2022 年 6 月 19 日

・説教 ローマ人への手紙14章1-12節「強い人と弱い人」

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2022.06.19

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日の説教のタイトルを「強い人と弱い人」としました。

 みなさんは、自分がクリスチャンとして強い人か弱い人かと言われると、自分はどちらに属すると思われるでしょうか。多くの方は自分は弱いクリスチャンだと思っておられるのではないかと思います。

 今日、パウロがここで語っている強い人と弱い人というのは、私たちのイメージするものとは少し異なっているようです。

今日の聖書にはこう記されています。1節から3節です。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

 ここで、パウロは誰のことを「強い人」と言っているのでしょうか?

 読んでみると分かるのですが、ある人は何を食べてもよいと信じています。その人のことを強い人と言っていることが分かります。そして、ある特定のポリシーを持っている人、ここでのパウロの言いたいことを言い換えると、何かをきちんと守ることが信仰の証を立てることになると思っている人のことを「弱い人」と呼んでいるようです。

 これは、私たちの持つイメージとは逆かもしれません。これは、よくお話しすることですが、当時の肉は、異教の神にささげられた肉が市場に並ぶわけです。どうも、そういうものが大半を占めていたようです。そうすると、熱心なクリスチャンは、異教にささげた肉は食べない方がいいと考えました。それは使徒の働き15章に記されているエルサレム会議の決定でもあったわけです。それで、結果として野菜を食べるという考えを持つ人が出て来たようです。パウロはここでその考え方を、信仰の弱い人と表現したのです。

 つまり、人をさばく側に立つ人のことを、信仰の弱い人と言うのです。そして、ここからが面白いところですが、そういう弱い人を受け入れてやりなさいとパウロは勧めているのです。当時のエルサレム教会の人々や、パウロの教えに反対するユダヤ人のキリスト者が沢山いて、パウロはその人たちと常に闘い続けてきたのですが、その人たちは弱いから、そういうのであって、そこで、自分たちが売られて喧嘩を買うのではなくて、受け入れていこうではないかと勧めているのです。怒っている人、強そうに見える人に、あの人は弱いから、受け入れてやりなさいというのではない、その反対のことを言っているのです。

 今日の説教のタイトルを「強い人と弱い人」としたのには理由があります。この聖書の箇所を読んだ時に、私はすぐに、このタイトルの本のことを思い出したのです。『強い人と弱い人』というポール・トゥルニエの本です。

 このポール・トゥルニエは、スイスのジュネーブで心理療法士として働くキリスト者の医師で、たくさんの本を書いています。最も知られたものは、『人生の四季』というものでしょう。人生を四つの季節にあてはめて、それぞれの年代の特徴について記した名著です。

 この『強い人と弱い人』という本も、とても面白い考察が記されているのですが、はじめにこんな場面からはじまります。

 レストランでの出来事です。2、3歳の男の子が大声を上げて泣いています。その子どもの足元には破り捨てられた紙切れがあります。その子どもの近くで、母親は「さあ、この紙を拾いなさい」と叱っています。レストランの他の席についている人たちは、この騒がしい親子を眺めています。母親が強く言えば言うほど、子どもは大きな声で泣き叫ぶのです。

 周りの目がなければ母親は子どもを叩いたかもしれない。涙は弱い人間の武器だ。そう書いています。子どもは、レストランでは母親が他の場所のように力づくで自分を従わせることのできないことも見抜いている。また、母親がどっちみち負けるまで、この争いを続けることができないことも分かっている。トゥルニエはそう言います。

 こうして傷つけられた母親は、子どもの反抗によって二重に自尊心を傷つけられる。というのは、自分の子育てがうまくいかないことと、自分の方が歴然とした力があるのに子どもに負けたということになるというのです。

 この闘いの最後はどうなったかと言いますと、周りの目線に耐えられなくなった母親は、床に散らばった紙切れを拾いあげ、子どもを外のテラスに引きずり出したのです。そこでトゥルニエはこういうのです。子どもには母親に抵抗するだけの力はないが、明らかに彼が勝利者となった。なぜなら母親が紙を拾い上げたからだと書かれています。

 私たちはこの本を読んで、気付かされます。圧倒的に力を持つ者が強い者なのではなくて、弱い者と思っている者がけっして弱い人というわけではないということです。

 果たして強い者とはいった誰なのでしょう。弱い者とは一体誰なのでしょう。

 強く人に対して訴える人が強い人なのではないということは、この例からも明らかです。また、弱いというのは、私たちは立場が弱い者と考えがちですけれども、かならずしも弱い立場の者が弱い人ともかぎらないのです。

 パウロはここで、強い人と弱い人というものの見方ではなくて、「他人をさばく」という行為に目をとめさせています。4節です。

他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。

 パウロはここでおそらくこのさばく者のことを両者に向けて語っていると思われますが、どちらの立場の人であったとしても、その両者は、神のしもべなのだと語ります。ユダヤ人のキリスト者も、異邦人のキリスト者も、同じ主のしもべなのだというのです。

 先週の水曜日「ざっくり学ぶ聖書入門」でエペソ人への手紙を扱いました。このエペソ人への手紙はまさに、このユダヤ人キリスト者と、異邦人のキリスト者は主にあって一つの新しい共同体なのだ、それぞれがキリストのからだとして一つとなっていくのだということを語っていました。

 パウロはこの14章で語ろうとしているのは、それぞれ考え方の違いはあったとしても、互いに主のものとなっているのだということです。

 8節にこうあります。

私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

 これが、ここでパウロが最も伝えたいことです。

 祈祷会の時にも話したのですが、私がまだ青年だったころ、当時教団の青年会の集まりがかなり活発に行われていました。それこそ、頻繁にそれぞれの教団の青年たちが集まって、次の計画について話し合ったり、あるいは週末になると一緒にスキーに行ったりスポーツをしにいったりととても盛んになりました。ところが、その反面土曜日に遊び疲れた青年たちは日曜日の礼拝に行かないということが、かなりの教会に起こったのです。

 それで、その問題が牧師会などで取り上げられるたびに、当時牧師をしておりました私の父に苦情が行くようで、父が牧師たちを代表して私にそのようなあり方は本末転倒だと叱りました。私は牧師の息子ということもあって、教会の牧師たちの不満は私の所に来るようになっていたのです。

 こうなると、青年たちは肩身の狭い思いをすることになるので、ある時の話し合いで、私がそのことをみんなに注意したことがありました。教会生活があって、青年たちの活動があるので、ちゃんとそのことをわきまえて欲しいとお願いをしたのです。それから、私が事あるごとに、みんなにちゃんとしないと私が牧師たちに叱られるんだからと、注意するようになると、青年の仲間たちは私にあだ名をつけまして「裁き主、直樹」と言われるようになりました。

 そんな時に、このローマ書の14章を読んだのです。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

 なんとも言えない気持ちになります。5節や6節にはこう書かれています。

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

 私たちはこれをどう考えたらよいのでしょうか。こんなことを言われてしまうと、何にも言えないということにもなりかねません。それでなくても、モラハラだとか、パワハラというような言葉が満ちている世界です。

 大事なことは、7節。

私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。

とあるように、私たちは互いに主のために生きている、この前提に立とうということです。

 パウロはここで互いが自立した大人のキリスト者であることを前提に語っています。つまり、主のものとなっていない一般の人のことを語っているのではないのです。もし、その人が自分の信仰で立てない人であれば、その人には当然のこととして、主がどのようなお方であるのか、そして、この主のために生きるのだということを教えていく必要があります。主を知らない人にも同様です。けれども、主のものとされている人は、自分のために生きているのではないのだから、その人の考え方にについてどうこう言うことは間違っているというのです。

 自立して、信仰の自由を得ている人には、互いが信頼しあって、お互いが主のために生きているのだということを尊重していくことが必要だということなのです。

 もちろん、注意をすることが良くないわけではありません。それが必要な場合もあるでしょう。相手がキリスト者でなければなおさらです。ただ、人を裁くというのは、自分が神の側に立とうとしているということを覚える必要があります。その時、相手は悪い人という立場に追いやられてしまうのです。けれども、そうではなくてお互いに、主のために生きているのだから、そのことが分かっているのであれば、その人を裁く必要はないとパウロは言うのです。

 そのことを理解したうえで、それでも人を注意しなければならない場合があるとすれば、それはその人について話すのではなく、その事柄の話をするように注意することです。

 問題となっているテーマの話をするのであって、その人自身を攻撃する必要はないのです。これは、人間関係を健全に保つためのマナーです。
 どうしても、私たちは自分と考えの違う人の人格攻撃をしがちなのです。「あなたはこういう所があるから良くない!」と言いがちなのです。そうではなく、「このテーマについて、私はこう思う」と話せばよいのです。たとえば「土曜日に楽しく仲間たちと遊んだとしても、日曜の礼拝は大切にする必要がある」と言えばいいのです。どんなテーマでもそうです。そういう話し方をすれば、相手がクリスチャンかどうかも問題にはならなくなります。そうすれば、違う考え方も認められるし、何よりも相手個人を攻撃することにもなりません。そうすれば自分が神に代わって正義の裁きをする必要はなくなるのです。

 パウロはここでそれぞれの信仰の生き方のことを語ろうとしています。キリスト者は、お互いに主によって信仰が与えられています。強い者も弱い者も、等しく神のものとされているのです。

 キリストのものとされているのは、キリストによって裁かれた者であるということです。私たちの罪の裁きを、私たちの主イエスご自身が受け取ってくださいました。私の罪は、私が裁かれるべき部分は、主キリストが引き受けてくださったのです。

 そうなると、その私たちはキリストに借りができます。キリストに負い目ができます。借金ができるのです。そういう自分を覚えているなら、人のことをとやかく言える立場ではないでしょうとパウロはこの所で語っているのです。

それで、パウロは10節の後半からこう言うのです。

どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。

 私たちは、みなキリストに負い目のある者として、やがて主の前に出ることになる。パウロはそう言います。11節です。

次のように書かれています。「わたしは生きている――主のことば――。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は神に告白する。」

 これは、イザヤ書45章23節の引用です。イザヤ書を開いてみますと、最後の部分は「すべての舌は誓い・・・」となっています。新共同訳聖書ではこのローマ書14章11節では「すべての舌が神をほめたたえる」となっています。

 告白するという言葉は、ほめたたえるとも訳せる言葉です。また、誓うというのも翻訳としては、それぞれ違うことのように感じますが、いずれにしてもそこで考えられているのは神の前に跪いて主の御前に出るということです。これは礼拝の場面を想定しています。私たちはお互いが主の御前で、主を褒めたたえ合う者、主を告白する者、主に誓いをたてる者。そういう者同士が、どうしてこの地上の教会で裁きあっているのかというのです。

 12節。

ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。

 人によっては、この12節の言葉を最後の審判というようなイメージでとらえる人があるかもしれません。この「申し開き」というのは、弁明するということです。神様の前でお叱りを受ける時に、自分の口で自己弁護する。そのように読みます。そうすると、やはり神の御前に最後に、私たちのそれまでの罪が明らかにされて、審判されると考えてしまいます。

 けれども、この「申し開き」というのは、別の意味では神の御前で心を開くことになるということです。神様の前に、隠すことができないことがここで明らかになる。それは、隠し事を持つ人には恐れに感じますが、ここでの意図はそれだけではないのです。

 このイザヤ書の引用の前に「わたしは生きている」という言葉があります。私たちは主に私たちの心のありようをすべて知られているように生きているのです。その私たちは、主の御前で、主を褒めたたえて生きるのです。主に信仰を告白して生きているのです。その私たちは、主の前に出る時、それは平安の時であるに違いないのです。私たちが主の御前に出る時、私たちは本当にこの主によって生かされてきたのだと、主を褒めたたえるのです。そのように生かされているのだから、同じ主の前に生かされている人たちを、裁く必要はないのだとパウロは言いたいのです。

 偶像にささげた肉を食べる人も、食べない人も、主の前に受け入れられているのです。その人たちは主の者とされた人たちです。だから、私たちは教会の中で、他の人を、周りの人を批判したり、裁いたりするのではなくて、その人を受け入れて生きる。そうして、最後の時まで、主を褒めたたえて生きる。そのような生涯を、私たちは互いに全うしたいのです。

お祈りをいたしましょう。

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