2022 年 3 月 20 日

・説教 ルカの福音書18章1-8節「私たちの祈りを聴く神」井上正彦師

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:05

2022.03.20

井上正彦

⇒ 説教音声の再生はこちら

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。

礼拝前半


 

礼拝説教から


 

 ただいまご紹介をいただきました私が津島佐織キリスト教会と北名古屋キリスト教会牧師の井上正彦です。

 私がこの芥見キリスト教会へ来始めました頃、丁度同時期ぐらいに同じ歳ぐらいの青年方が何人かすでに集っておられました。そのことを教会の方々は非常に喜んでくださいまして、当時青年だった私たちに「教会に青年が与えられるように祈っていたのですよ!」と満面の笑みで語りかけ喜んでくださいました。当時、信仰的な意味で理解ができていなかった私はその意味が十分に分からずにおりましたが、20年近く前にラジオ放送の「世の光」月間のニュースの巻頭言の原稿を依頼されて祈りつつ、その原稿を書いておりました時にふいに雷に打たれたような衝撃が走りました。

 実は私は教会へ集うようになる前から、朝早く美濃市の実家から名古屋の会社へ行く道中に毎朝ラジオ放送を聴いていました。私は毎朝、旧芥見教会会堂のある国道156号線沿いの「神は愛なり」という芥見教会の小さな電柱の看板を横目で見ていました。その看板を通過するその時間に私は「世の光」のラジオ放送を聴いていました。私は「世の光」のラジオ放送と三浦綾子の本に触れる中で、やがて私は教会へ通うことを決心して、日曜休みのある地元の工作機械の会社に転職し、芥見教会へ毎週通うようになりました。そして芥見キリスト教会は自分が毎日聴いていた「世の光」のスポンサー教会の一つであることを思い出し、私はそこに衝撃が走ったのです。私は自分の意志で教会の門を叩いたはずなのに、教会の方々の、当時見ず知らずの私たちに対するとりなしの祈りの中で、私たち当時の青年が教会に導かれて来たということを改めて感じ入ることができました。それと共に、私にとっては主なる神様にとりなしの祈りをささげることの大切さを痛感したエピソードでした。
 
 さて、本日の聖書のみことばであるルカの福音書第18章1節から8節には、一つの譬え話が出てまいります。登場人物は二人です。一人は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」です。もう一人はやもめです。この二人の背景についてもう少し詳しくみる必要があると思いますので、説明しますと、この「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」は、どうやらユダヤ人の裁判官ではないようです。当時のユダヤの法律では、何かを裁く裁判官は3名いたようです。一人は原告側から選ばれ、もう一人は被告側から選ばれ、三人目は原告、被告とは関係のないところから裁判官が選ばれて、公正な裁定が下されていたといいます。他方、一人の裁判官が裁きを下していたということは、これはユダヤ人による裁判官ではなくおそらく当時のユダヤを支配していたローマ政府の治安裁判官であったと言えます。このような裁判官は公正な裁判をすることは少なかったようで、もし裁判を有利に進めようとすると、コネクション(縁故による人間関係)と賄賂を使うのでなければ、裁判に勝てる見込みはほとんどありませんでした。逆に言えば、裁判官にとってうまい話があれば、社会的正義や通常の道理を押し曲げることぐらいは平気でやるような人たちでありました。その一つとして、主イエスが十字架の刑にかけられるかどうかの裁定を下す際、当時ローマからの総督であったポンティオ・ピラトなどはその典型例と言えます。また、6節では、主イエス自らがこの裁判官のことを「不正な裁判官」とも断定して言われていることからも、十分にこの裁判官が問題に対して、正義や道理に照らし合わせて公正に裁判するような人ではなかったことがご理解いただけるかと思います。

 他方、もう一人の登場人物は、やもめです。聖書でやもめは貧しく弱い者のシンボル(象徴)でした。社会的地位もお金もないわけですから、先の「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」の所へ行って、「私を訴える人をさばいて、私を守ってください」との願いは普通ならば聞きとどけられることありえませんでした。ところがこのやもめには一つの武器と言えるものがありました。それは「しつこさ」です。先の裁判官は5節でやもめのことを「うるさくて仕方がない」「ひっきりなしにやって来て」と言っているように、このやもめは自分を守るための裁判を行うまでこの裁判官に執拗に食らいつきました。そして最後には、この裁判官は「このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう」と思うようになります。

 ですから、ここでたとえ血も涙もないような不正な裁判官であっても、執拗なやもめの嘆願に対して根負けしたからさばきをするというのです。そうしますと、今日の聖書のメッセージは、神様を不正な裁判官として見立てて、とにかくしつこく祈れば、その祈りは聴かれるということになるのでしょうか。そうではないと、今日のみことばはその後に続いて語られます。6節では、「主は言われた。『不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。まして神は、昼も夜も神に叫びを求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。」とあります。

 ここで、不正な裁判官とやもめのやりとりも念頭に置きつつ、それを今度は主なる神と私たちとのやりとりに置き換えて考えてみよ、と言われました。そうした時、不正な裁判官でさえ、やもめのしつような嘆願を聞きとどけるのだから、まして義と愛なる私たちの父なる神は不正な裁判官とは全く異なり、神の民の祈りを常に聞きとどけてくださり、速やかにその解決を与えてくださるというのです。つまり神様の前での私たちの祈りは決して無にはされない、ということです。私たちは日常での信仰生活において、神様が私たちの祈りを聴かれないとか、祈りが本当に聴かれているのだろうかと疑念をいだくことがあるかもしれません。しかし、やもめの執拗な嘆願を不正な裁判官は迷惑しつつも自分の日頃の行いを変えてまで行動するのだから、まして、私たちの主なる神様は私たちのことを決してお忘れにも、お見捨てにもならないと言われるのです。

 私たち福音派の教会は「デボーション」(日々聖書を読み、祈り、神と交わること)ということを入門クラスや日常の信仰生活の中で強調いたします。しかし、そこで、間違ってはならないのは、この「デボーション」を行う時に、「私にとって主なる神様、主イエス様はどのようなお方であるか」という視点です。そこを見落として、聖書を読み、祈っていくと信仰生活が私たちの行動規範の修正に終始し、信仰生活自体が自分を責めるだけのものとなり、重苦しいものとなってしまいます。そうではなくて、聖書を通して、生ける神ご自身が聖書の登場人物を通しての語りかけや手紙などを通して、どのような働きかけや関わりをしてくださり、どのようなお姿で私たちに関わってくださるのかを知る時に私たちは本当の慰めをいただけるのです。

 私事で恐縮ですが、私には神様にあって慰めのみことばがあります。
それはマタイの福音書第10章30節です。

あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。

 この短いみことばは、主なる神様の私たちへの奥深い眼差しや温かな思いを想い起こさせていただけるのではないかと思います。普段、私たちは自分の髪の毛を数えたことはないと思いますし、どの髪の毛がいつ生えてきて、いつ抜け落ちるかも気にしていません。しかし、その髪の毛さえも主なる神様にはすべて数えられている。それは、主なる神様が私たちの事を私たち以上に知っていてくださり、心の思いも叫びも全てご存じの中で私たちを生かしてくださっていることに他ならないのです。
 
 私はお蔭様で26年ほど同盟福音基督教会の牧師をさせていただいています。その中で心に残る信仰者の出会いも多くありました。

 その中のお一人、Nさんという方は私たち牧師夫婦に信仰的に大きな衝撃と励ましを与えてくださいました。N姉は大正生まれで不遇な家庭環境ゆえに小学校すらろくに行くことができず、文字もあまり読めませんでした。特に信仰書などは読みたくても漢字が難しくて読めないようでしたが、聖書だけはしっかり読めました。聖書には、ほとんどの漢字にふりがなが振ってありましたので、全部読むことができたのです。彼女の聖書はかなり使い込まれて、聖書が閉じていても開いてしまうような感じでした。信仰的には、本当に素直で馬鹿正直なほどの幼子のような信仰者でした。何かあれば、「イエス様、イエス様」と祈り、未信者のご主人からは「イエス様、イエス様と気が触れたような祈りを俺の前でするな!」と始終怒られていました。

 しかし、この実直なN姉は家では雀荘を開業していましたが、日曜日の朝になると雀荘の番台をご主人やパートさんに任せ、自分は礼拝を厳守しておられました。この家庭には、大きな問題がありました。それはご主人の酷いDVと愛人の問題でした。DVに関しては、春日井の時の教会の牧師がNさんのお宅を訪問された際に夫婦喧嘩に遭遇し、そこで、ご主人が奥様のN姉に暴力を振るわれ、N姉の髪が引きちぎられた現場を見てその牧師先生は、N姉に言いました。

 「私は牧師だし、聖書では通常では離婚を勧めることはしないが、Nさん、あなたの命に危険が及ぶことになるから、今すぐにでも別れなさい」と強く勧められましたが、N姉はそのような配慮のある言葉にも首を決して縦に振りませんでした。また、このご主人は愛人にその雀荘の手伝いもさせていました。通常ならば、愛人の存在発覚で即離婚でしょうが、N姉はその愛人の存在がありながらも、そのことを受け入れ、決して離婚をされようとはしませんでした。このご主人はそれこそ神を神とも思わない方で、私たち夫婦にも小馬鹿にするような態度をよくされました。
 
 しかし、ある時、このN姉が脳梗塞で倒れてしまい、長期の入院生活になりました。

 そして、その後、奥様への介護疲れとは関係なくこのご主人は急に20キロほど痩せてしまい、病院に行った時はすでに末期がんの診断が下されました。最初のがん宣告の時には、ご主人はまだ強気で私たちを適当にあしらうようなことを言われたり、「自分は実家の墓に葬られるからキリスト教は関係ない」と雀荘の番台越しにそっけなく言われたこともありました。しかし、いよいよ、このご主人が好きなゴルフもできなくなり、好きな車も運転できなくなって寝たきりになった時、私たちはこのご主人を訪ねてご自宅の雀荘へ行きました。雀荘の玄関を開けて番台から「Nさん。Nさん」と大きな声で呼びかけますと、二階から「おーい、先生、先生」と私たちを呼ぶ声がしました。それで二階へ上がって行きますと、そこには、痩せこけて土色の顔をされたご主人が居られました。

 そこで、「私たちを呼ばれたことには、何か意味がありますか?」と問いますと、Nさんご主人は、「家内と同じところ(天国)へ行きたい。家内の信じるイエス様を信じたい」と言われました。私はすかさず「Nさん。あなたは今まで奥さんの信仰を認めるどころか、暴力を振るったり、愛人さんをこしらえて散々なことをしてきて、いまさら天国に入ろうと思っているのですか。それは少々虫が良すぎませんか」と問うと、このご主人は「今までしてきたことを悔いている。家内に謝りたい」と言われたので、「それでは、今までやってきたことの告白とイエス様と奥さんに謝罪をしてください」と伝えましたら、素直にその罪の告白と悔い改めをされました。そして「イエス・キリストの十字架によって、あなたの罪は赦された」との宣言と共に病床受洗をされました。

 その後、このNさんご主人に「どうしてイエス様を信じたいと思うようになったのですか?」と問うと、次のように語られました。「家内にはひどい言葉を吐いたり、暴力を振るってきたけれど、その度に家内はイエス様、イエス様と祈っていました。自分が元気な時には、家内の気が触れたかのような祈りを馬鹿にしていたけれど、いざ自分が死を前にしたら、家内のイエス様、イエス様という祈りの姿になんとも言えない平安を見ました。そしてこの家内には神様が生きておられる気さえする。それで自分にもあのような平安が欲しいと思ったのです」と言われました。

 その後、このNさんご主人は近隣の病院へ入院となりましたが、その際、訪問にお邪魔すると、寝たままの姿で胸あたりに手を組み、私たちの姿を見ると、人が変わったように「アーメン、アーメン」、「感謝、感謝」と言われるようになりました。以前は、私たち牧師夫婦は目障りの存在でしかなかったのが、「アーメン」と「感謝」の言葉を言われ、私たちは召される直前まで、死に備えのみことばと祈りを共にささげることができました。ちなみに「アーメン、アーメン」との発音は奥様のN姉そっくりだったのをみて、さすが夫婦だなと思いました。

 ある時、別々に入院していたN夫妻が同じ病院に入院となり、受洗後に初めて再会しました。その際に奥様に「今まで悪かった。赦して欲しい」と言いかけると、N姉は涙を流して「もういい、赦しました」と和解もできました。その後、N姉に「ちなみにご主人の救いのために何年祈りましたか?」と尋ねると、N姉はにっこり笑って「50年以上」と言われました。
 
 このことは、まさしく本日の聖書であるルカの福音書第18章1節の「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教える」ための主からの私たちへのプレゼントとしての証し(見本)ではないでしょうか。

 最後にジョージ・ミュラーという孤児院をしていた信仰者のお話です。この方はフェイスミッションと言って、どんな時も人には一切頼らず、救済依頼もせずに、みことばと祈りだけで「父よ、子ども達に日毎の糧を与えてください。」と祈りました。そして、どんな時にも孤児を養うための必要は人に頼ることなく満たされたそうです。そして、ジョージ・ミュラー曰く、生涯「5万回も祈りが応えられた」そうですが、その祈りは決して激しいものでもなく、勇壮なものでもなく、ジョージ・ミュラーと共に近くで一緒に祈っていた人によると、彼はぼそぼそと蚊がなくような声で祈っていたそうです。

 しかし、このジョージ・ミュラーの祈りは確実に主なる神様の所に届き、通算2千人以上の孤児たちが養われたということは、神様は確実にその祈りに応えられたということではないでしょうか。

 私たちの祈りも神様に聴かれており、その祈りは決して蔑ろにされるどころか、最終的には生ける神様からのお取り扱いをどの人も経験されていくのです。

 お祈りします。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.152 sec. Powered by WordPress ME