2021 年 12 月 19 日

・説教 ルカの福音書1章26-56節「あわれみ深い主への賛歌」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:39

2021.12.19

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。

※ 本日の礼拝は洗礼式と聖餐式を行うため、LINEライブによる礼拝配信は、洗礼式の後から聖餐式の前までの部分のみです。
配信開始時刻は10時30分より遅くなります。Zoomでは礼拝全部をリモート配信していますので、可能な方はZoomでご参加ください。


 
「クリスマスおめでとうございます!」

 私たちは、クリスマスに「クリスマスおめでとうございます」と挨拶を交わします。しかし、実のところ、クリスマスの何がめでたいのか? 何のことでおめでとうと言うのか、人にとって様々な受け止め方があるように思います。

 マリアに天使が現れ「おめでとう、恵まれた方!」とみ告げを受けた時、マリアは意味が良く分からなかったはずです。許嫁のヨセフ以外の人の子どもを身ごもっているというのが、その知らせの中身だったからです。

 普通であればこの後に待ち構えているのは、ドロドロの展開と相場は決まっています。

 宗教改革者ルターはかつて「福音は奇跡というよりむしろ驚きである」と言いました。私は、このクリスマスにこの言葉の意味を深く心にとめたいと思うのです。

 私たちは、福音と聞くと、私たちの身に奇跡が起こることを期待します。クリスマスの福音は処女が身ごもったこと。この奇跡の中に福音があると考えてしまいがちなのです。けれども、マリアにもたらされた「おめでとう」の知らせの中身は、「奇跡」というよりも、むしろ「驚きの知らせ」だったのです。

 起こりえないことが、起こる。これが、マリアに告げられた知らせでした。

 私たちプロテスタント教会は、主イエスの母、マリアについてそれほど詳しく知りません。しかし、中世以降、主イエスの母マリアには七つの喜びがあったと言われるようになりました。

 その七つとは、次の七つです。

 「告知」「訪問」「誕生」そして「公現」。このはじめの四つはクリスマスにかかわることです。

 「告知」というのは「み使いがマリアに主イエスを宿すことになると告げた」ということです。「訪問」は、「マリアがその後、エリサベツを訪問したこと」です。そして、主イエスの「誕生」の後、東の国の博士の訪問を受けます。これを「公現」と言います。

 残りの3つは、主イエスが12歳になった時に家族で「神殿を訪問」した時の喜び。そして、「復活」主イエスが十字架の死の後によみがえったこと。そして、「マリアの被昇天」が最後に数えられています。この最後のものは、カトリック特有の考え方で、マリアが死を味わうことなく天に引き上げられたという伝説にもとづくものです。

 そして、今日は、マリアの七つの喜びの中でも特にこのマリアの生涯に与えられた最初の「告知」の何が喜びだったのかということを、もう一度考えてみたいと思います。

 今日は、ルカの福音書の特に第1章46節以下の「マリアの賛歌」、「マグニフィカート」と呼ばれるマリアの歌の内容に心をとめようとしています。

 み使いの告知を受けて不安の中にあったマリアは、親類のエリサベツを訪問します。エリサベツもまた、子どもができないまま、高齢になっていたのに、子どもが与えられたのです。それも、マリアと同じようにみ使いに告知を受けた後の出来事でした。

 この訪問で、マリアはエリサベツを通して神に不可能はないことを確信します。エリサベツはマリアにこう言ったのです。45節です。

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。

 この言葉に励まされ、マリアは主をほめたたえます。それが、46節以下の「マリアの賛歌」です。

私のたましいは主をあがめ、
私の霊は私の救い主である神をほめたたえます。
この卑しいはしために
目を留めてくださったからです。
ご覧ください。今から後、どの時代の人々も
私を幸いな者と呼ぶでしょう。
力ある方が、
私に大きなことをしてくださったからです。

46節から49節の途中までをお読みしました。
 すばらしい賛美です。ここでマリアは何を言おうとしていたのでしょう。マリアの不安はどのように克服されたのでしょうか。
 それが、その後の続きのことばで語られています。

その御名は聖なるもの、
主のあわれみは、代々にわたって
主を恐れる者に及びます。

 まだ続きますが、ここでマリアは「主のあわれみ」を語っているのです。

 かつて、ルターは「マリアの賛歌」についてこのように語りました。多くの人はマリアが処女であったことや、マリアの卑しさに目を留めるけれども、マリアはそのことを誇りとしたわけではなく、主のあわれみを褒めたたえたのだと。このことを間違えてはならないと言いました。それはちょうど王が乞食に手を差し伸べた時のようで、称えられるべきは乞食の卑しさではなく、王の恵み深さの方なのだと。

 マリアは、この賛歌の中で、主なる神が自分にあわれみの目を注いでくださったことを、高らかに賛美しているのです。ここで称えられているのは、あわれみ深い主です。

 先ほど、洗礼入会式がありました。この礼拝の後で、皆さんは洗礼を受けられた方にお祝いの言葉を述べると思います。もちろん、そうしていただきたいです。とても嬉しいことです。けれども、今日、私たちが特に覚えたいのは、この救いの御業を成し遂げられたあわれみ深い主に目を留めることです。この主をあがめることが、何よりも大切にされることなのだということです。

 神である主は、貧しい、まだ小さな乙女に目をかけてくださったのです。そして、今日洗礼を受けられた方や、私たちにも目をかけてくださっておられるお方なのです。

 このお方が、マリアにも、そして私たちにもまず、「おめでとう恵まれた方」と声をかけてくださるのです。救いが今、あなたのところに来た!と語り掛けてくださるのです。

 神はあなたのことを気にかけておられる。このことが、私たちにとっておめでたい知らせであり、福音なのです。

 福音とは、私たちの身に奇跡が起こることではありません。神は、自分では自分の価値も存在理由も見出すことのできないような者に、価値を見出しておられて、私を、あなたを、神の目に価値あるものなのだと知って欲しいと願っていてくださるお方なのです。

 先週、私は8人の牧師たちと2023年に岐阜で行われる第七回日本伝道会議のことをお知らせするために岐阜市市長を訪問しました。柴橋市長は自らがクリスチャンであることを公にしておられる方です。その訪問した際に、いろんな話をしてくださいました。その中で、岐阜市教育大綱を市長が記すということで、ずいぶん悩んだという話をされました。最初に提案した大綱は、不評で受け入れられなかったようで、思い悩んでいた時に、イザヤ書のみ言葉が浮かんできたのだそうです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」有名なイザヤ書43章4節のみ言葉です。

 それで、柴橋市長は、岐阜市教育大綱にこう記しました。

「学校、家庭、地域の誰もが生命の尊厳を理解し、互いに心を開く対話を重ね、一人ひとりが価値ある大切な存在として認め合う教育を推進する」

 誰もが価値ある大切な存在であることを認め合うことができるような社会にしたい。これはそのまま岐阜市の教育大綱として受け入れられ、決定されたということでした。そして、岐阜市では学校にいけなくなっている不登校の子どもたち専用の学校をつくりました。これは画期的なことです。けれども、これは、岐阜市のみに留まらす、聖書が語っている大切な一つの真理です。

 そして、この「あなたのことを主は大切な存在として見ていてくださるのだ」という知らせは、まさにこのクリスマスにマリア自身が主から教えられ気づいたことでもあったのです。

 「主のあわれみ」とルカの福音書1章50節にあります。主のあわれみのまなざしは、私たちに注がれているのです。この新改訳聖書の注を見てくださると、そこにこう記されています。「あるいは真実の愛」

 真実の愛の心を持っておられる私たちの主は、真実の愛の心で、私たちにあわれみのまなざしを向けていてくださるのです。この目が自分に向けられていることを知ったこと、それが、マリアの最初の喜びでした。聖書にしるされたマリアの最初の喜びを数えるなら、「主のあわれみを知ったこと」これがマリアの最初の喜びだったと言うことができます。

 私たちの主は、真実の愛に生きておられるお方です。この主が、私たちに、私たちがどれほどいやしくても、どれほど小さくても、どれほど無価値に思えたとしても、主はその一人に目を向けてくださり、私はあなたを必要としていると語り掛けてくださるお方なのです。この主は、マリアに語り掛けたように、今も、このクリスマスに私たちに語り掛けておられるのです。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と。

 お祈りをいたします。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.161 sec. Powered by WordPress ME