2009 年 12 月 24 日

・説教 「待つことの喜び」 イザヤ書12章1節-6節・マタイの福音書2章1節-12節

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– クリスマス・キャンドルサービス 

 鴨下直樹

先ほど、いくつかのイザヤ書の御言葉を聞きました。これらの言葉は、主イエス・キリストのお生まれになる約700年ほど前に書かれたと言われています。このような言葉を耳にしながら、イスラエルの人々はキリストがお生まれになるのを待ち望んでいたのです。

 「待つ」ということは、とても楽しいことです。子どもの頃などは特にそうだったかもしれません。もうすぐ冬休みが来る楽しみ。クリスマスが来る楽しみ、お正月が来る楽しみ。さまざまなものを、本当に楽しみにし続けてきました。ところが、残念なことですけれども、大人になってしまいますと、この「待つ楽しみ」というものは次第に薄れていってしまうような気がします。なぜかと考えてみますと、様々なことを経験していくうちに、だいたい予想がつくようになるからです。「今年のクリスマスプレゼントは、これかな?」、「この冬休みはどこにもいかないんだろうな」などという具合にです。それは、とても残念なことです。

 「待つこと」というのは、本来とても楽しいことで、嬉しいことです。それなのに、期待することができない心が私たちの中に生まれてしまうのです。けれども、クリスマスを祝う心というのは、希望のある喜びを持って祝うということです。

 

 この預言者イザヤが活躍した時代というのは、ここで丁寧な解説をすることはできませんけれども、大半がイスラエルの民がバビロンという国に捕らわれていた、いわゆるバビロン捕囚と呼ばれる時期です。人々は希望を無くしていました。何をしてもうまくいかないというような、絶望と、まさに闇が支配していた時代です。どれほど働いても豊かにはならない。そもそも自分たちが何のために働いているのか、生きているのか良く分からない。そして、そのような生活の現状が回復されると思うこともできない。そういう生活をし続けていますと、だんだんとどうなってもいいという気持ちになってしまいます。そうして、どんどんと生活が悪い方に悪い方に傾いていってしまう、まさに闇の中でもがいているような時代に生きていたのです。そして、それは現代の私たちの生活の姿と重なりあいます。そういう時には、苦しいことを忘れるために、お祭り騒ぎをして嫌なことを忘れようと、そのダシとしてクリスマスが担ぎあげられます。一日騒いで、はい、おしまい。明日からはまた厳しい世界に乗り出して行く。それが私たちが生きている世界です。

 

 私たちは悲しいことがあると、お祭り騒ぎをして忘れてしまおうとします。あるいは、時間がたつことが解決をしてくれると考えることもあります。気分を高めて、悲しい気持ちを薄めたり、時間によって苦しい思いを忘れさせていこうと考える。それで、確かに忘れられることもあるでしょう。それで解決する程度のことであればいいのです。けれども、人間の心の奥深くにある闇は、そのようなもので解決を見ることはできません。

 

 預言者は語りました。

 

 その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」

 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。     (イザヤ書12章1節、2節)

 

 本当の救い、本当の解決というのは、神、主から来るのだと。そして、そのようにして与えられる救いは、感謝の思いになる。歌を歌うことができるくらいはっきりしたものになると。

 

 クリスマスツリーの一番上に、大きな星が飾られます。この星のことをベツレヘムの星といいます。普段は見えなかった大きな星が、その夜は照り輝き、東の国の博士たちを生まれたばかりのみどりごのところに導きました。この星のことをベツレヘムの星といいます。

 星というのは面白いものです。先日ある本を読んでいましたら、アメリカの天文学者が言うには、人間の肉眼でも目が良い人であれば約五千の星をみることができるのだそうです。でも、それを読んでいて思いました。いくら目が良くても名古屋にいたら数えるほどしか見えないのではないでしょうか。けれども、同じ天気であっても岐阜の山の方に行けば、ひょっとすると五千どころではなくて、もっと見えるのではないでしょうか。面白いものですけれども、星はふだんは見えませんが、そこにあるのです。あるはずなのに、色々なものが障害になって見えなくなるのです。もっともこのベツレヘムの星というは彗星だったのではないかと最近では考えられていますけれども、クリスマスの日、神はこの星を見るようにと東の国の博士たちに促されました。星はあるのです。そのことを忘れないように、クリスマスツリーの一番上に飾るのです。この星は希望の星です。救いの星です。けれども、この星が見えないということがあるのです。天気が悪ければ星が見えないのと同じように、空気が汚れていると普段見えるはずの星でも見えなくなるように、私たちの側の闇が深ければ深いほど、神が与えてくださる希望の光は見えないのです。光と闇というのはいつも相対しています。希望と絶望、苦しみや悲しも、いつも希望と相対しています。そして、それがなくなるわけでもないのです。

 クリスマスには実に多くの闇が語られています。悲しみがたくさん語られているのです。 神の子どもを生んで育てるというまだ十代であったであろうマリヤの悲しみ。自分の子どもではないのに、マリヤから生まれて来る赤ちゃんを自分の子どもとして育てるヨセフの悲しみ。貧しいがゆえに野原で羊の番をしなければならない羊飼いの悲しみ。星に導かれながら、みどりごを見つけることができず、誤って残虐な王の前にでなければならなかった博士たちの悲しみ。自らの王位が危ないと感じ、2歳以下の幼子をすべて殺すようにと命じたヘロデ王の悲しみ。そして何よりも、愛する御子を、この世界に送らなければならなかった神の悲しみ。

 そして、神はこれらの人々の悲しみを、そのまま抱えたままで、クリスマスの喜びを与えたのです。それは、クリスマスは、悲しみを抱えたものだからこそ、本当の意味で祝うことができるからです。このクリスマスの意味というのは、悲しみを喜びに変えることだと言うことができます。

 

 イザヤ書の言葉はこう続いています。

 あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」(イザヤ書12章3節-6節)

 

 イザヤは語ります。悲しみの中にいた人は喜びを経験するようになるだろうと。闇の中に、光が輝いているのを見るようになるのだと。不満ばかり口にしていたはずが、感謝の言葉を口にするようになるのです。大声で喜んで歌うことができる。 それがクリスマスにもたらされる私たちの喜びなのです。

 さきほどから、私たちは沢山の歌を歌っています。クリスマスの喜びの歌を、闇の中にあって、希望の灯を手に持ちながら。クリスマスに教会でキャンドル・サービスが行われるのは、実にそのことをあらわしています。

 共にクリスマスの喜びの歌を歌いましょう。私たちは、クリスマスの喜びが私たちの心に与えられることを待ち続けていたのです。それは、単に、時間に解決させるごまかしの平安ではなく、私の心の中に、確かなぬくもりを与える真の光です。この光のぬしである、イエス・キリストが暗闇の中で待ち続けていた私たちのために生まれてくださったのですから。

 お祈りをいたします。

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