2010 年 2 月 14 日

・説教 「わたしについて来なさい」 マタイの福音書4章18節-25節

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鴨下直樹

 今、総会のために準備を進めております。その総会資料が出来上がりまして、今日みなさんのメールボックスに入れられております。特に今年の総会ではこれまで私たちの教会ではまだ長老が選ばれておりませんでしたけれども、長老補が選ばれることになっております。また、さまざまな伝道計画案などが資料に出ております。特に今年の特別伝道礼拝に加藤常昭先生を講師にお招きすることになりました。加藤常昭先生は、私が神学生の頃から説教の手ほどきを受けている先生です。多くの著書や、翻訳された本などもありますので、御存知の方も少なくないと思います。教会で、毎年様々な伝道の計画を立てます。そのために祈り、備えるのは、ひとえに主イエスと一人でも多くの方が出会ってほしいと願うからです。主イエスとお会いする時に、そこに信仰が生まれます。新しい自分の生き方が示されます。そのような出会いを多くの方々に持っていただきたいと願っているのです。

 今日、私たちに与えられております聖書は、多くの人々が主イエスと出会ったこの出会いの経験が記されたところです。初めに記されているのが、主イエスの弟子となった人々との出会いです。ペテロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンデレ、また、ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネという漁師たちです。マタイの福音書で、主イエスの最初の弟子とされたのが漁師であったのは、とても興味深いことです。

 私は釣りをするという経験はあまりないのですが、子どもの頃に当時の流行った漫画の影響で何度か釣りに出かけたことがあります。家から少し離れたところでしたけれども、大きなライギョという魚がいることで知られた川があったのです。釣り糸を垂らしながら待つ。ひたすら待つのです。その間に色々なことを想像します。川底はどうなっているのか、こちら側に魚がいるのではないか、ひょっとするともっと深いので糸を長くした方がいいのではないか、そんなことをあれこれと考えながら、糸を入れたり出したりを繰り返します。すると、竿が折れるほどにしなったのです。私は大変興奮をいたしまして、周りの友達にそれこそ大騒ぎでライギョがかかったとふれ回ります。やっとのことで糸をあげると、そこには水をたっぷりと含んだ長靴がついていました。まさに漫画のような光景でした。魚を釣るということは、なかなか思い通りにはなりません。釣りをする方はそこが面白いのでしょう。色々なことを考えながら志向錯誤の末に結果を得る。そこに醍醐味があるのだろうと思います。趣味の釣りということならば、そうして楽しむことができます。けれども、それを職業にするとなるとまた話は変わります。自分の磨いた技術や経験が、そのままそれが生活にかえって来るのです。そういう意味では、漁師という仕事をするというのは、天職であるという思いがなければ続けることができません。今日のように、簡単に仕事が変えられるような時代ではないのです。家族がこの仕事をしていれば、当然、子どもたちはそれを自分の天職と受け入れて、父から業を習得していくのがこの時代の仕事でした。ですから、このような仕事を捨てて新しい仕事に就くなどということは決して簡単なことではありませんでした。ところが、ここに名前が挙げられている漁師たちはそれをしたのです。何があったのか。ここで何が起こったのか。彼らは、主イエスと出会ったのです。マタイはそれを短い主イエスの言葉だけを紹介しています。

 

 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。(18節、19節)

 

 主イエスは、私についてくるようにと呼び掛けられました。これは、聖書学者たちが口を揃えて言うことですけれども、ここで順序が逆になってしまっているといいます。というのは、本来、弟子が師を選ぶのが当たり前で、師が弟子を選ぶということはユダヤの習慣にはないことなのだと言うのです。考えてみれば当たり前のことです。私たちもさまざまな習い事をします。歌を習う。ピアノを習う。絵を習う。俳句を習う。どれもそうですけれども、この人のところに行けば上達できる、あるいは、自分が学びたいと思っているものを、この人であれば提供してくださるだろうと信じて門を叩くのです。私自身もそうです。加藤常昭という牧師の語る説教に心惹かれて、この方から学びたいとその門をたたいたのです。先生の方から、生徒に押しかけるなどということはありません。特に、ユダヤ人の場合は律法を学ぶということになりますから、先生の方から押し掛けるなどということはしないのです。ところが、主イエスはそれをなさったのです。そればかりか、この「わたしについてきなさい」と言う言葉は、「わたしと行動を共にしなさい」という強い命令の言葉で、選択の余地がないほど強い言葉なのです。このような強い言葉で主イエスが語りかけられたのは、「共に生きることがあなたにとって祝福となる」という確信がなければ言えないことです。そして、主イエスであったからこそ、そのように語ることができたと言うことができます。 

 続いて、主イエスは「人間をとる漁師にしてあげよう」と呼び掛けられます。この言葉は、主イエスなりのユーモアに違いないのですけれども、これまで魚を相手に自分の生涯をかけてきたのを、「今度は人間に対してしてみないか」という招きの言葉でした。

 彼らが働いていたのはガリラヤ湖です。大きな湖で、夜中に漁をすることが多かったようです。真っ暗な闇の中を見つめながら、ここに魚がいると願って網を放り投げる。いってみれば、常に闇と向かい合っている仕事です。ある聖書学者は、主イエスがこのように招かれたのは、暗闇の湖の底に生きる魚に向かい合っていたように、今度は暗闇の中に生きている人間と向かい合ってみないかという招きであったのではないかと言います。面白い想像です。

 西村正行というこの地域で活躍している現代アートの画家で、キリスト教美術を専門にしておられるキリスト者がおります。私事で申し訳ないのですけれども、私が神学生の頃にこの方と同じ教会で奉仕をしていたことがあります。その時にずいぶんと親しくなりまして、私たちが結婚をする時に一枚の絵を下さいました。絵の題は「種」というものなのですが、「魚」ギリシャ語で「イクトース」というシリーズの作品でした。この頃、魚のマークをテーマにしたものを何枚も描いていたのです。この絵は、西村さんの個展を見に行った時に私が大変心惹かれた作品でした。その絵があまりにも心に残ったので、そう伝えますと、結婚の時のお祝いにとこの絵を下さったのです。どういう絵かと申しますと、画面は一面様々な色が塗り重ねられていて、その上からほとんど真っ黒と言ってもいいように黒色が一面に描かれています。ところが、その真っ黒な景色は、まるで網目のようなひし形が全面をおおっていまして、その真ん中に魚の形が描かれているのです。テーマは種ですから、魚の形が横向きでなくて、建て向きに描かれている。種のような形の魚なのです。その絵はまるで暗闇の中にいた魚が、網に引っ掛かって引き上げられていく魚を描いたような構図になっているのです。それと同時に、この絵は「種」ですから、真っ暗な土に埋められた種が、ここから目を出すのだというふうにも見えるように描かれているのです。

 魚というのは、ギリシャ語でイエス・キリスト、神の御子、救い主と記してその頭文字を取ると、イクトースと言う言葉になります。それで、昔から魚のマークは救い主、主イエスを表すマークとして使われてきました。これはもちろん、後の時代になってそのような意味づけがなされたのですけれども、西村さんの作品は、主イエスによって引き上げられた魚が、まさに、神の御子、救い主、イエス・キリストによって、暗闇にいたものが捕えられ、それがまるで種のようにこれからどんな芽を出し、どのような実を実らせるのかという想像をさせているのです。まさに、ここで主イエスが漁師たちにユーモアを通して語られたことが描かれているような絵なのです。

 そのように、ここで、主イエスは暗闇の中に息を殺して生きている私たち人間を獲得したいと願っておられ、そして、弟子たちをその働きへとお招きになられたに違いないのです。

 主はこのペテロとアンデレだけでなく、つづくヤコブとヨハネをも招かれました。そして、彼らはこの主の招きに対して「彼らはすぐに船も父も残してイエスに従った」と22節に記されていますけれども、彼らは、この主イエスに応えて、仕事も父も、まさに全てのものを捨てて従っていったのでした。彼らは主との出会いに自分の人生をかけたのです。そして、従って行ったのです。

 

 つづいて23節から、主イエスの宣教が本格的に開始されていく姿が描かれています。 

 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(23節)

 主イエスはここから、いよいよ宣教を開始されたと言えます。そこで何をなさったかと言うと、大勢の群衆という言葉で記されておりますけれども、大勢の人々の所に行かれます。そこに闇を見ておられるのです。病との闘い、あらゆるわずらい事があるのです。そのように闇の底を生きている人々の真ん中に主イエスは入って行かれ、人々を直された。そして、そこで主イエスと出会った人々は、「イエスにつき従った」と最後に記されています。つまり、ここでは、主イエスの弟子と言われる人々と、群衆として描かれている二種類の人々がイエスに従うようになったことが記されているのです。

 

 けれども、そうすると私たちは考えます。主イエスを信じて従うと言っても、群衆とよばれる人々と、主の弟子たちとは従い方が違うのではないか。私たちも、この群衆のような従い方ではだめなのではないかと考えてしまうのではないかと思うのです。けれども、ここに描かれているような群衆のような信仰ではだめなのでしょうか。そうではありません。主イエスがそのような群衆を無視なさっていたとしたら、わざわざ群衆のところに足を運んだりはなさらないでしょう。主イエスはその人々の中にも信仰を見出していてくださる。そして、その中から主に従う人々の姿をご覧になりながら、主は喜んでくださっているに違いないのです。

 「献身する」という言葉を教会では時々使います。主に身を献げるのです。神学校に入学を志す人は、かならず、そこで献身の証しというものを書くことになります。その時に「入信の証し」と「献身の証し」とを二枚揃えて出します。これは、信仰と献身の決心をするのは別のことという理解から来ています。けれども、ここで主に従った人々は、弟子達も、群衆と言われる人々も、同じように主に従ったのです。そういう意味では信仰と献身ということは分けて考えることのできないことだとも言えます。もちろん、そこには色々な献身の姿があります。神学校に行って牧師や宣教師になるという献身の姿もあります。福祉の働きに献身するなどということもできると思います。けれども、だからと言って、この人は献身しているけれどもこの人はまだ献身していない、などという言い方はできません。それぞれの歩みをしていくことが、そのまま主への献身の姿だからです。主イエスを信じることと、主に従っていくことは一つの道です。私たちは誰もがそれぞれの歩みの中で、この主に応えて従っている。主はそのように、私たちの歩みを見ておられるのです。

 

 今年、伝道礼拝に加藤常昭先生をお招きすることが決まったと最初に申しました。この牧師の書いた書物に「主イエスの背を見つめて」という説教集があります。これは、ある時の説教の題がそのままこの書物の題になったのですけれども、非常に信仰の姿勢が良く表されていると思います。私たちの歩みは主の背中を見続けていくことだと言うのです。ここに信仰の歩む姿勢があります。主の背中を見ながら歩むのが、主に従う者の姿であるとさえ言えます。そのように、主は私たちに生きる道をお示しくださるのです。

 この加藤先生が、この聖書のところから説教しておりまして、こんなことを言っています。「悩みの中にあった者たちは、主イエスについて特別な知識があったわけではなかった。ただ、悩んだのです。自分の真実の解放者として主イエスに期待しただけなのです。それを信仰と呼び、それを信仰と呼び、褒めて下さいました。そういう信仰もあるのです」と。

 主イエスは私の苦しみを救ってくださるに違いないと期待し、主イエスに従ってゆく。それもまた、主イエスは信仰と呼んで下さるのです。この信仰は立派だとか、このような従い方ではだめだというのではなくて、ただ、主が呼び掛けて下さった。家族が病を抱えている。自分に問題を抱えている。闇の中を歩んでいる。そのような自分だけれども、主イエスの背中を見つめながら歩んで行きたいと願い、主に期待し、主に従っていく。そういう歩みもあるのです。ただ、主がわたしに呼び掛けて下さったのだから、わたしはこのお方の姿を見上げながら歩む、そういう信仰を主は褒めてくださるのです。

 主は、人々を御国の福音へと招いてくださいます。それは、あらゆる患いや病からの癒しであったとしても、そこから進んで、天の御国で生きているような、神の御支配の中に生きることができるようにと私たちを招いてくださるのです。その出会いから、神の御業が起こるのです。そのように、私たちは主イエスと出会っているのです。最初は、自分の闇しか見えていない場合もあるでしょう。自分の悲しみにしか目が向かわないことがあるのです。そういう時というのは、常に自分の悲しみに閉じこもってしまいますから目先のことしか見えません。目先にあるのはただの暗闇です。じっとその暗闇を見つめることになる。神が、どのようなことをお考えであるか。神の御国に生きるということがどういうことかは、聞いているようで耳に入ってこないのです。けれども、主イエスと出会う時に、私たちは、自分の見つめていた闇から引き離されます。あなたが見ているのは、自ら作りだした闇ではないか。私が闇の中を生きているあなたを、暗闇の底をはいずりまわっていあなたを網で救いあげてやろうと、そこから私たちを引き離すのです。そのような出来事が、主イエスとお会いする時に起こるのです。そうすると、主のもとにいることがどれほど明るく、慰めに満ちているかが見えて来るようになるのです。それは、主の背中を見つめがら歩み続けているうちに、見出されるということもあるでしょう。主が網を打ち、私たちに声をかけ、私たちに救いをもたらそうと強いて下さっているのですから、私たちは暗闇の中から抜け出ることができるのです。主と出会うなら、主に従っていくのです。主の背中を見つけ続けて行くのです。そこにかならず、幸いな道があるからです。

  多くの聖書学者たちは、このマタイの第4章の最後の段落、特に23節からすでに山上の説教の土台が作られていると言います。このマタイの福音書第5章から第7章までは、山上の説教と言われる、主イエスが大勢の人々にお語りになった説教が紹介されております。この説教は「こういうものは幸いです」と、幸いの言葉を何度も重ねながら、神の国に生きることがどれほど幸いかを語り聞かせてくださるのです。主は、幸いを私たちに告げるために、暗闇の中にいる私たちを救い出し、導かれるのです。

 主の御姿を見るのです。主の背中を見続けながら、このお方に従っていくのです。自分の置かれている状況のままで、主はその生き方を、あなたは立派な信仰に生きていると呼び掛けてくださる。そして、このお方を見上げ続けていく時に、このお方が私たちに備えてくださっている幸いに、私たちも生きることができるのです。

 主は私たちが暗闇の中に生き続けることを願ってはおられません。そして、私たちがそこから抜け出すことも必要だと願っておられる。だから、「あなたもわたしについて来なさい」と招かれるのです。そこに主が約束された幸いがある。「わたしに付いてこればその幸いをあなたは見るだろう」と、主は私たちに御自身の背中を見せながら歩んでくださるのです。その私たちは、まだ、暗闇の中にいると思えたとしても、そこにはイエス・キリスト、神の御子、救い主が信仰の種を私たちの心に播いてくださった。だからその闇は、やがて豊かな実を実らせる、豊かな大地となるのです。主イエスにはそれがおできになるのです。

 

 お祈りをいたします。

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