2021 年 11 月 14 日

・説教 ローマ人への手紙6章23節「永遠のいのち」

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2021.11.14

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマ人への手紙6章23節

 今日は召天者記念礼拝です。すでに、この世での生を全うし、今主の御前にある方々のことを覚えながら、私たちはこの礼拝に招かれています。

 ヨーロッパにある古くからその地域に建てられている教会は、その会堂の地下が墓所になっているというところがいくつもあります。礼拝堂の足下に家族が眠っているのです。それも、何百年という永い年月の家族が、そこに眠っています。

 バロック建築、ゴシック建築、もっと古いものだとロマネスク様式などという何百年にも及ぶ歴史の長さを覚える礼拝堂がいたるところにあります。

 私がドイツにいたときに、各地を旅して、そういう古くからある礼拝堂を訪ねることが、旅の最大の楽しみでした。何年も、何十年も、何百年も変わらないその礼拝堂の席に腰を下ろして、ステンドグラスを眺める。十字架を眺める。古くからそこにある教会の装飾品や建築物を見ながら、その歴史を感じるというのは、本当に豊かな経験です。

 そこで大きく深呼吸をします。私の出会ったことのない昔の信仰者の息遣いを感じるのです。その町の困難な時代に生きた人々がどんな人生を送ったのか、どんな病の時代を通り抜けてきたのか、どんな戦争を経験してきたのか、どんな貧しさをその土地の人々は味わってきたのか。私がその礼拝堂の中で、肌で感じられるものはわずかなものでしかありませんが、そういう歴史を肌で感じるという対話の中から、私なりに「永遠のいのち」とは何なのかというものに少しでも触れた気になるのです。

 以前、妻と「永遠のいのち」という言葉は現代人にとって福音なのだろうかという話をしたことがあります。聖書が語る「永遠のいのち」というものに、今の人々は魅力を感じていないのではないか。そんな問いかけです。

 私たちが死を迎えた後に、聖書が語る「永遠のいのち」という世界が私たちにもたらせてくれるものに対する魅力といったらいいでしょうか、憧れといった方がいいのかもしれません、この永遠のいのちは、私たちにどんな魅力を、そして憧れを示してくれるのでしょう。この世界のいのちが、死後にもずっと続くということよりも、「今この瞬間の美しさ」「今この時」というその一瞬の経験にこそ、今を生きる人々は魅力を感じているのではないか。そんなことを妻が話してくれました。

 その妻の指摘は、ある一面の真理を示しているのだと思うのです。そこには、「今この時」というその一瞬一瞬を大切に生きたいという、現代人の今を大切にする思いがあるように思います。そして、そのことは私たちが生きていくうえでとても大切なことだと思うのです。

 聖書は「永遠のいのち」を、どのように私たちに示そうとしているのでしょうか。

 先日ある本を読んでいたら、こんなことが書かれていました。

 「グランドキャニオンを撮影した写真は数多くありますが、どのような写真も、この地形の持つ真の魅力を伝えることはできません。グランドキャニオンは自分の目で直接見なければならない光景なのです」

 私もグランドキャニオンに行ったことはありません。写真や映像で知っているだけです。それらを見て、少し分かった気になります。けれども、実際にそこに行って見たことのある人は知っています。グランドキャニオンを実際に見たときに、そこで肌で感じる風や空気、空の高さ、圧倒的な目の前に広がる景色の壮大さ、それらは写真が伝えてくれるものと全く別物なのだということを。

 私たちが分かった気になれるのは、ごく一部でしかないのです。

 「永遠のいのち」もきっとそういうものであるに違いないのです。それは観念的にイメージできるものではないのでしょう。私たちが漠然と思い描く、この日常がずっと果てしなく続くというような永遠のいのちの世界ではないはずなのです。

 神と共にある今を、私たちはこの世で経験したものから部分的にイメージできるにすぎません。しかし、今この世から去って、自由を得て神の御前に召された方々は、いま主の御前で永遠の今を経験しているのです。

 私たちの憧れとは何でしょう? 私たちが思い描く、人生の終わりには何が待っているというのでしょう。

 コロナが終わったらゆっくり温泉旅館にでも行って、きれいな紅葉でも眺めながらのんびりしたい。そんな思いを持っておられる方もあるかもしれません。今、現役で必死に働いておられる方は、退職後の生活を思い描いて、今の苦しい仕事の生活から抜け出したいと願っておられる方もあるかもしれません。あるいは、人によっては正反対で、自分の晩年が退屈になることを恐れて、何とか仕事ができる道を探しておられる方があるかもしれません。

 この前の22節の終わりにこう書かれています。

その行き着くところは永遠のいのちです。

 「行き着くところ」というのはゴールということです。自分の人生のゴールになっているのは永遠のいのちである。それが、信仰に生きる先に待っているものだとパウロはここで語っています。

その行き着くところは永遠のいのちです。

 それは、自分の人生のゴールが永遠のいのちというもので、すべてが受け入れられるということです。私たちの主イエス・キリストは十字架の死の後に、墓に葬られ、三日目によみがえられました。あの、キリストに与えられた死を、乗り越えた先にあるあのいのちが、私たちのゴールなのだとパウロは語っているのです。

 それは、自分のそれまでのすべての人生の道のりが、主イエスによって肯定されるということです。「あの出来事は自分の汚点であった」「あの失敗さえなければ良かったのに」というものも含めて、その自分の人生が、主イエスの復活のいのちによって包み込まれるのです。

 誰にも知られず棺桶に入れて、墓場まで持ち込んだつもりになっていた、そんな、誰にも見せられない自分の秘め事、闇の出来事さえも、キリストが与えてくださる永遠のいのちは、そのすべてを包み込んでくれるのです。そして、その出来事の意味を作り変えてくれるのです。永遠のいのちを得るというのは、自分のこれまでの人生のすべてが、そこから輝きだすということなのです。

 だからこそ、私たちは自分の人生の終わりの時を迎えても、温泉地でくつろぎたいというような憧れよりはるかに勝る平安を、神は備えてくださっているのだということを期待することができるのです。

 しかも、その望みは、永遠のいのちのほんの一部分でしかないのです。

 きっと神と共にある永遠の時間は、どの時間も、だらだらとした無意味な時間が永遠に続くというようなことではなく、どの瞬間も輝く人生の一瞬一瞬の積み重ねのような時、喜びが待っているということではないでしょうか。だから、私たちは神の備えてくださる永遠という時に、希望を持つことができるのです。

 そして、この召天者記念の日、天の神のみもとで、永遠のいのちをすでに与えられた人たちのことを心にとめながら、この憧れの思いを、新たに思い起こすことができるのではないでしょうか。

罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

お祈りいたします。

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