いますけれども、人によって程度問題となるこういうテーマですが、まずそこで私たちが驚くのは、そういうことも全部ひっくるめて、神さまは全部私たちに託しておられるわけです。神様に私たちは信用されているということです。

 そうすると、私たちはそこで驚くのです。もし、私たちが誰かに、「あなたは100点を目指していると言えますか?」と聞かれると「すみません・・・」としか答えられないのではないでしょうか。人に対してまったく偉そうに言うことができない部分と言うのは誰にでもあると思うのです。もし、隠しカメラで私たちの生活が全部明るみに出るとしたら、もう恥ずかしくて教会なんか行けませんということになると思います。

 「いや~あの牧師の生活ぶりを見たけど結構酷かったねぇ・・・がっかりしたわぁ・・・」となる可能性はかなり高いです。それも全部ひっくるめて、神さまは私たち罪深い人間を、義としてくださったのです。もうわたしが赦したよ。あなたの罪を問わないと主は言ってくださるのです。そして、これを聖書は「恵み」というのです。もう、それは「恵み」という言葉でしか表現できないものです。

 更に、パウロはこの17節でこう言います。
神に感謝します」と。何を感謝しているかというと、「義の奴隷となったこと」を感謝しているわけです。でも、奴隷になるというのは、感謝できるような気がしません。あまり良いイメージのない言葉です。奴隷にいいイメージがないのは理由があります。それは、奴隷には、意思決定権がないということです。義の奴隷と言われても、私たちはあまりピンときません。けれども、まさにこの、私たちが義の奴隷であるということこそが、私たちへの福音なのです。

 18節でこう言っています。

罪から解放されて、義の奴隷となりました。

 パウロによれば、この義の奴隷になったということを悪いこととは全く考えていないようです。その理由は罪の支配から解放されたからだというのです。

 私たちが意識しようと、意識しなかろうと、罪が赦されたということは、私たちの意思決定は神の支配の中に移されているということです。私たちは、主のもの、主の所有となったのです。それが、洗礼を受けるということです。主イエスという太い幹に私たちは接ぎ木されて、主とひとつになったのです。この、主イエス・キリストが私たちの主なのであれば、私たちはそのしもべということになります。この「しもべ」と「奴隷」というのは、同じ意味です。同じ言葉です。まさに、そのようにして私たちは主のものとされたのです。

 この「奴隷となる」という言葉が16節にあるのですが、これは受身形で書かれています。「奴隷とされた」「しもべとされた」ということです。

 現代の私たちには、奴隷という身分は一般的ではありませんし、あまり具体的にイメージすることもできません。どうしても、ひどい扱いを受ける虐げられた人というイメージになってしまうと思うのです。しかし、当時のローマ教会には多くのしもべや、奴隷たちも来ていたと思います。もちろん雇い主の人も一緒に来ていたでしょう。そして、その中の多くは良い主人に巡り合うことのできた人もいたはずなのです。

 パウロはそのことを「人間的な言い方をしています」と言いながら、そう説明することがイメージしやすいだろうと考えていたようです。

 奴隷は、主人の言うことに従うのが務めです。やるかやらないかではなくて、やるという選択しかないのです。その仕事をすることで生きていくことができるのです。今でいえば会社の社員のようなイメージも含まれていたかもしれません。

 そして、私たちが「義の奴隷」になったということは、もう、この神に従うという選択しかなくなったのだということなのです。

 では私たちは、しもべとして具体的に何をするかというと、「聖潔に歩む」ということだと、パウロはここで言っています。

 「聖」というのは、「別にする」ということです。例えば、モーセの時代の幕屋の中には、聖なる器という、礼拝のために使われるいくつかの金で作られた洗盤とか、燭台というものがありました。あれは、聖別された器、機材です。神様の働きのために特別に分けられているのです。

 「聖潔」に歩むということは、神様のために取り分けられているのが、私たちなのだということです。私たちはこういう字を見ると、「倫理的に清い生き方」とか「道徳的に崇高な生き方」というような、できもしないような難しいことを意識してしまうわけですが、神様が喜んでくださるような生き方、あなたのために十字架で死んで良かったと思ってもらえるような生き方をしていくということです。

 そして、そのように生きることができるように、私たちを神のものとして、神の方が私たちを取り分けてくださったとういうことなのです。神様のとっておきです。まさに、スペシャルな存在として、私を神のしもべ、奴隷としてくださったのだというのです。

 だから「感謝する」ことができるわけです。この性格の悪い自分のような者であったとしても、神さまは、私たちのことを特別な存在なのだと期待してくださるということなのです。これは、本当にただただ、ありがたい、感謝、恵みとしか言えないことなのです。

 私たち自身が「神の道具」として、あるいは今週の言葉でいえば「義の奴隷」ということになると思いますが、その「義の奴隷」とされるというのはどういうことなのでしょうか。

 自分自身が神のものであると、どこで自覚を持つことができるかということです。

 たとえば、会社に就職した時に、私たちはその会社の社員であるという自覚と責任を持つことになります。自分が、どこかで何かをすれば、会社のイメージを損なうことになるということです。牧師が何かをしでかしてしまえば、それは教会や、教団の問題となるわけです。ですが、根本的に教会が会社と大きく異なっているのは、人はそれで大きく躓いたり信頼を失ってしまったりすることがあるかもしれないのですが、神はそれでもその人をご自分のしもべとして愛し続けてくださるということです。

 信じられないような信頼を、神は私たちに寄せていてくださるのです。ありえないような心で、私たちを受け入れてくださるのです。

 今日の聖書は最後のところで、こう言っています。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 
 奴隷は、二人の主人に仕えることはできません。罪という主人に仕えていた時は、その先に待っていたのは死しかありませんでした。けれども、その私たちを神は主イエスという代価を支払って買い取ってくださって、神のしもべとしてくださいました。それだけでも素晴らしいこと、喜ばしいことです。

 真っ暗闇で、どの道を進んでも死や滅びしか見えてこない人生を歩んでいた私たちに、ある時、私についてきなさいと、光の神が私たちを光のもとへ、いのちの方へと、私たちを導き出してくださったのです。これは、どれほど私たちに安心を与えることになるでしょう。私たちは、全然嫌な気持を持つこともなく、喜んでこのお方についていくことができるのです。

 私たちの主人は、私たちを鞭打つのでもなく、くさりに縛り付けることもしない。私たちを完全に信頼してくださるのです。そして、私たちと一緒に働いてくださる。いつも一緒に、何をするのも励ましてくださるのです。まさに、特別待遇です。

 我が家には「さくら」という名前の犬がいます。一日に2回朝と夜に散歩に行きます。食事をあげます。それだけしかしてあげられないのに、犬は私が行くと喜んで尻尾をふって迎えてくれます。それで私は十分嬉しいのです。

 犬でも、主人のことは良く分かるのですから、私たちは尚のこと、主人のことをよく知る必要があります。一緒に食事をし、一緒に散歩をし、一緒に生活をする。その中で、私たちはどんなにこの主に愛されているかがよく分かってきます。いつも励ましてくださるし、いつも支えてくださるし、いつも慰めてくださるお方です。そして、いつも正しく、義の道へ私たちを導いてくださるのです。

 私たちの主はそこまでしてくださるお方だから、私たちも、この主人に対して、自分自身を献げて喜んで応えていくことができるのです。

 お祈りをいたします。

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